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第24話 港に落ちた影
しおりを挟む港町の風は、塩の匂いがする。
塩は生活の匂いだ。汗の匂いだ。魚の匂いだ。働く手の匂いだ。
王城の香木とは違う。
だからこそ、ここに“嘘”が混じるとすぐ分かる。嘘は甘い匂いを連れてくるから。
窓枠に滑り込んだ紙片を握りしめたまま、私は机に向かった。
ペン先が紙に触れる前に、胸の奥が一度だけ冷える。
『港町で“王女の妹”の噂、早い。誰かが追ってる』
早すぎる。
ミレイアが王城を出たことは、公式には「療養の旅」で処理した。真実はごく限られた人間しか知らない。
なのに港で噂になっている。
つまり、誰かが流している。
拾わせるために。
ルーナが私の顔色を見て、言葉を選ぶように口を開いた。
「セレス様……港へ、すぐに動かれますか」
「動く。でも、派手に動かない」
私は指先で紙を整え、机の端に置いた。
整えるのは癖だ。感情が揺れるほど、手は“形”を求める。
「監査の網とは別に、港の連絡網を作る。役所の印を使わない。使えば相手もそこを追う」
「……王城の名前を出さずに、ですか」
「出さない。出した瞬間、ミレイアは“王女”に戻る。彼女が欲しいのはそれじゃない」
ルーナが小さく頷いた。
頷きが速い。もう迷わない速度だ。
扉が控えめにノックされ、侍従のロランが入ってきた。
若いのに顔が硬い。こういう時、硬さは信頼になる。
「女王陛下。王室補佐官アレクシス卿がお待ちです」
「通して」
アレクシスは入ってきてすぐ、一礼した。 以前みたいな“柔らかい笑顔”が減っている。代わりに残っているのは、寝不足の影だ。
「陛下。港の件、聞きました」
耳が早い。
耳が早いのは、便利でもあり、怖くもある。今の王城はまだ“穴”が多い。
「どこから?」
「監査官代理の机に回った連絡です。施薬院の薬が足りない件が、港の流通に繋がっています」
私は頷いた。
薬草流通の穴。宰相が消えた後に残った、まだ湿った歯車。
「ちょうどいい。港へ行く。あなたは表で動く。私は影を動かす」
「……陛下が港へ?」
アレクシスの声が少しだけ上ずった。
心配の音だ。心配はありがたい。でも、私は守られる側に戻らない。
「私が行くのは“会議”として。臨時の医療供給会議。議会の手続きを踏む。誰にも止めさせない」
アレクシスが唇を噛み、すぐに頷いた。
「分かりました。命令書は私が起案し、副署を入れます。女王の委任状も添付します」
「お願い」
私は視線を上げ、彼をまっすぐ見た。
「あなたは“穏便”を選ばなくていい。手続きを選んで」
アレクシスは一瞬だけ目を泳がせ、それから小さく息を吐いた。
「……努力します」
「努力じゃなくて、実行」
少しきつい言い方になった。
でも今は、それでいい。優しさは制度で残せる。甘さは穴になる。
ロランが控えめに咳払いして、視線で確認する。
「女王陛下、出立の準備を」
「夜明け前に。護衛は最小限。名目は視察」
「承知しました」
ロランが去り、扉が閉まる。
静かになった執務室で、ルーナがぽつりと呟いた。
「……ミレイア様、怖いでしょうね」
「怖いよ。だから、怖いままでいい。だけど――一人にしない」
私は窓辺に小さな石を置いた。
王家の影に向けた合図。
私が呼ぶのではない。必要な場所を示すだけ。影は勝手に動ける。
*
夜明け前の港町は、まだ眠っていない。
魚市場の灯りが揺れ、濡れた木の板がきしむ音がする。
潮が引く音と、どこかの犬の遠吠え。
働く人間の朝は、王城の朝よりずっと正直だ。
私は質素な外套を羽織り、馬車から降りた。
護衛は少数。顔を隠すためではなく、目立たないため。
アレクシスは少し遅れて別の馬車で到着した。
彼の方は“表”だ。役所と組合を動かすのは彼の仕事になる。
「陛下、会場の準備は整っています」
彼が言う。
声の硬さが、覚悟の硬さになりつつある。
「ありがとう。私は先に港を見てくる。会議は一刻後に」
「……分かりました。ですが単独は――」
「単独じゃない」
私は微かに目配せした。
建物の影。
積まれた木箱の向こう。
そこに“いないはずの気配”がある。
カイ。
彼は姿を見せない。
見せないことが、彼の優しさだ。 優しさを優しさの形で出すと、影は死ぬ。
私は港の路地へ入った。
潮と油と、安い香水が混ざった匂いがする。最後の匂いが嫌だ。甘い匂いは嘘だ。
角を曲がった先、小さな食堂の裏口が開いていた。
そこから、細い背中が出てくる。
淡い色のマント。髪はまとめられ、飾りはない。
でも歩き方がまだ少しだけ、王城の“きれいさ”を残している。
ミレイア。
私は足を止めた。
呼びかけない。ここで「ミレイア」と呼べば、彼女の新しい生活を壊す。
代わりに、背後から近づいてきた影が先に動いた。
「……おい」
カイが、路地の入口に立った。
黒い外套。目だけが光る。
彼の声は小さいのに、空気を変える。
ミレイアがびくっと肩を揺らし、振り向く。
一瞬、恐怖の顔。
それから、私を見つけて――呼吸が詰まる。
「……お姉、さま」
声が揺れた。
揺れたままでもいい。揺れたのは、彼女が今“自分”で立っている証拠だ。
私はゆっくり近づき、距離を保ったまま言った。
「……元気?」
「元気、って言うと嘘になる」
ミレイアは苦く笑った。
笑いが幼い。だけど前より正直だ。
「でも……生きてる」
その一言で、胸の奥が少しだけほどける。
「名前は」
私が聞くと、ミレイアは視線を落としてから、ぽつりと言った。
「……ミア。ここではそう呼ばれてる」
「いい名前」
「……変かな」
「変じゃない」
私は短く言った。
褒めすぎない。褒めると、彼女はまた“飾り”になる。
ミレイアが小さく頷いた、その瞬間だった。
路地の向こうから、足音が増える。 四人。いや五人。 革靴の音。港の労働者の靴とは違う音。踏みしめ方が違う。
ミレイアの顔が青くなる。
「……来た」
「誰?」
私が問うと、彼女は唇を噛んだ。
「私を雇ってるって言ってきた人の……仲間。昨日から、変だった。笑い方が……宰相府の人みたいで」
宰相府。
残党が動いている。港の薬草流通と繋がっているなら、狙いは二つだ。 ミレイアの身柄と、女王を揺らす材料。
つまり私は――釣り針にされた。
カイが、ため息みたいに息を吐いた。
「姫さん。下がれ」
「下がらない」
私は即答した。
逃げない。逃げると、相手は味をしめる。
「でも剣は抜かない」
カイが目だけで笑った。笑っていないみたいな笑いだ。
「抜かなくても折れる」
足音が路地の入口に迫る。
先頭の男が、わざとらしく声を張った。
「おいおい、ミアちゃん。どこ行くんだよ。雇い主に挨拶もなし?」
ミレイアの肩が震える。
震えを隠そうとしない。隠さない方がいい。怖さは、ここでは武器になる。
「雇い主、って」
私が口を開くと、男たちがこちらを見た。
私の顔を知らないはずなのに、気配で分かる。王城の人間の匂いがするからだ。
「……誰だ?」
男が眉をひそめる。
その瞬間、カイが一歩前へ出た。
「通行人」
「はぁ?」
「通行人だ。だから通れ」
短い。
荒い。
なのに、空気が冷える。
男たちが一瞬怯む。
怯んだところへ、私は言葉を落とした。
「その子は“雇われた”記録がある?」
男が笑った。
「記録? そんなもん――」
「あるなら見せて。ないなら、誘拐未遂になる」
男の笑いが止まる。
法律の言葉は、港でも効く。効かないふりをする人間ほど、実は効く。
「誰がそんな――」
「今、この港で臨時の医療供給会議を開く。流通組合も呼んだ。役所も来る。そこで聞く」
男の目が細くなる。
会議。組合。役所。
表が動いていることを、彼は嫌う。
「……チッ。めんどくせぇ」
男が舌打ちした瞬間、カイが動いた。
速い。
でも派手じゃない。
男の足首に何かが当たる音がして、男がよろけた。倒れない。倒れないが、次の一歩が出ない。
「何しやが――」
「静かに」
カイの声が落ちる。
落ちた声は、怒鳴り声より怖い。
「ここで騒げば、港の衛兵が来る。来たら、お前らの顔は残る。顔が残れば、組合は切る」
男たちの顔色が変わる。
切られるのが怖い。
末端ほど、切られるのが怖い。
私はそこに、最後の釘を打った。
「あなたたちは“誰”に雇われたの?」
男が口を開きかけ、閉じた。
言えば切られる。言わなければ捕まる。
逃げ道が狭い。狭いほど、人は本音を落とす。
「……流通組合の、下の者だ」
出た。
小さな吐息みたいな本音。
私は頷いた。
「なら、ちょうどいい。会議で組合の名簿を確認する。薬の流れも。そこにあなたたちの名前があるかどうか」
男の喉が鳴った。
名簿。
名前が残るのは、彼らにとって死刑宣告に近い。
「……行くぞ」
男が仲間に合図し、退こうとする。 その背中に、カイが淡々と言った。
「一つだけ」
男が振り返る。
「ミアを追うな。次は足首じゃ済まない」
男が顔を歪めて去っていく。
路地に残ったのは潮の匂いと、ミレイアの浅い呼吸だけ。
ミレイアが膝から崩れそうになり、私は手を伸ばしかけて止めた。
抱きしめると、彼女はまた“守られる側”に戻る。
必要なのは支えじゃなく、立つ場所だ。
だから私は、椅子代わりに木箱を示した。
「座って。息を整えて」
ミレイアは頷き、木箱に腰を下ろした。
指が震えている。唇も震えている。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
私は即答した。
「これは、あなたのせいじゃない。あなたを餌にする歯車が悪い」
ミレイアが涙をこぼした。
泣き方が静かだ。声を出す癖がまだない。
宰相の檻の中で、泣き声を殺してきた子の泣き方。
「……怖かった」
彼女が言った。
言えた。
それだけで、鍵がまた少し回る。
「怖いままでいい」
私は言った。
「でも、次の“怖い”は一人で抱えない。連絡網を作る。ここに味方を置く」
ミレイアが目を上げた。
「味方……?」
私は頷いた。
「あなたを“王女”として囲わない味方。あなたを“ミア”として扱う味方」
カイが壁にもたれたまま、ぽつりと言う。
「姫さん。会議、始まる」
「うん」
私はミレイアに視線を戻した。
「一つだけ聞く。ここで働きたい?」
ミレイアは少し迷い、それから小さく頷いた。
「……働きたい。逃げるだけじゃ、また誰かの人生になるから」
その言葉が、痛いほど正しい。
「なら、働ける形にする」
私は立ち上がった。
「あなたの“名前”を守る」
ミレイアが目を見開く。
「名前……?」
「偽名は偽じゃない。ここで生きるために選んだ本名になる。選んだものは、守る価値がある」
ミレイアの目に、涙が溜まったまま光が入る。
光が入ったのを確認して、私は背を向けた。
背を向けるのは冷たいからじゃない。
彼女が立つ場所を残すためだ。
*
港の倉庫を借りた臨時会議は、空気が乾いていた。
乾いているのに、汗の匂いが濃い。利害がぶつかる匂いだ。
流通組合の代表が、薄い笑みで頭を下げる。
「女王陛下。港の混乱、誠に遺憾で――」
「遺憾はいい。数字と手続きを出して」
私が淡々と言うと、代表の笑みが固まる。
アレクシスが横に立ち、起案書を机に置いた。
委任状の封印が、確かに押されている。
「本会議の議事録は記録官が残します。薬草流通の仕入れ変更、在庫、契約、全て提出を」
アレクシスの声は硬い。
硬さが、役目になっている。
組合代表が口を開きかけた瞬間、私は先に言った。
「施薬院の薬が足りない。これは“運”じゃない。三日前に仕入れ先が変わった。誰が決めた?」
代表が目を泳がせる。
「それは……市場の都合で……」
「都合の名前を出して」
沈黙。
沈黙は嘘の形だ。
その時、会議室の隅で扉が僅かに開いた。
ロランが顔を出し、私にだけ分かる角度で頷く。
――カイが動いた。
私は組合代表を見つめたまま、ゆっくり言った。
「名簿を出して。今すぐ」
代表の喉が動く。
逃げ道を探す顔。
でも逃げ道は狭い。
「……分かりました」
紙束が出てきた。
名簿。
契約者名。
下請け。
運送の名前。
私はその中に、いくつかの“同じ匂い”を見つけた。
宰相の子飼いの時代から名前を変えた会社。筆跡の癖が同じ。
穴は名前を変える。中身は変わらない。
私は赤線を引いた。
ここで止める。
ここで塞ぐ。
その時、遠くで鐘が鳴った。
港の鐘。出航を知らせる鐘。
――ミレイアの船ではない。
もっと嫌な予感の鐘だ。
ロランが近づき、小声で言った。
「女王陛下。港の外れで、身元不明の死体が上がったと……」
会議室の空気が、一瞬だけ止まった。
死体。
それはいつも、歯車が“黙れ”と言う時に出る。
私はペンを置いた。
指先が冷える。
でも目は逸らさない。
「……行く」
アレクシスが顔を上げる。
「陛下、会議は――」
「続けて。あなたが回して」
私は短く言った。
「表は止めない。止めた瞬間、影が勝つ」
カイの気配が、入口の外で濃くなる。
彼も同じことを考えている。
私は外套を掴み、会議室を出た。
港の風が、塩の匂いの奥に別の匂いを混ぜていた。
鉄の匂い。
血の匂い。
港に落ちた影は、まだ終わりじゃないと告げている。
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