妹に全て奪われて死んだ私、二度目の人生では王位も恋も譲りません

タマ マコト

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第25話 名もない死体の名前

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 死体は、嘘をつかない。

 口を閉じることはできても、匂いは隠せない。 
 血の鉄臭さ。海水の塩。濡れた布の重さ。
  それらは、言い訳より先に現実を突きつけてくる。

 港の裏手、網の修繕小屋の前に、人だかりができていた。 
 朝の喧騒とは違う、低いざわめき。  誰も大声を出さない。 
 大声を出した瞬間、次に死ぬのが自分だと知っているざわめき。

 私は外套の襟を少し上げ、護衛に目だけで合図した。

「剣は抜かない。近づく。触れない」

 護衛が短く頷く。 
 剣を抜かない方が怖い時もある。  ここはその時だ。

 ロランが一歩前に出て、人垣を割った。

「女王陛下が通る。下がれ」

 声は硬いが大きくない。 
 怒鳴らない。港の恐怖を刺激しない。 
 それでも人は道を開ける。 
 開けてしまうのは、王家の力でもあるし、今この国が“力に従う癖”をまだ残している証拠でもある。

 小屋の前。 
 粗い麻布が一枚、地面に敷かれている。 
 その上に、ひとつの塊。

 人間。

 濡れている。 
 服は港の労働者のものに見える。  だが靴が違う。革が柔らかい。歩く場所を選ぶ靴だ。

 私はしゃがんだ。 
 石の冷たさが膝に刺さる。 
 冷たい方がいい。熱は判断を鈍らせる。

 港の衛兵が震える声で言う。

「女王陛下……今朝、潮だまりに引っかかって……」

「誰が見つけた?」

「網の回収に出た者です。……すぐ、組合の者が来て」

 組合。 
 言葉が、喉の奥をひりつかせる。

「触った?」

「いえ……触るなと言われて……」

 言われた。 
 誰に。 
 それを問えば、彼は潰れる。

 私は視線を上げずに言った。

「よく触らなかった。ここから先は私が引き取る」

 人垣がざわめく。 
 引き取る、という言葉は恐い。 
 でも恐さには方向がいる。 
 方向がない恐さは噂になる。噂は穴に入る。

 足音が近づく。 
 重い足音。迷いのない足音。

 カイが小屋の影から現れた。 
 黒い外套のまま、顔だけがいつもより硬い。

「……姫さん」

 ここでは“女王”と呼ばない。 
 その選び方が、彼の礼儀だ。

「見た?」

「見た。……この死体、港の人間じゃない」

「私もそう思う」

 私は麻布の端を指先で少しだけ持ち上げた。 
 触らない。風を入れるだけ。 
 匂いが鼻の奥を刺す。

 潮の匂いの下に、甘い匂い。

 胸が一瞬だけ冷える。 
 前世の記憶が、舌の裏に金属臭を浮かべる。

 私は息を止めずに言った。

「……甘い」

 カイが短く頷く。

「毒の匂いだ。酒じゃない。薬草の甘さ」

 港の衛兵が顔色を失う。 
 彼は“聞いてはいけない”言葉を聞いた顔をする。

 私は立ち上がり、ロランに目配せした。

「医師を。今すぐ。あと記録官」

「既に呼んでおります」

 ロランの返事は速い。 

 速いのは準備の証拠だ。 
 準備ができているということは――この国の中で、私に付く側の歯車が増えたということでもある。

 人垣の中、震える声がした。

「……女王様、これ……組合が……」

 中年の男だ。 
 網の修繕をしていた手。指の節が太い。 
 勇気があるというより、限界が来ている顔。

 私は男を見た。 
 責めない目で。

「名前は?」

「……トビアスです」

「トビアス。今の言葉、もう一度言って」

 男が唾を飲み込む。

「組合が……この辺りの者に……口止め、して……」

 ざわめきが広がる。 
 誰かが男の腕を掴んで止めようとした。 
 その瞬間、カイの視線が動いた。

 掴んだ手の主はすぐに離す。 
 影の視線は、刃より早い。

 私はトビアスに頷いた。

「ありがとう。あなたの口は、今から私が守る」

 男の目が見開かれる。 
 守ると言われるのに慣れていない顔だ。

 私は続ける。

「ここにいる全員。今日の件は“噂”にしない。噂にすれば、次の死体が増える。だから記録にする。名前を残す」

 名前。 
 人は名前が残ると、逆に死ぬ時もある。 
 でも、名前が残らなければ最初から生きていないのと同じになる。

 医師と記録官が到着した。
 医師は白衣ではない。港用に地味な外套。 
 この国の医療がまだ“装い”より中身を選べていないことが、少しだけ救いだった。

「女王陛下。検分を」

「お願いします。ただし、ここでできる範囲に。移送は私の命令で行う」

 医師が頷き、手袋をはめた。

 麻布がゆっくり外される。 
 顔が見えた。

 若い男。 
 二十代後半くらい。 
 目は半開きで、乾いた恐怖が残っている。 
 海に落ちたのではない。落とされた顔だ。

 首元に、細い痕。 
 縄ではない。細い糸か、紐。 
 そして、唇の端に――薄い茶色の染み。

 私はそれを見た瞬間、胸の奥が痛んだ。

「……口から?」

 医師が低く言う。

「可能性は高いです。吐瀉の痕。口腔内にも刺激痕があります」

 毒。 
 甘い毒。 
 酒に混ぜるタイプではなく、薬草を溶かしたタイプ。 
 港の流通に乗せられるやり方。

 カイが、小さく呟いた。

「……消され方が“宰相府”だ」

 宰相は拘束された。 
 でもやり方は残っている。 
 やり方は人よりしぶとい。

 医師が男の胸元から、濡れた紙片を取り出した。 
 紙片はぐしゃぐしゃで、インクが滲んでいる。

「……これは」

 記録官が身を乗り出す。

 医師がそっと紙片を広げる。 
 完全には読めない。 
 でも、いくつかの文字が残っている。

『……合 ……名簿 ……港 ……女王』

 胃が冷えた。

 この男は、“名簿”を運んでいた可能性がある。 
 流通組合の名簿。 
 あるいは残党の名簿。 
 それが私の手に渡る前に、消された。

 私は息を吸って、吐いた。 
 怒りを飲み込むためじゃない。 
 怒りを“手続き”に変えるためだ。

「ロラン」

「はい、女王陛下」

「港の出入り記録を押さえる。今朝から三日分。船荷の一覧、荷主、受取人。全部」

「承知しました」

「監査官代理にも通達。今日は会議を続けさせる。組合代表を逃がさない」

 ロランの目がわずかに揺れる。 
 港の組合は強い。逃がさないのは、燃える。 
 でも燃やすのではない。囲う。

「囲えますか」

 ロランが小声で聞く。

「囲える形にする。議事録に残す。召喚状を出す。逃げたら逃げたで、逃げた記録が残る」

 ロランが頷いた。

 私はトビアスに視線を向けた。

「あなた、さっき“口止め”と言ったね。誰が、どうやって?」

 トビアスは震えた。 
 震えたまま、言った。

「……袋です。米と、薬。いつもより多い。『黙ってりゃ家族も腹は減らねえ』って」

 袋。 
 配給と同じやり方。 
 人を黙らせるのに、剣は要らない。  胃袋を握ればいい。

 私は頷いた。

「その袋を受け取った者は、罪ではない。生きるために受け取った。それは責めない」

 人垣が揺れる。 
 安心の揺れ。 
 責められないなら、口が開く。

 私は続けた。

「でも、袋を配った者は別。そこに名前がある。名前を出して」

 沈黙。 
 怖さが戻る。

 その時、ミレイア――いや、ミアが、人垣の端に立っているのが見えた。  顔色が悪い。 
 でも逃げていない。

 彼女の目が、死体に向いている。  瞳が揺れている。 
 王城の毒の夜を知っている目だ。

 私は彼女を見ないふりをした。 
 見れば“王女が助けに来た”になる。  彼女の足場が崩れる。

 代わりに、カイがすっと動き、ミアの前に立った。 
 彼は小さな声で何か言い、ミアがゆっくり頷く。 
 影が、彼女の呼吸を守っている。

 人垣の中から、別の声が出た。 
 若い女だ。施薬院で見た“声を押し殺す癖”が、まだ残っている。

「……組合の下っ端が……名前、呼んでました」

 私は視線を向ける。

「誰の名前?」

「……“セルジュ”って」

 セルジュ。 
 知らない名前ではない。 
 宰相府の書類に、端に出ていた名だ。  流通と帳簿を繋ぐ、薄い糸。

 私はカイを見た。

「知ってる?」

「港の顔役のひとり。表向きは運送業者。裏は……残党の連絡役」

「捕まえられる?」

 カイが一瞬だけ黙る。 
 それから短く言った。

「捕まえるより、吐かせる方が早い」

 吐かせる。 
 物理じゃない。情報を吐かせる。  影の言葉だ。

 私は頷いた。

「やって。私は表を動かす」

 カイは私の目を見て、短く答えた。

「了解」

 その瞬間、ミアが小さく前に出た。  人垣の端から、ぎりぎりの距離まで。

「……女王陛下」

 呼び方が、選ばれた呼び方だ。 
 妹として呼びたいのに、今はそうしない。 
 それが彼女の成長だと分かるから、胸が痛む。

 私は振り向いた。 
 表情を変えない。

「何?」

 ミアの唇が震える。

「……この人、昨日、食堂に来ました」

 空気が止まる。

「何を?」

「……水を。ずっと水を飲んでた。喉が焼けるって……言って……」

 喉が焼ける。 
 遅効性の毒。 
 前世の私の喉も、焼けた。

 私は一歩だけ近づいた。 
 近づきすぎない。 
 でも、聞き逃さない距離。

「名前は聞いた?」

 ミアが首を振る。

「言わなかった。でも……手紙を持ってた。濡らさないように抱えてた。……誰かに渡すって」

 手紙。 
 名簿。 
 この男は“渡す側”だった。 
 渡せなかったから、死体になった。

 私は息を吐いた。

「分かった。よく言ってくれた」

 ミアの瞳が揺れる。 
 褒められたいのではない。 
 怖いまま口を開いたことを、否定されたくない瞳だ。

「怖かった?」

 私が聞くと、ミアは小さく頷いた。

「……怖かった。でも、見なかったことにしたら……また、戻る気がした」

「戻らない」

 私は短く言った。 
 それは命令じゃない。約束だ。

 ロランが近づき、耳元で囁いた。

「女王陛下。会議室から急使です。組合代表が退席を求めています。『急な船便が』と」

 来た。 
 逃げる気だ。

 私は目を閉じない。 
 閉じたら、過去に戻る。

「退席は認めない」

 私は言った。

「召喚状をその場で渡せ。退席したら即、拘束ではなく“監査保全”の対象にする。書類も船荷も凍結」

 ロランが頷く。

「承知しました」

 私はミアに視線を戻した。

「あなたはここに残る?」

 ミアは迷った。 
 迷いは当たり前だ。 
 生き残るために迷うのは、健全だ。

「……残りたい。でも、怖い」

「怖いままでいい」

 私は言った。

「ただし、ここに残るなら――一人で立つんじゃない。立つための足場を作る」

 私はロランに目配せし、短く指示した。

「この港の施薬院と食堂に、王城ではなく“監査機構”名義の相談窓口を置く。今日から」

「はい」

 ミアが目を見開く。

「……そんなの、すぐに?」

「すぐに。遅いと死体が増える」

 私は言い切った。

 医師が低い声で言う。

「女王陛下、死因の仮判定は……毒物。禁制薬草由来の可能性が高いです」

 私は頷いた。

「記録に残して。名前が分かるまで、この人は“名もない死体”じゃない。“名を探すべき死者”だ」

 記録官が震える手で頷き、ペンを走らせる。 
 ペンの音が、小さく、でも確かな音で鳴る。

 人垣が静かに揺れた。 
 怖さだけの揺れではない。 
 “残る”ことへの揺れだ。

 私はふと、死体の顔を見た。 
 若い。 
 まだ何かをやり直せる年齢だったはずだ。

 ――間に合わなかった。

 胸が痛む。 
 でも、痛みで止まらない。

 カイが、小屋の影から戻ってきた。  視線が鋭い。

「セルジュ、港の外にいる。逃げ道の船を用意してる」

「逃がさない」

 私が言うと、カイは短く頷いた。

「俺が足を止める。姫さんは、名簿を取れ」

「名簿はアレクシスが押さえる。私は手続きを固める」

 カイが鼻で笑った。

「役割分担、うまくなったな」

「死なないためにね」

 私が言うと、カイの目が一瞬だけ柔らかくなる。 
 でもすぐに戻る。 
 影は、柔らかさを長く持てない。

 私はロランに言った。

「会議室へ戻る。ここは――」

 私は言葉を切って、もう一度死体を見た。

「……ここは記録官と医師に任せる。誰も触らせない。見張りを」

「承知しました」

 ミアが小さく呟いた。

「……この人、怖かったのかな」

 私は答えなかった。 
 答えられない。 
 でも、その問いが出たことが大事だ。
  彼女の世界に、他人の痛みが入ってきた証拠だから。

 私はミアを見た。

「怖かったと思う。でも――怖いまま、何かを渡そうとした」

 ミアの目に涙が溜まる。

「……私も、そうなれるかな」

「なれる」

 私は短く言った。

「あなたが選べば」

 選ぶ。 
 それは彼女の言葉になった。

 *

 会議室へ戻ると、空気がさらに乾いていた。 
 組合代表の席が少し引かれている。
 逃げる準備をする人間の距離だ。

 アレクシスが立っていた。 
 机の上に紙が並び、封印が置かれている。 
 顔は硬いが、逃げていない。

「陛下。召喚状と保全命令、用意しました」

 私は頷いた。

「出して」

 組合代表が笑みを貼ろうとする。

「女王陛下、これは大げさでは――」

「大げさなのは、港で死体が出たこと」

 私は淡々と言った。

「そしてその死体の口に、禁制薬草の痕があること。あなたの“都合”より、こっちが先」

 代表の顔色が変わる。 
 知らないふりをする顔ではない。
 知っているけれど、知らないふりをして生きてきた顔。

 私は机に赤線を引いた。 
 真ん中に、一本。

「ここから先は、流通組合ではなく、国家の監査対象。逃げたら、あなたの名前は“逃げた”と記録される」

 名前。 
 それは処罰ではない。 
 事実だ。 
 事実は、人を追い詰める。

 組合代表の喉が動いた。

「……女王陛下、何が望みですか」

 望み。 
 その言葉は、昔の宰相の匂いがする。 
 取引の匂い。

 私は静かに答えた。

「望みは一つ。港で死ぬ理由を消すこと」

 アレクシスが、組合代表の前に命令書を置く。 
 封印の音が、乾いた室内に響く。

 その音を聞きながら、私は胸の奥でひとつだけ言葉を整えた。

 名もない死体に、名前を返す。 
 それは弔いではない。 
 次の死体を作らないための、骨組みだ。

 外では潮の音がする。 
 港の朝は続く。 
 続くからこそ、止めるべき歯車も回り続ける。

 私は目を逸らさずに、ペンを持った。

 今日から、港の恐怖は噂じゃなく、記録になる。
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