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第38話 王の椅子は、増えない
しおりを挟む議会の空気は、いつもより乾いていた。
雨が降る前の乾き方じゃない。紙とインクが擦れ合って、喉の奥を削る乾きだ。
誰かが「正しさ」を盾にする日に、この場所はいつもそうなる。
半円の議場。
石の壁に並ぶ紋章。
座る者たちの視線は、演壇ではなく、ひとつの席に集まっていた。
王室補佐官アレクシス。
かつて王太子と呼ばれ、次の王になるものとして据えられていた男。
今は、女王の隣に座らない。
けれど議会の中心から遠い場所にもいない。
「空席」を挟んだ、少し外側。
誰も座れない椅子の隣で、彼は立っているように見えた。
杖の音が鳴る。
「静粛に。本日の議題は、王室補佐官職の権限と責務の再定義について」
ざわめきが、薄い笑いに変わる。
笑うのは簡単だ。笑えば怖くない。
怖いのは、「椅子が増えない」とはっきり言われることだ。
私は演壇へは上がらない。
今日は議会の手続きで決める日。
女王が前に立つと、反発は「権威への反発」にすり替わる。
だから、私は前に出ない。
代わりに、議長が淡々と資料を読み上げる。
配布された紙がめくられる音が、波のように広がった。
「王室補佐官は、国政の調整・連絡・手続きの整備を担い、軍命令権・外交決裁権・財務単独決裁権を持たない」
ふっと鼻で笑う音。
老貴族が、わざとらしく咳払いをした。
「つまり、何もできぬ役職ではないか」
別の声が続く。
「責任だけを負わせる椅子だ。そんなものに誰が座る」
私は黙ったまま、視線を滑らせる。
この問いは、アレクシスに向けたものではない。
“空席を埋めたい者”が、自分の欲を正当化するための問いだ。
議長が杖を鳴らす。
「発言は順に」
若い貴族が立つ。
目は鋭い。言葉は上手い。
「女王陛下。補佐官職が曖昧だと、国の意思決定が遅れます。責任の所在が見えない。いずれ民は離れる」
民。
口にした瞬間、彼の声が少し軽くなる。
民を心配しているように聞かせるのは、いつだって簡単だ。
私は椅子から立ち上がり、ゆっくりと口を開いた。
「責任の所在は、見えています」
視線が集まる。
議会は静かになる。
私が短く言う時ほど、彼らは身構える。
「王の責任は、王が負う。増やしません」
ざわめきが起きる。
“増やしません”。その一言が、空気に刺さった。
老貴族が眉をひそめる。
「陛下。王は一人では動けぬ。だから王配が――」
「王配は家族の形の話です」
私は淡々と言った。
「国の権力を置く椅子の話ではない」
議場がざわつく。
男たちの影が薄くなる話を、彼らは嫌う。
けれど嫌っても、紙は残る。
議長が手元の文書を示した。
「補佐官職は、議会側にも利がある。調整が整うことで、決裁の停滞が減る。責任の押し付け合いが減る」
ここで、別の貴族が立ち上がった。
いつもは表に出ない男だ。
静かな反対派の一人。声は低い。
「……王室補佐官が、女王の代弁者になる危険は」
私は答えない。
代わりに、アレクシスが立った。
議場が一瞬止まる。
彼の立ち方は、かつての王太子のそれではない。
堂々と、ではない。
誇示しない。
だが、折れない。
「代弁はしません」
声は穏やかで、しかし空洞ではなかった。
「私がするのは、橋を架けることです。女王陛下の言葉を飾らずに伝え、議会の懸念を削らずに戻す。どちらにも嘘を混ぜない」
ざわめきが小さくなる。
“嘘を混ぜない”という言葉は、綺麗事に聞こえる。
でも今の議会は、綺麗事が怖い。
綺麗事が、制度になりかけているからだ。
先ほどの男が言う。
「補佐官が暴走したらどうする」
アレクシスは間を置かず答えた。
「暴走できません。権限がないからです」
静かなどよめき。
アレクシスは続けた。
「そして、記録が残ります。私の調整の履歴は、すべて文書化し、監査対象になります。隠す場所がない」
紙を嫌う者たちが、紙の前で黙る。
記録は、逃げ道を削る。
私は、ほんの少しだけ息を吐いた。
これだ。
この言い方なら、彼は「王になれなかった男」ではない。
「王を支える役割を選んだ男」になる。
議長が最終案を読み上げる。
「王室補佐官は、王命の起案・議会との折衝・官僚機構の整備と連絡を担う。王位継承権とは切り離し、職責は任期制とし、評価は議会と監査機構によって行う」
任期制。
評価。
監査。
嫌がる顔が、あちこちで浮かぶ。
椅子が増えないどころか、椅子に釘が打たれていく。
採決。
賛成が積み重なる。
反対もある。
だが反対は、思ったより少ない。
彼らは気づいている。
アレクシスを曖昧にしておく方が危険だと。
曖昧な椅子ほど、誰かが座りたがる。
杖の音。
「可決」
議場がざわめき、紙が揺れ、視線が一斉に逸れる。
決まった瞬間、人は急に興味を失ったふりをする。
本当は怖いだけだ。
アレクシスが、ゆっくりと息を吐くのが見えた。
肩の線がほんの少しだけ落ちる。
その背中に、私は言葉をかけない。
ここは議会。
私の一言で、また「特別扱い」に見える。
終会。
人が流れ、廊下へ押し出される。
私は先に控え室へ向かった。
静かな部屋。
窓の外は曇り、王都の音が遠い。
しばらくして、扉がノックされた。
「入って」
アレクシスだった。
礼をしようとして、途中で止める。
補佐官としての礼儀と、元王族としての癖が混ざって揺れる。
「……陛下」
「座って」
椅子を指すと、彼は一瞬だけ笑った。
「椅子の話をしてきたばかりなのに」
「だから座って。今日くらい」
彼は静かに腰を下ろした。
沈黙が落ちる。
嫌な沈黙ではない。
言葉を探す沈黙。
私は先に言った。
「ありがとう」
アレクシスが目を上げる。
驚きが、少しだけ混じっている。
「礼を言われるようなことは……」
「ある」
私は短く言った。
「あなたが、あなたの言葉で話した。飾らないで」
彼は視線を落とし、指先を組んだ。
「……怖かったです」
その一言で、部屋の空気が少し変わる。
誰かが怖いと言える部屋は、まだ壊れていない。
「何が」
「比較されることが」
彼は苦く笑った。
「王太子だった頃は、常に比べられていました。
歴代の王、宰相が描いた理想、貴族の期待、民の幻想。……そして、あなた」
私を見て、言葉を止める。
謝るような目。
でも私は首を振らない。
「事実だよ」
アレクシスは息を吸った。
「今日、初めて“比較されない役割”ができた気がします。王になる器ではなく、王を支える器として……」
言い終えると、彼は少しだけ肩を落とした。
「……それを、逃げだと言われると思っていた」
私は彼を見た。
逃げ。
その言葉は、人を縛るために便利だ。
便利だから、よく使われる。
「逃げじゃない」
私は淡々と言った。
「権力が欲しい人が、欲しくない人を馬鹿にするための言葉」
アレクシスが、目を見開く。
私は続ける。
「王にならないことは、空になることじゃない。あなたは今、責任を引き受けた。権限じゃなく、責任を」
彼の喉が動く。
「責任は……怖いですね」
「うん。怖い」
私は短く笑った。
笑っていい場所だ。今は。
「でも、怖いって言える人は、壊しにくい」
アレクシスは、少しだけ視線を柔らかくした。
「……陛下。ひとつ、聞いてもいいですか」
「なに」
「私は、あなたの隣の椅子には座れません。今日、それが決まった。……それでも私は、役に立ちますか」
まっすぐな問い。
昔なら、彼はこういう問いを飲み込んだだろう。
穏便の仮面の裏で、勝手に折れていた。
私は答える。
「役に立つ、じゃない」
言葉を選ぶ。
彼が欲しいのは、慰めではない。
「必要だよ」
アレクシスの目が揺れる。
「……必要」
「うん」
私は頷いた。
「私は決める。あなたは繋ぐ。官僚は回す。監査は塞ぐ。誰かが欠けると、また穴が開く。あなたは“穴が開く前”に気づける人だ」
彼は小さく笑った。
自嘲じゃない笑い。
少しだけ救われた顔。
「……光の役目ですね」
「光、じゃない」
私は首を振った。
「橋」
アレクシスが、息を吐いた。
「橋なら……折れないようにします」
「折れそうになったら言って」
「言えますかね」
「言わせる」
少し強く言うと、彼は肩をすくめた。
「……命令みたいですよ」
「命令はしない」
私はすぐに訂正した。
「お願い」
アレクシスの目が少し細くなる。
彼は今日、何度も「権限がない」と言った。
その代わりに、言葉で立った。
「……分かりました。お願いします、陛下」
その言い方に、以前の空洞はなかった。
扉の外で、足音がする。
次の仕事が待っている。
私は立ち上がり、机の上の書類を手に取った。
「椅子は増えない」
言葉が、自分の胸にも落ちる。
増えないから重い。
でも増やさないから、腐りにくい。
アレクシスが立ち上がる。
「陛下」
「なに」
「……今日、名前が軽くなりました」
私は一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。
「それでいい。軽い名前の方が、遠くまで届く」
彼は短く笑って、扉へ向かった。
補佐官として。
王ではなく。
王を支える者として。
扉が閉まる。
私は窓の外を見た。
曇り空の下、王都は変わらず息をしている。
静かな国には、まだ遠い。
けれど椅子が増えない限り、戻れる。
私はペンを取った。
紙の上に、次の一行を書く。
権力ではなく、責任を。
空席を欠陥にしないために。
そして、増えない椅子の重さを、折れない骨組みにするために。
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