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第39話 署名を盗むのは、紙じゃない
しおりを挟む王城の朝は、音が少ない。
鐘も、足音も、遠くにいる。近くにあるのは紙の擦れる音だけだ。机の上で、封蝋が割れ、羽ペンが走り、判が押される。静かに、静かに――その静けさが、人を追い詰める。
ルーナが、書類の束を抱えて入ってきた。
「セレス様……今朝だけで、地方からの請願が三十七通。うち十七通が“至急”です」
「至急、の内訳は?」
「食糧の再配分、施薬の不足、税の控除申請……あと、港の契約更新が遅れてる件で抗議が」
抗議。
抗議が届く国は、まだ生きている。沈黙の国よりずっとマシだと分かっている。分かっているのに、胸の奥が重くなる。
私は一番上の封筒を取った。紙が薄い。薄いのに、指先に刺さる。
「“陛下へ。返事がないまま七日が過ぎました”」
声に出した瞬間、ルーナの肩が小さく揺れた。
「……返事は、出しています。出しているのに、届いていないのかもしれません」
「届いていない」
私は言い切って、次の封筒を開けた。
「……“王城は聞いてくれると言った。嘘だった”」
嘘じゃない。嘘じゃないのに、嘘に見える。
制度は正しくても、速度を誤れば人を壊す。壊れた人は、次に制度を壊す。
机の端に、昨夜カイから届いた紙片がある。
『返事の遅れ、自然じゃない。どこかで詰まらせてる』
詰まらせている。
誰かが、意図して。
扉がノックされた。
「女王陛下。王室補佐官アレクシス殿がお見えです」
「通して」
入ってきたアレクシスは、いつもより顔色が薄かった。眠っていない顔だ。眠れないのではなく、眠る時間を削っている顔。
「セレス……失礼、陛下」
「今はいい。何が起きてる」
アレクシスは机の前に立ち、短い報告書を差し出した。
「南西のローヴェン州。配給所の前で揉め事が起きています。今朝、火が上がった」
ルーナが息を呑んだ。
「火……?」
「倉庫の藁に。幸い大火にはなっていない。ただ――」
アレクシスの喉が動く。
「“王城が返事をしない”という噂が、怒りの燃料になってる」
私は目を閉じなかった。閉じたら、また逃げる。
「返事は出してる。記録もある」
「記録があることと、届いていることは別です」
アレクシスが淡々と言った。
「誰かが“途中で止めている”。届けないことで、陛下の信用を削っている」
静かな反対派の手口だ。
声を上げない。剣も抜かない。ただ、届かせない。
私はペンを置いた。
「ローヴェン州の担当部署は」
「内政局の第六係。担当官は――」
アレクシスが言いかけて止まる。
その止まり方が、嫌な予感を呼んだ。
「言って」
「……前宰相府と近かった人間が、まだ数人います。粛清しなかった分、残っている」
残っている。
私は残した。残した責任が、今ここで刺さる。
でも、だからと言って切らない。切れば、次は恐怖で黙る国になる。
「行く」
私は立ち上がった。
ルーナが慌てて言う。
「セレス様、ローヴェン州まで直行は危険です。移動中に――」
「直行しない」
私は短く言った。
「手続きを持って行く」
アレクシスが、私の意図を先に拾う。
「現地へ“答え”を持って行くのではなく、“届く仕組み”を持って行く」
「そう。返事を私が直接渡したら、次からも“女王が来なければ届かない”になる」
それは国を壊す。
私はルーナを見る。
「至急案件の返答の写しを全部出して。封印付きで。発送記録も。担当係の受領印も」
「はい……!」
ルーナが動く。その背中は震えているのに、迷いがない。
アレクシスが低い声で言った。
「陛下。もう一つ。港の契約更新、同じです。更新書が“途中で消えている”」
「同じ手口ね」
私は息を吸った。
火はローヴェン州だけじゃない。港でも、薬でも、配給でも。全部が“遅れ”という形で繋がっている。
――署名を盗むのは、紙じゃない。
“信用”を盗む。
*
昼前、王城の中立地帯。
役目を終えたはずの記録室。使われなくなったはずの保管棚。誰の管轄にも完全には属さない場所。
私はそこに立っていた。
湿った紙の匂い。古いインク。石の冷たさ。母の遺品保管庫の匂いと似ている。
同行しているのは、アレクシスと、ルーナと、記録官。それに護衛二名。
記録官が慎重に棚を開ける。
「女王陛下。こちらに、発送記録の原本が……」
ルーナが写しと照らし合わせる。指が震えているのに、目が鋭い。
「……合っています。日付、宛先、封印番号……全部。出してる。確かに出してる」
アレクシスが言う。
「つまり、止まっているのは“ここから先”です」
私は頷いた。
「運搬。受領。配布」
紙が正しくても、人が動かなければ届かない。
そして、人が動かない時、そこには命令がある。
私が棚の一番下の箱を指で叩いた。
「これ、何」
記録官が首をかしげる。
「……封蝋の予備、でしょうか。以前の部署が――」
私は箱を開けた。
そこにあったのは、封蝋ではない。封蝋もあった。だが、その下。
――押印具。
王家の印に似た形。
似ている。だから怖い。
私は触れずに、記録官に命じた。
「そのまま封を。立会い記録をつけて」
記録官が頷き、護衛が一歩前に出る。
アレクシスの顔が固くなる。
「……偽の印が、王宮内にある」
「ある、というより」
私は低く言った。
「“置ける”場所がある」
中立地帯。
誰の責任でもない場所。だから、誰でも手が届く。
私が欲しいのは犯人の首じゃない。この場所を、二度と“中立”にしない仕組みだ。
ルーナが小さく言った。
「セレス様……これ、どうしますか」
「使わせない」
私は即答した。
「置くなら、置いた瞬間に足がつくようにする」
アレクシスが目を細める。
「……仕掛ける?」
「仕掛ける」
私は視線を上げた。
「明日から、印は三重管理。保管はここじゃない。記録官と監査官と、私の侍従で鍵を分ける」
ルーナが息を呑む。
「鍵を……分ける……」
「一人が裏切っても、印は動かない」
それが制度だ。人を信じるのではなく、裏切りが成立しない形にする。
*
夕方。
ローヴェン州へ向けた緊急の手続きが整えられた。
“女王が来る”ではない。“女王の返答が届く仕組みを現地に増設する”。
臨時の受領所。監査官の派遣。配給所の掲示板に、受領番号と返答番号を貼り出す仕組み。誰でも確認できる形にする。
机の上で、紙が増えていく。でも今日は違う。紙が人に届く形を作っている。
その時、窓枠に小さな石が当たった。
カツン。
私は窓をわずかに開けた。冷たい風と一緒に、紙片が滑り込む。
『ローヴェン州の火、偶然じゃない。煽ったのは“配達係”。命令は王宮内政局第六係。さらに上、名は出ない。怖がってる。あと……印の匂い、動いた』
印の匂い。
さっき見つけた偽の押印具。その“匂い”が、動いた。
つまり、誰かが気づいた。私がそこへ入ったことに。
ルーナが私の顔を見て、喉を鳴らした。
「……来ますか」
「来る」
私は答えた。
「来させる」
逃げる相手は捕まらない。動く相手は、足跡を残す。
アレクシスが静かに言った。
「陛下。今夜、王宮内に“揺れ”が起きます。表立ってではなく、書類の動きで」
「揺れた方がいい」
私は言った。
「揺れない国は、腐る」
ルーナが小さく笑った。疲れた笑いだ。でも、前より強い。
「……うるさい国の方が、生きてる、でしたね」
「そう」
私はペンを取った。
ここで止める。ここで塞ぐ。ここで守る。
だけど、守るためには――届かせなければならない。
署名は紙に残る。印も紙に残る。だが、人の心に残るのは“届いた”という実感だ。
私は赤線を引いた。
そして、書類の一番上に新しい項目を書き足す。
――「受領の証明」。
返事を出しただけで満足しない。
返事が届いた証拠まで、制度にする。
夕刻、地方からの最後の報告が届いた。
小さな衝突。
倉庫での口論。
「女王の名で動いた」という現場判断。
どれも違反ではない。
どれも悪意ではない。
ただ、速すぎた。
私はその一文を、赤線で囲んだ。
その夜、王城のどこかで、誰かが静かに息を殺している気配がした。
私は窓の外の闇を見た。
闇は怖い。怖いままでいい。
ただし、闇に勝手に署名させない。
私の名前を、私の国を、誰にも盗ませない。
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