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第37話 影の仕事に、名前はいらない
しおりを挟む夜の王城は、昼より正直だ。
昼は礼儀が音を吸って、笑顔が隙間を埋める。
でも夜は違う。廊下の石が冷たくて、灯りが届かない角に、残った汚れがそのまま見える。
私は執務室の窓を少しだけ開け、冷たい空気を肺に入れた。
机の上には地方から届いた要望の束。苦情。嘆願。報告。
「声が届く」と知った民が動き始めた結果だ。正しい。正しいのに、速度が人を削っていく。
ルーナが、疲れた目のまま言った。
「セレス様……今夜も、港の件の追加資料が」
「置いて。……ありがとう」
紙が増える速度が、国の呼吸に追いついていない。
制度は正しくても、運用が遅れれば人は折れる。
折れた人は、黙る。黙った国は腐る。
だから私は、手を止めない。
けれど——
全部を自分で抱えるのは違う、とも分かっている。
扉が小さく鳴った。ノックではない。合図に近い、軽い音。
ルーナが反射的に身構えるが、私は首を振った。
「大丈夫。……開けて」
扉がほんの少しだけ開き、影が滑り込む。
黒い外套。夜みたいな目。
カイ・ノクティス。
彼は跪かない。名乗りも丁寧じゃない。
でも彼が来た夜は、いつも何かが一つ、静かに片づく。
「姫さん——いや」
彼は一瞬だけ言い直し、口角も動かさずに続けた。
「女王。時間あるか」
呼び方の変化が、妙に胸に残った。
距離が変わった、というより。
彼が私の重さを、重さのまま扱ってくれている証拠みたいで。
「ある。……座って」
私は机の端を指した。
カイは座らない。代わりに窓際に寄り、背中を壁に預けた。
ルーナが息を呑む。
王の部屋でそんな姿勢を取る人間は、普通はいない。
でも私は、止めない。
カイは懐から、薄い紙束を出した。
封も飾りもない。雑に折られているのに、妙に重い。
「地方の利権、港の残党、薬草の流通。……結び目、ひとつ見つけた」
「名前?」
「今は、いらない」
その言い方が、鋭い。
私は眉を少しだけ寄せた。
「“いらない”じゃなくて、“出せない”?」
カイは一瞬黙り、それから短く答えた。
「出せる。出せるけど、出した瞬間にすり抜ける」
紙束を机に置く。
一枚目には、地方の物資輸送の契約。
二枚目には、港湾の倉庫使用料の規定。
三枚目には、監査の報告様式——私が変えたはずの、あの書式。
全部、合法だ。
合法なのに、読めば読むほど胃が冷える。
「……手数料、って書いてある」
「合法の顔」
カイが言う。
「“調整費”。“保管料”。“安全協力金”。どれも違法じゃない。書類上は、ちゃんと働いてる人間がいる。判を押す人間もいる。だから裁けない」
私は指で条項をなぞった。
文字が整いすぎている。
整いすぎた文は、人を守らない。
「裁けないのに、どうして汚いの?」
カイは壁から背を離し、窓の外を見た。
夜の王都に灯りが点々と浮かぶ。生活の灯りだ。
「払えない奴から奪う仕組みだから」
短い答え。
でも、その短さの中に、たくさんの叫びが詰まっている。
「運ぶ側に“安全協力金”。払えなければ荷が遅れる。遅れれば病院が困る。孤児院が困る。困った現場は“女王の制度が悪い”って言われる」
私は目を閉じそうになって、やめた。
閉じたら、目の前の紙がただの紙になる。
「……つまり、制度の穴を使って、私の信用を削る」
「そう」
カイは頷いた。
「残党ってのは、派手に暴れない。派手に暴れるのは最後。今は“遅れ”を作る。“足りない”を作る。“届かない”を作る」
私は息を吐いた。
これが、前にも見えた“改革疲れ”の影か。
制度は正しい。運用も正しい。
それでも、遅れと不足が重なれば、人は「もういい」と言い始める。
その「もういい」を作るのが、敵の仕事。
ルーナが小声で言った。
「……誰が命令しているのでしょう。港湾組合? 商会? それとも——」
「もっと薄い」
カイが遮る。
薄い、と言うのが、逆に怖い。
「命令じゃない。合図。空気。分かってる奴同士の目配せ。……“やっとけ”っていう、誰も責任を取らないやつ」
私は、ペンを持った指に力が入るのを感じた。
責任を取らない。
今までの国の癖だ。
だから私は、責任を可視化しようとしている。
でも“薄い命令”は、可視化の外に逃げる。
「その結び目は?」
カイは紙束の中から、一枚だけ抜いた。
地方の運送組合の名簿。
そして、港の倉庫使用者リスト。
さらに、王城内の備蓄管理部署の小さな印。
繋がる。
線が、一本になる。
「王城の備蓄部署が、民間の“保管会社”に管理委託してる。その保管会社の親が、港の倉庫を押さえてる。で、地方の運送組合が、その倉庫を通らないと契約が成立しないようになってる」
私はしばらく黙った。
合法だ。
委託も合法。契約も合法。組合も合法。倉庫も合法。
合法の鎖が、生活を絞めている。
「……これを表で切ると?」
「反発する。裁判になる。時間がかかる。その間に、現場が死ぬ」
カイの声は低い。
現場が死ぬ、という言葉が、胸に刺さる。
数字の向こうの咳。列。怒鳴り声。老女の小さな呟き。
私は目を上げた。
「じゃあ、影は何をする?」
カイは、少しだけ目を細めた。
笑わない。
でも、私の問いを“分かってる問い”として受け取った顔だ。
「合法の鎖は、合法の手でほどく」
「具体的に」
「契約を書き換える」
その答えに、私は一瞬だけ息を止めそうになった。
私がこれまで選んできたのと、同じ方向だ。
カイは続けた。
「“保管会社”の委託契約、条件の穴を突いて破棄できる形にする。港の倉庫使用権の名義、夜だけ変わる部分を押さえる。運送組合の契約、別経路を用意して選択肢を増やす。……全部、法の内側でやる」
私は頷いた。
頷いたけれど、胸の奥に不安が残る。
「それは……あなたの仕事なの?」
カイは肩をすくめた。
「俺がやるのは、“押さえる”ことだけ。紙を書くのは、お前らの仕事だろ」
ルーナが小さく息を呑む。
私も同じことを思った。
カイは影だ。紙の世界に立たせたら、影は死ぬ。
でも影が押さえないと、紙は空に舞う。
その時、扉がノックされた。
王付き侍従——ロランの声。
「女王陛下。王室補佐官アレクシス殿下が、急ぎお目通りを」
「通して」
アレクシスが入ってきた。
以前の柔らかな微笑みは、もう鎧になっていない。
疲れている。焦っている。
でも逃げる気配はない。
「セレス……いや、陛下」
呼び方の迷いが、彼の今の立場を映す。
「地方からの申請が、急に止まった地区があります。正確には——届いているのに、途中で消えている」
私は目を細めた。
「消える?」
「提出窓口は通っている。だが審査に上がる前に、必ず“差し戻し”になる。理由は形式不備。書式不備。署名不足。……全部、きれいに合法の理由で」
カイが小さく舌打ちした。
不機嫌というより、確信の音。
「そこ、結び目の先だな」
アレクシスがカイに視線を向け、ほんの一瞬だけ戸惑った。
王の部屋にいる影。
彼はまだ、その異常に慣れていない。
でも彼はすぐに言った。
「王宮が直接手を出すと、相手は“政治弾圧”と言い換えます。だから……別の筋で動いた方がいい」
私は頷く。
「提案は?」
アレクシスは、机の上に一枚の紙を置いた。
「“支給・備蓄・輸送”の窓口を、王宮外の独立監査機構に寄せます。表向きは負担軽減。実態は、王宮内の“差し戻し係”の権限を薄める」
合理的だ。
そして、痛い場所を正確に刺している。
私はカイを見た。
「……影が押さえている間に、表が書き換える」
「そういうこと」
カイは短く答えた。
アレクシスはそれを見て、ゆっくり息を吐いた。
「僕は……王配でも王太子でもない。命令で動かせない。だから、こういう——橋しか架けられない」
「橋でいい」
私は言った。
「橋がなければ、現場に届かない」
アレクシスが小さく頷いた。
頷きの中に、少しだけ救われた色が混じる。
ルーナが、勇気を出した声で聞いた。
「では……誰が“押さえる”のですか。相手が夜に動くなら、夜に——」
「俺」
カイが即答した。
軽い言葉。
でも軽い言葉ほど、命を乗せている。
私の指先が、机の縁を強く押した。
言葉にすると、命令になる。
命令にはしたくない。
でも放り出すのも違う。
私は息を吸って、言葉を選んだ。
「……カイ。危ないなら、引いて」
カイがこちらを見た。
夜みたいな目が、少しだけ柔らかくなる。
「引く。死ぬ気はない」
「約束」
「約束」
短い応酬。
それだけで、胸の奥の針が少しだけ緩む。
私は机の引き出しから、封印のない白紙を取り出した。
命令書ではない。許可証でもない。
ただ、“責任の所在”を残す紙だ。
ペンを走らせる。
独立監査機構への窓口移管。
備蓄委託契約の即時見直し。
港湾倉庫使用権の臨時監査。
そして——影の調査協力を、公式には書かない。書かないが、空白のままにしない。
私は紙の末尾に、一行だけ添えた。
——必要な非公開協力について、女王が責任を負う。
署名を入れる。
印を押す。
この一行が、私の覚悟だ。
彼を表に出さない。
でも、彼の仕事を“誰かの勝手”にはしない。
カイが紙を見て、鼻で笑った。
「重いな」
「重いのは、私の仕事」
「……それでいい」
アレクシスが、少しだけ目を見開いた。
ルーナは唇を噛んで、涙を堪える顔をした。
私は立ち上がり、窓の外の暗闇を見た。
光が届かない場所は、確かにある。
王冠はそこまで照らせない。
でも、誰かが歩ける。
歩ける人間がいる。
そして私は、その足を“勝手”にしない。
「全部を知ろうとはしない」
私は小さく言った。
「知れば、私が壊れる。壊れたら、制度も壊れる。だから——任せる」
カイが、初めて少しだけ表情を動かした。
笑みではない。
確認に近い、短い息。
「任されたら、やるしかないだろ」
「うん。……お願い」
命令ではなく、依頼。
依存ではなく、役割。
これが今の私たちの形だ。
カイは踵を返し、扉へ向かう。
影が夜に戻っていく。
その背中に、私は言った。
「名前はいらない。でも——帰ってきて」
カイは振り返らないまま、短く答えた。
「帰る」
扉が閉まる。
音は小さい。
でも、その小さな音が、私の胸の中で大きく響いた。
光が届かない場所を、誰が歩くのか。
私はようやく知った。
歩くのは、私一人じゃない。
そして私は、歩く足に鎖をつけない。
王の机は、静かに人を殺す。
だから私は、静かに人を生かす。
影の仕事に、名前はいらない。
必要なのは——戻ってくる道だけだ。
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