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第26話 名簿は嘘をつかない
しおりを挟む名簿というものは、嘘をつかない。
正確であるかどうかは別として、必ず「誰かの都合」を正直に映す。
消したい名前は消されるし、残したい名前は残る。増やしたい椅子は増え、守りたい穴は守られる。
朝の執務室は静かだった。
窓を開けると、王都の音が薄く流れ込んでくる。荷馬車の軋む音、遠くの呼び声、石畳を打つ靴音。どれも平和な音だ。だからこそ、机の上の紙束が異物のように重く見えた。
私はその一番上に置かれた封筒を見つめていた。
封はすでに切られている。切ったのは私だ。だが、中身を読む前から、嫌な予感だけが残っている。
「……これが?」
ルーナが小さく頷いた。徹夜明けの目だ。けれど目を逸らさない。
「港湾管理組合の名簿です。昨夜、匿名で届きました。送り主は不明ですが……紙と印は本物です」
私は封筒から紙を抜き取り、広げた。 名前。役職。倉庫番号。担当区域。 整然と並んだ文字列は、どこにでもある帳簿と変わらない。けれど視線を滑らせるうちに、胸の奥がじわりと冷えていく。
「……多すぎる」
「はい」
ルーナの声も低い。
「宰相失脚後に“再編されたはず”の港の人員です。ですが、削られた形跡がありません。むしろ……増えています」
私は指で一行をなぞった。
――死亡扱い。三年前。
なのに、今月の「夜間監査補助」として名前がある。
別の行。
――施薬院向け、医療物資の搬入担当。
港の倉庫番号が、先週から急に変わっている。
さらにもう一つ。
――孤児院向け「雑貨搬入」。
雑貨のはずなのに、倉庫は冷蔵管理の区画。
ばらばらの点が、紙の上で静かに繋がり始める。
「……宰相がいなくなっても、歯車は回り続ける」
そう呟くと、ルーナが唇を噛んだ。
「止めたつもりで、止まっていなかった、ということでしょうか」
「いいえ」
私は名簿を閉じた。閉じると、紙の音がやけに乾いて響いた。
「止めたから、形を変えただけ」
沈黙が落ちる。
この静けさは、嵐の前のものだ。
扉がノックされた。
「女王陛下」
入ってきたのは、王付き侍従のロランだ。年若いのに、所作が乱れない。乱れないのは、乱してはいけない空気の中で育った証拠でもある。
「王室補佐官アレクシス殿が、お時間を頂きたいと」
私は一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。
「通して」
名簿を机の端に置く。
まだ開いてはいけないページがある。けれど、隠しても消えない。
ロランが扉を開けると、アレクシスが入ってきた。
以前より肩が軽そうに見えるのに、目の奥は落ち着かない。笑顔はある。けれど笑顔が仕事になっていない。
「陛下……お早うございます」
「お早う。座って」
アレクシスは一礼し、椅子に腰を下ろした。膝に手を置く形が丁寧すぎて、逆に緊張が透ける。
「忙しいのは分かっている。でも今朝、議会側が騒ぎ始めた」
「何を?」
「“港の再編に王室が口を出しすぎだ”と。貴族院の数名が、港湾管理組合に肩入れしている」
私は机の端の名簿に視線を落とした。
「……当然、出る」
アレクシスが少しだけ息を吐いた。肩の力を抜くような、抜けないような息。
「陛下の監査は正しい。だが正しいだけでは通らないところがある。彼らは“生活”じゃなく“利”で動く」
「知ってる」
私は淡々と言った。
「だから、利で動く手続きを作る。正しさは、手続きを通る形にして初めて生き残る」
アレクシスは頷く。頷き方が、以前より速い。
逃げずに聞いている。そこは変わった。
「それで、提案がある。港の監査を、王室監査ではなく“独立監査機構の予備運用”として実施したい」
私は目を上げた。
「予備運用?」
「名目は“試験導入”。本運用の前に、現場で手順を整えるという形にする。そうすれば、貴族院も反対しにくい。彼らが嫌うのは“王室の直撃”であって、“制度の整備”という建前なら飲み込みやすい」
やっと、彼が「調整役」の言葉を話している。
穏便のためではなく、前へ進むための調整。
「……いい。誰を立会いに?」
「監査官代理マルセル卿は、正直まだ信用が薄い。だから、現場の立会いには第三者を入れるべきだ。たとえば――」
「ユリウス卿」
私が言うと、アレクシスは少し苦く笑った。
「真っ先に思い浮かぶのが、それだ。彼なら“書類が歩く”」
「歩かせる。動かさないと腐る」
私は言いながら、名簿を指先で叩いた。
「アレクシス。あなたは今日、港へ行ける?」
アレクシスが目を見開いた。
「私が?」
「あなたが行けば、貴族院は“王室が直接握っている”と騒ぐ。でも同時に、港側は下手に動けない。あなたは表で足止めをして。その間に私は、名簿の穴を拾う」
「……陛下、それは危険だ」
「危険は向こうから来る」
私は立ち上がった。
「だから、こちらから握る」
ルーナが一歩前に出る。
「セレス様、護衛を――」
「増やす。でも剣は見せない。今日は剣じゃない。紙と印と、目」
ロランが小さく咳払いをした。存在を主張しないようにしながら、必要なことだけ言う声音。
「女王陛下、港へ向かわれるなら、馬車の手配と通行許可の書面を直ちに整えます」
「お願い」
「かしこまりました」
ロランが去る足音が消えると、執務室の空気が少しだけ締まった。
私はアレクシスに視線を向けた。
「役目は分担する。あなたは“政治の視線”を引き受けて」
アレクシスが小さく笑った。笑いの中に、覚悟の色が混ざる。
「……陛下が私に向ける言葉は、昔の“穏便にしろ”とは違うな」
「穏便は、穴を広げるだけ」
私は淡々と返した。
「あなたは穴を塞ぐ側に立つ。立てる?」
アレクシスは一瞬だけ黙り、それから頷いた。
「立つ」
その返事は震えていなかった。
珍しい。人は変わる。変える気があれば。
*
午前、王都の港。
潮の匂いと、魚と、濡れた木材の匂いが混ざっている。生活の匂いだ。数字の匂いではない。
その匂いの中に、甘く腐った油の匂いが混じる瞬間がある。利権の匂い。
私たちは目立たない馬車で来た。
アレクシスは別行動。あえて豪奢な馬車で港湾管理組合へ向かった。視線を集めるために。
「陛下、こちらです」
案内役の港の役人が、背中を丸めて先を歩く。顔が青い。誰かに睨まれている顔だ。
「名前は?」
私が問うと、役人は言いにくそうに答えた。
「……トマスでございます」
「トマス。今日はあなたを責めない。見せて」
トマスはほっとしたように息を吐いて、それでも周囲を気にして歩く。
倉庫群の間を抜ける。
ところどころに新しい鍵。新しい錠。新しい封印。
宰相が消えた後に、“誰か”が慌てて作り直した跡だ。
ルーナが名簿を開いて、小声で囁いた。
「セレス様……この区画、名簿では“冷蔵管理”ですが、実際の札は……」
「雑貨」
私は札を見た。
木札には雑貨と書いてある。だが扉の隙間から冷気が漏れている。
雑貨が冷える理由は一つしかない。
「……薬」
トマスがびくっと肩を跳ねた。
「し、知りません! 私は指示通りに――」
「知ってるかどうかじゃない。記録がどうなってるか」
私は鍵を指差した。
「誰が管理?」
「港湾管理組合の……監督官、だと」
名簿をめくる。
監督官の欄にある名前。
――ヴァイン。
その名前を見た瞬間、胸の奥が少しだけ冷たくなった。
前に、どこかで見た。
薬草流通の商人名簿の端。
宰相府の“印”が付いていないのに、なぜか通る書類の端。
ルーナが小さく息を呑む。
「この名前……」
「覚えがある」
私は頷いた。
「歯車だね。宰相じゃない。宰相の後ろで回ってた歯車」
トマスが震える声で言った。
「陛下、ここは……触れると、港の人間が……」
「だから、手続きを作って触る」
私はロランが持ってきた封筒を取り出した。
王家印。独立監査機構の予備運用名目。立会い者欄は空白のまま。
「トマス。この封印を開けるのは、あなたの仕事じゃない。私の仕事」
トマスの目が揺れる。信じられないという顔だ。
責任が上から落ちてくるのではなく、上が引き受ける光景を見たことがない目。
私はルーナに言った。
「ロランに伝えて。ユリウス卿の立会いを急いで」
「はい!」
ルーナが走る。
その瞬間、倉庫の奥で、木箱が倒れる音がした。
ガタン、と重い音。誰かが慌てた足音。逃げる気配。
「……誰かいる」
護衛が一歩前へ出る。
私は手で止めた。
「追わない。今は中身」
追えば火がつく。火がつけば、証拠が燃える。
私は燃やされるのを知っている。前世で燃やされたのは、私の未来だった。
私は倉庫の扉に手を置いた。
冷たい。冷たいのに、掌が熱い。
その時、窓枠に当たる乾いた音がした。
カツン。
私は顔を上げる。
港の倉庫の梁の影。
一瞬だけ黒が揺れた。
カイ。
紙片が、風に乗って落ちてくる。
『港、来て正解。名簿の“死んだ奴”が動いてる。あと、南の港町。女王の妹を追う影、船に乗せる気だ』
胸がきゅっと締まった。
ミレイアの背中に影が伸びている。予想はしていた。けれど、文字で突きつけられると痛い。
私は紙片を握り潰しそうになって、やめた。
潰したら、感情に飲まれる。感情は武器にもなるが、今は刃を鈍らせる。
私は息を吸い、吐く。
潮の匂い。油の匂い。生活の匂い。
「セレス様……」
トマスが不安げに私を見ている。 護衛も固い。港の空気が、音もなく荒れてきている。
私は言った。
「二つ同時にやる」
護衛が目を見開く。
「陛下――」
「ここは開ける。でも燃やされる前に、記録を押さえる」
私はロランから受け取った別の封筒を取り出した。
王家印の臨時命令書。内容は短い。
「トマス。港の出入り記録――三日前から今日まで、全部提出。紙と写し。今すぐ」
「い、今すぐ……?」
「今すぐ。遅れたら、遅れた理由も書く」
トマスが震えながら頷く。
「は、はい……!」
私は護衛に視線を向ける。
「倉庫の周りを固める。でも剣を抜かない。抜くと火がつく。火をつけたいのは向こう」
護衛が歯を食いしばって頷いた。
「……承知しました」
そこへ、遠くから馬車の音が聞こえた。
車輪の音が速い。急いでいる。
ユリウスの馬車だ。
間に合う。間に合えば、紙は燃えにくくなる。
ユリウスが降りてくる。
顔は硬い。目が速い。状況を一瞬で掴む目。
「陛下」
「立会いをお願い」
「承知しました。……開けますか」
「開ける」
ユリウスが頷き、封印の確認に入る。 封印の蝋に傷はない。だが蝋の色が新しい。最近、付け替えた色だ。
「……やはり、触っている」
ユリウスの低い声。
「触った奴は、隠したいものがある」
「だから、ここで開く」
私は言った。
怖い。けれど怖さに名前がある。名前があるものは抱えられる。
封印が割れる音がした。
蝋が砕け、乾いた音が倉庫の壁に吸い込まれる。
扉が開く。
冷気が、顔に当たった。
雑貨の匂いではない。薬草の匂いでもない。
もっと人工的で、甘くて、鼻の奥に残る匂い。
保存剤。
加工薬。
そして――紙。
中には木箱が積まれていた。
箱に刻まれた印は、港のものじゃない。
宰相府でもない。
見覚えのない、しかしどこかで見た紋。
ルーナが青い顔で呟く。
「これ……輸入印です」
「国外?」
ユリウスが箱を一つ撫で、硬い声で言った。
「……薬草だけではありません。加工済みの抽出液です。流通を握れば、解毒も毒も握れる」
喉の奥がひりついた。
毒の夜の記憶が、嫌なほど鮮明に戻る。
宰相を拘束しても、毒の手口は残る。 残党がいる。資金がある。港がある。
私は名簿を開き、ヴァインの行を指で叩いた。
「……これが、歯車の中心」
その瞬間、倉庫の外で叫び声がした。
「火だ!」
空気が一気に熱を帯びる。
油の匂いが濃くなる。布が燃える匂い。焦げる木の匂い。
――燃やす。
証拠を。
護衛が動こうとする。
私は叫ばない。叫べば、混乱が燃料になる。
「水桶を! 人を下がらせて! 通路を作る!」
指示は短く、具体的に。
混乱に言葉を増やさない。
ユリウスが即座に吠えた。
「記録官を呼べ! 箱の印と数量を今ここで控えろ!」
ルーナが震える手で紙を広げる。 震えているのに、書く。書けるなら、生き残れる。
私は倉庫の入口に立った。
煙が目に染みる。涙が出そうになる。けれど泣かない。
泣いたら、また“女の弱さ”にされる。今は弱さを見せない。
その時、倉庫の梁の影が動いた。
黒が落ちるように降りてきて、燃えかけた布を蹴り飛ばした。
火種が外へ弾ける。誰かの手が伸びる前に、黒がその手首を掴む。
「……遅い」
短い声。
カイだ。
カイは捕まえた男を床に押さえつけた。
男は港の労働者の服を着ている。だが靴が新しい。腕の筋が違う。焚き付け役の体だ。
「こいつ、火をつける係」
カイが淡々と言う。
「名簿に名前ある。偽名で三つ」
私は一瞬、息が止まりかけた。
名簿は嘘をつかない。
嘘をつくのは人間だ。だから名簿には、人間の嘘が残る。
私はカイに近づき、男の顔を見た。 目が泳いでいる。噛む前の獣の目。
「誰の指示?」
男は唇を噛んで黙る。
カイが男の耳元で低く言った。
「言わないなら、次は妹の船だ」
男の目がぎょっと開いた。
私はカイを見た。
カイは短く頷く。つまり、繋がっている。
港の歯車と、ミレイアを追う影が。
胸の奥に冷たいものが落ちる。
同時に、決める。
私はルーナに言った。
「ミレイアの移動経路。港の出入り記録と照合。名前を変えた旅券も全部拾う」
「はい!」
ルーナが走り出す。
私はアレクシスの方角を思った。 彼が今、政治の視線を引き受けている。
その間に私は、ここで火を消している。
分担は、機能している。
ユリウスが私の隣で低く言った。
「陛下。これは……港だけでは終わりません」
「終わらないね」
私は煙の向こうの倉庫を見た。
箱の印。加工液。新しい封印。
そして名簿の死んだ名前。
「でも、終わらせる」
私は名簿を閉じた。
紙は重い。けれどこの重さが、逃げ道を塞ぐ。
名簿は嘘をつかない。
だから私は、嘘が残る名簿を武器にする。
火は消せる。
煙は薄れる。
でも、紙に残った名前は、逃げない。
そして――逃がさない。
倉庫の外で、潮風が煙を引き裂いた。 裂けた煙の向こうに、港の水平線が見える。
あの海の先に、妹がいるかもしれない。
あの海の先に、影が伸びているかもしれない。
私はペンを握る指に力を込めた。
守る。
今度は、遅れない。
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