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第35話 責任という名前の椅子
しおりを挟む記録は、怒らない。
怒らないまま、逃げ道を消す。
声を荒げなくても、刃になる。
朝の執務室。
窓から入る風は冷たく、机の上の紙は湿って重かった。
ルーナが束ねた記録を置く。
紙の角が、机に当たって乾いた音を立てた。
「出席記録、まとまりました」
「……見せて」
私は一枚目を指で押さえ、目を滑らせた。
公式会合。
出席者、欠席者、遅刻者。
理由欄――空白が多い。整っているのに、気味が悪い。
次に、別紙。
非公式会合の推定記録。
場所は、貴族の別邸。
日時は、公式会合と同じ時刻。
出入りした馬車の家紋。
侍従の名。
供された酒の発注先。
名簿にないのに、痕跡だけは残る。
「……差が、綺麗すぎるね」
私が言うと、ルーナが小さく頷いた。
「はい。欠席の家の馬車が、ほぼ同じ時間に同じ邸へ……」
「“何もしない”が、揃ってる」
そこへ扉がノックされた。
「女王陛下。王室補佐官アレクシス殿が」
「通して」
アレクシスが入ってくる。
以前の柔らかい微笑みは残っているのに、立ち方が少しだけ変わった。
逃げ道を探す足ではない。板の上に立つ足だ。
「おはよう。……いや、陛下」
「おはよう。座って」
彼が椅子に腰を下ろすと、ルーナが一礼して下がる。
扉が閉まった。
静けさが落ちる。
静けさは、いつでも嘘を暴く。
「見た?」
私が記録を軽く持ち上げると、アレクシスは目を伏せずに頷いた。
「見た。……“怒ってない反対派”が、ここまで露骨だとは思わなかった」
「怒らない方が、やりやすいからね」
私は紙を机に戻した。
「怒ったら、理由が要る。怒ったら、言葉が残る。……彼らは、残したくない」
「残したくないのは、責任だ」
アレクシスの声が低くなる。
「出席しない。押印しない。反対もしない。賛成もしない。そうすれば、次に何が起きても『私は知らない』で済む」
「そう」
私は短く頷いた。
「干ばつは、嵐より人を殺す」
沈黙が少しだけ続いた。
アレクシスが息を吐く。
「……それで、どうする?」
「椅子を置く」
「椅子?」
「権限じゃない。責任の椅子」
私は引き出しから一枚の草案を出した。
まだ清書していない。赤字だらけだ。 でも赤字は、血じゃない。修正の跡だ。
「新しい役職を提案する。“決裁責任官”」
アレクシスの眉がわずかに動く。
「権限は?」
「増やさない。むしろ減らす。拒否権だけ与える」
「拒否権?」
「拒否はできる。でも理由を書面で残す」
私は指で草案の条文を叩く。
「期限もつける。拒否なら拒否で、三日以内に理由を出す。出さないなら、拒否は無効になる」
アレクシスが苦く笑う。
「……優しい顔して、逃げ道を塞ぐ制度だな」
「逃げ道は必要だよ」
私は淡々と言った。
「逃げ道がない制度は、暴力になる。……でも、“責任から逃げる道”は要らない」
アレクシスは草案に目を落とした。 指が一行をなぞる。
「『何もしないことも、選択として記録される』……ここが効く」
「うん」
私は頷いた。
「“何もしない”は、誰かにやらせることだから」
誰かに、皺寄せが行く。
現場に、民に、弱い部署に。
それが今までの王宮だった。
アレクシスは顔を上げる。
「反対派は騒ぐよ。『女王の権力強化だ』って」
「騒がない」
私は即答した。
「騒げない。権力は増やしていない。責任を見えるようにしただけ」
アレクシスの目が細くなる。
理解の目だ。
彼は言葉を選び、そして言った。
「……君は、本当に“処刑”をしないな」
「しない」
私はペンを取り、草案の末尾に短い一文を書き足した。
「処刑は、物語を終わらせる。私は終わらせたいんじゃない。戻したい」
扉がノックされる。
王付き侍従ロランが入ってきた。
年若いのに表情が硬い。報告の匂いがする。
「女王陛下。議会側より……本日の評議の前に、各家から“事前の意見聴取”を求めると」
「意見聴取?」
「はい。形式上は協力的ですが……時間を引き延ばす意図も見えます」
私はロランを見た。
彼の目は揺れていない。
この侍従は、もう“怖いまま目を逸らさない”側にいる。
「分かった。逆に使う」
「逆に?」
「聴取の時間を、出席記録の確認に使う」
ロランが一瞬だけ瞬きをする。
「……陛下、出席記録を?」
「“誰がどこにいたか”は、ただの事実。事実の確認なら、誰も怒れない」
ロランが頷き、一礼して下がる。
扉が閉まり、私は椅子の背に体重を預けた。
疲れはある。
でもこの疲れは、毒じゃない。
「アレクシス」
「うん」
「あなたも、今日は議会に出る」
アレクシスの肩が少しだけ固くなる。
「……補佐官として?」
「補佐官として」
「前に立つのは、君だ」
「私は立つ」
私は言った。
「でも、橋は一本じゃ足りない。あなたが架ける橋がある」
アレクシスはゆっくり頷いた。
「……分かった」
その返事には、逃げの響きがなかった。
彼はまだ弱い。
でも弱いまま、橋を架けられるなら――それは役目になる。
*
議会の間は、いつものように広く、冷たい。
灯りは明るいのに、顔には影が残る。
影は、座る位置で濃くなる。
私は演壇に立ち、出席票を受け取った。
議長が杖を鳴らす。
「本日の評議を開始する。議題は、港湾・流通再編に伴う決裁機構の整備――」
ざわめき。
誰かが咳払い。
静かな抵抗の音。
私は紙束を置いた。
置く音だけで、視線が集まる。
視線は熱い。
でも私は、熱に溺れない。
「まず、確認します」
私は淡々と口を開いた。
「先日の公式会合について。欠席が多かった。理由の提出がない家がいくつかある。……事実として記録されました」
ざわめきが、少しだけ形を変える。 怒りではなく、警戒だ。
老貴族が、穏やかに言う。
「陛下。欠席は自由でございます。家の事情も――」
「はい。欠席は自由です」
私は頷いた。
頷くことで、相手の刃を鈍らせる。
「だから、自由は残します」
ざわめきが小さくなる。
私は続けた。
「ただし、欠席した事実は残ります。何もしなかった事実も残ります」
空気が、ひやりとする。
言葉は冷たい方が、真実を運ぶ。
若い貴族が言う。
「陛下は、欠席を罪にするおつもりですか」
「罪にしない」
私は首を振った。
「罪にしないから、記録にする。記録は裁かない。記録は残るだけ」
誰かが息を呑む音。
裁かれないことの方が怖い時がある。
裁かれないなら、次も同じことができるはずなのに。
次は同じにできない仕組みが出てくるからだ。
「提案します」
私は草案を掲げた。
「権限ではなく、責任を明記する役職を設けます。決裁責任官。拒否権は認めます。……ただし、拒否するなら理由を書面で残す。期限は三日。提出がなければ拒否は無効です」
ざわめきが大きくなる。
反対派が初めて、声を上げかける。
「横暴だ」 「女王の独裁だ」 「議会の権限侵害だ」
私は待った。
待つ。
騒ぎが自分で疲れるまで。
そして、騒ぎが少し落ちた瞬間に言った。
「独裁なら、拒否権は与えません」
ざわめきが止まる。
「拒否権を与えるのは、意見を残すためです。意見があるなら、書けばいい。……書けない理由があるなら、それは意見ではなく、逃避です」
別の声が上がる。
「“何もしない”ことを、なぜ記録する必要がある!」
私はその声の方向を見た。
名前は言わない。
名指しは、彼らを英雄にする。
「必要です」
私は淡々と言った。
「何もしないことで、現場が止まります。薬が遅れます。配給が乱れます。孤児院の靴が破れます。……それを誰も選んでいない、と言える国はもう要りません」
傍聴席の看護師が、小さく拳を握るのが見えた。
声にならない声が、議場の床に染みる。
議長が杖を鳴らす。
「提案は重大だ。採決に回す前に、補佐官の意見を求める」
視線が一斉に、アレクシスへ向く。
王太子ではない。
王配でもない。
でも、女王の隣に座る男。
彼は立ち上がった。
喉が動く。
少し震えている。
それでも、声を出した。
「……責任を残す制度は、怖いと思う」
ざわめき。
「でも、“怖い”のは悪いことじゃない。責任が怖くない国は、誰かに押し付ける国だ」
彼は一瞬だけ息を吸い、続ける。
「席に座らない自由は、今まで守りとして機能した。だが、守りは守っていない。守りの下で、現場が死んだ。……だから、記録が必要だ」
アレクシスは私を見ない。
議会を見る。
逃げない目で。
「女王陛下は椅子を増やしていない。椅子に名札を付けただけだ。……名札を付けない椅子が、今まで国を腐らせた」
沈黙が落ちた。
反対派の“静けさ”ではない。
言葉を飲み込む沈黙。
私は、最後の一文を置いた。
「座らない自由は残します」
ゆっくり、はっきり。
「ただし、立っていた事実は残る」
その言葉が、議場の天井に当たって返ってくる気がした。
誰かの喉が鳴る。
誰かの手が、無意識に書類を握りつぶす。
動かないことが、守りにならない。 それを、彼らは今、理解した。
嵐は起きない。
でも干ばつは終わる。
水は、責任という形で流れ始める。
私は演壇の上で、息を吸って吐いた。
次に始まるのは、派手な戦いじゃない。
椅子に座る人間を、ただ一人ずつ、照らす戦いだ。
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