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第27話 倉庫番号は夜を選ぶ
しおりを挟む倉庫番号は、嘘をつかない。
嘘をつくのは、帳簿の方だ。
帳簿は紙の上で整いすぎる。整いすぎた瞬間、現実の方がどこかで削られている。
朝の執務室。窓を開けても空気が重いのは、春の湿り気のせいだけじゃない。
私は机の上に名簿を広げ、指で倉庫番号をなぞっていた。
「……ここ、また同じ」
ルーナが覗き込み、喉を鳴らす。
「孤児院の搬入記録と一致しています。施薬院の臨時仕入れにも……」
「港の倉庫番号が、配給の“要”になってる」
要になっているのに、誰も話題にしない。
現場の人間は疲れている。役所の人間は書式を整えて満足する。噂を嫌う貴族は、静かであることを“善”だと思い込む。
そして静かに、物だけが消える。
扉がノックされた。
「女王陛下。王室補佐官アレクシス殿が」
ロランの声だ。若いのに落ち着いた声。最近、彼の声には余計な震えがない。
王城の空気が変わって、彼も変わった。
「通して」
アレクシスが入ってくる。白い書類束を抱え、いつもの柔らかな微笑みはあるのに、目が逃げない。
逃げない目ができるようになったのだと、私は思った。
「忙しいところを、すまない」
「忙しいのはいつも。座って」
言い方が少し硬いのは、わざとだ。
私は今、優しさで人を丸めるより、形で人を動かしたい。
アレクシスは椅子に座り、机の名簿に視線を落とした。
「……港の名簿か」
「倉庫番号が繋がった。孤児院と施薬院、それと港の中継点」
アレクシスは指先で顎をなぞり、短く息を吐いた。
「そこへ女王直属で踏み込むのは、悪手だ」
ルーナが思わず反論しかけて、でも言葉を飲み込む。
私も同じ気持ちだ。踏み込みたい。目の前の穴を塞ぎたい。
けれど、アレクシスの言葉は正しい。
「踏み込んだ瞬間、荷は消える。関係者は“知らない”で揃う。倉庫は倉庫の顔をして、夜だけ別の顔を隠す」
私は視線を上げた。
「知ってるの?」
「……前に、そういう仕事を見た。宰相府の“穏便”の処理だ」
言葉の端が少しだけ痛んでいる。
彼にとっても、穏便は便利な盾だったのだろう。盾は、守るけれど見えなくする。
アレクシスが続ける。
「王宮が動けば、相手は“王権の横暴”と叫べる。叫べば、民の目は混乱する。混乱すれば、夜はさらに濃くなる」
「じゃあどうする?」
アレクシスは躊躇わずに言った。
「隙間を使う」
「隙間?」
「民間商会。港湾管理。監査官。……それぞれの権限の隙間に、夜の荷は落ちる。落ちるなら、隙間から掬う」
私は少しだけ眉を上げる。
「具体的に」
アレクシスは書類束から一枚抜き、机に置いた。
港湾管理の規程。民間の保管契約。監査の立入条件。どれも“正しい”が、どれも“逃げ道”がある。
「まず、民間商会に“夜間保管の実地確認”をさせる。王宮ではなく、商会の監査だ。商会が動くのは利害のためで、政治じゃない」
「商会が協力する?」
ルーナが小さく言った。疑いの声。
私も疑う。商会は金に動く。
アレクシスは頷いた。
「動く。なぜなら、荷が“消える”のは商会にとっても損だからだ。消える荷は、責任の所在が曖昧になる。曖昧は市場を壊す」
言葉が現実的だ。
彼の得意な“穏便”が、今は“制度の道具”になっている。
「次に港湾管理に、倉庫の夜間稼働の届け出を突き合わせさせる。届け出がないなら、夜の稼働は“規程違反”だ」
「規程違反で止めれば、荷は消える」
私が言うと、アレクシスは首を振った。
「止めない。止めるのは最後だ。まず、動かして“道筋”を見える形にする。夜の道筋を昼の言葉で囲う」
私はペンを取った。
囲う。囲って、逃げ道を塞ぐ。
火を消すのは叫びではなく、囲いだ。
ロランが静かに入ってきて、耳打ちする。
「女王陛下。監査官代理マルセル卿より、報告書が届いております」
「置いて」
私は封筒を受け取り、机の端へ寄せた。
今は、紙を増やすより、紙の中の“夜”を掴みたい。
「ルーナ」
「はい」
「孤児院と施薬院の、搬入担当者の名をもう一度洗って。港の倉庫番号と突き合わせる。書式じゃなく、生の控えも」
「分かりました」
ルーナが走る気配を残して出ていく。
今の彼女は、走ることを恥だと思わない。恥を捨てた人間は強い。
アレクシスは少しだけ顔を曇らせた。
「……妹君の件もある」
「知ってる」
窓枠に滑り込んだ紙片。港町で“王女の妹”の噂。追う影。
名前を変えたとしても、匂いで追われる。
「僕の役目は、王宮の顔を整えることだ。だが今は、もう一つ。女王が“民間を使う”ことの批判を減らす」
「批判?」
「王宮が商会を動かすと、貴族は必ず言う。『利権だ』と。『私物化だ』と」
私は息を吐いた。
「言わせておけばいい」
「言わせるだけでは、夜が肥える」
アレクシスが珍しく強い口調で言った。
私は少しだけ目を細める。
「……あなた、変わったね」
アレクシスは苦く笑った。
「変わらざるを得ない。君が変えたから」
君、という呼び方に違和感はある。
でも今は、距離を詰める時間じゃない。制度の距離を守る時間だ。
「じゃあ、手続きを整えて。商会監査が入る口実と、港湾管理が突き合わせる根拠。全部、紙で」
「任せて」
その返事は軽くない。
軽くない返事が、今の彼の価値だ。
*
昼過ぎ。窓枠に小さな石が当たった。
カツン、と乾いた音。私は誰にも気づかれないように窓を少し開ける。
紙片が滑り込む。短い字。
『倉庫番号、合ってる。夜にだけ動く。孤児院、施薬院、港の三点が一本。中継点は“第七埠頭・第三倉”。帳簿に載らない荷、今夜出る』
胸の奥が冷たくなる。
確信が輪郭になると、人は震える。
私は紙片を握りしめ、机の名簿に視線を落とした。
第七埠頭・第三倉。名簿の倉庫番号と一致している。
ルーナが戻ってきた。頬が赤い。走った赤だ。
「セレス様。搬入担当、二つの名前が……妙です」
「妙?」
「孤児院の方は“退役”扱い、施薬院の方は“別部署へ異動”扱い。でも、どちらも同じ筆跡で押印も同じ。……同じ人が書いてます」
退役、異動。
便利な言葉。名前を消すための言葉。
「本当に退いてる?」
ルーナは首を振る。
「いいえ。民間の控えには、同じ男が“夜の荷受け”の署名をしています。名前が違いますけど……癖が同じです」
名前が違う。
でも癖は嘘をつかない。
つまり彼は“死んだ”ことになって、別の名前で生きている。
「……本当に死んだ人はいない」
私は呟いた。
それが何より残酷だ。生きているのに、名だけが殺される。
ロランがまた入ってくる。
「女王陛下。商会側より返答です。『夜間保管の損失確認のため、立会いを希望』とのこと」
「動いたね」
私はアレクシスを見る。
アレクシスは小さく頷いた。
「動かした。商会にとっては“損失”が一番早い」
「港湾管理は?」
「規程の突き合わせは今日の夕刻。立会い名簿は“監査官代理”の名で出す」
マルセル卿。
彼がどこまで信用できるかは分からない。
でも、紙の上では使える。紙の上で使えないなら、切るだけだ。
私は机の端に置いていた封筒を開ける。マルセル卿の報告。
そこには短い一文があった。
『第七埠頭周辺の夜間巡回、近頃頻繁に妨害あり。港湾管理の一部に抵抗者』
抵抗者。
歯車が噛み合わずに音を立てている。
私はペンを持ち、紙に赤線を引いた。
ここで止めるための線。
でも、今夜は止めない。
今夜は、見送る。
*
夜。王都の外れ。第七埠頭。
海の匂いは昼より生々しい。湿った木材、腐りかけた縄、塩と油。夜は正直だ。
私は黒い外套を羽織り、ルーナとロラン、そして護衛二名だけで馬車を降りた。
アレクシスは“表”に残った。残らなければ、明日の紙が作れない。
「セレス様……ほんとに、見るだけですか」
ルーナの声が震えている。
怖さの震え。怒りの震え。両方。
「見るだけ」
私は短く答えた。
「踏み込めば終わる。終わるけど、終わらない。歯車が別の穴に逃げる」
ロランが小さく頷いた。
「陛下、商会の立会人は後方に待機しています。姿は見せません」
「いい」
今夜の役目は“押さえる”じゃない。
“見て、形にする”だ。
影が、倉庫の屋根の端で揺れた。
カイだ。夜に溶ける黒。
彼は声を出さず、指で合図する。
――来る。
第三倉の扉が、音もなく開いた。
中から出てくるのは荷車。布を被せた箱。
灯りは最小限。人影は多すぎない。
慣れている動き。夜が日常の動き。
私は息を止めないように、ゆっくり吸った。
潮の匂いの奥に、薬草の乾いた匂いが混じる。
「……薬」
ルーナが口元を押さえた。
施薬院の匂いを、彼女も覚えている。
荷車が動く。
男たちの声が小さく交わされる。
「急げ。夜明け前に片付ける」
「帳面は?」
「いらねえ。夜は“帳面の外”だ」
その一言が、胸に刺さった。
夜は帳面の外。
それが、この国の腐り方だ。
護衛が身を動かしかける。私は手を上げて止めた。
「動かない」
「陛下、今押さえれば――」
「押さえたら、これで終わる」
私は護衛を見る。
目で命令するのではなく、理由を渡す。
「終わったふりをされる。末端だけが捕まる。明日から荷は別の倉庫に移る。薬はまた足りなくなる」
護衛の顎が固くなる。
悔しさが見える。正義の衝動が見える。
でも正義は、時々、敵より単純だ。
荷車は倉庫を出て、暗い路地へ消えていく。
追えば追える。捕まえれば捕まえられる。
でも私は追わない。
カイが影から滑るように戻ってきた。
小さな声だけ落とす。
「姫……いや、陛下。追う?」
「追わない。尾をつける」
「尾は俺が」
「お願い」
お願い、という言葉に、カイがほんの一瞬だけ目を細めた。
王がお願いを使うのは弱さじゃない。
影にとっては、信頼の印だ。
「……任せろ」
カイは夜に溶ける。
溶けた後に残るのは、潮の匂いと、静かな怒り。
ロランが低い声で言う。
「陛下、商会側から合図。夜間保管の“現物確認”の証拠を確保したと」
「良い」
私は倉庫の扉を見つめた。
昼間ならここは合法の顔をする。
税の紙が貼られ、規程の札が下がり、管理者が丁寧に頭を下げる。
でも夜だけ別の顔を持つ。
悪人がいるからじゃない。
夜だけ別の仕組みが、ここにあるからだ。
ルーナが震える声で言った。
「セレス様……見逃したみたいで、苦しいです」
「見逃してない」
私は彼女を見る。
「今夜は“見た”。見たことが、明日からの刃になる」
ルーナの涙が滲む。
彼女は怒っている。悔しい。怖い。
でも目を逸らさない。彼女の強さは、ここにある。
「……わたし、書きます。全部」
「うん。書いて。削らないで」
私は夜の海風を吸い込み、吐いた。
冷たい。
冷たいから、嘘が剥がれる。
遠くで荷車の軋む音が消えていく。
夜は選んだ。倉庫番号が夜を選んだ。
そして私は決める。
この夜を、昼の手続きの中へ引きずり出すと。
踏み込まないのは臆病だからじゃない。
踏み込まないのは、仕組みを逃がさないため。
私は名簿を思い出す。
名簿は嘘をつかない。
夜の顔を持つ倉庫番号は、必ず次の番号へ繋がる。
「帰るよ」
私は言った。
「この夜を、明日の紙に閉じ込める」
馬車へ向かう足音が、石畳に落ちる。
軽くはない。
でも迷いの音ではない。
夜を見送った分だけ、私は逃げ道を減らした。
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