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第40話 それでも王は、手を離さない
しおりを挟む火は、思ったより小さかった。
それでも、怖さは変わらない。
火は大きさじゃない。火は「ここに穴がある」と知らせる形だ。穴は、放っておけば広がる。穴が広がれば、人が落ちる。
夜明け前、王城の窓を開けた瞬間、冷たい空気に混じって焦げた匂いがした。
ルーナが駆け込んでくる。髪が乱れている。寝ていない顔だ。
「セレス様……ローヴェン州の件、鎮まりました」
「被害は」
「倉庫の藁と壁の一部だけです。怪我人は……軽傷が二名。命に別状はありません」
私は息を吐いた。
よかった、と言いそうになるのを飲み込む。
よかった、で終わらせたら、また同じことが起きる。
机の上には、昨夜から積み上げた書類がそのまま残っていた。
臨時受領所の設置。監査官の派遣。掲示板の番号化。返答の写しの配布。受領の証明。
“届いた”という実感を制度にするための紙。
紙の山を見て、私は自分に言い聞かせた。
――これは勝利じゃない。応急処置だ。
扉がノックされる。
「女王陛下。王室補佐官アレクシス殿が」
「通して」
アレクシスが入ってきた。彼の手にも書類がある。紙の角が少し折れている。急いで走った跡だ。
「陛下。第六係の配達系統、押さえました。受領印の偽造と、返答の差し止めが確認されています」
「“誰の命令”は」
アレクシスは一瞬、言葉を選ぶ顔をした。
「……上からではありませんでした。正確には、“上がいると思わせる形”です」
私は頷く。
「恐怖の自走」
「はい。責任が可視化され始めたことで、彼らは自分が座らされる椅子を怖がった。だから先に、椅子そのものを壊そうとした」
静かな反対派の次の形。
怒鳴らない。剣も抜かない。ただ、届かせない。燃やす。遅らせる。疑わせる。
アレクシスが続ける。
「ただ、今回は証拠が残りました。受領番号と返答番号の掲示が効いた。『出したのに届かない』が、数字で見えるようになった」
私は机の端に置いた一覧表を見た。
返答番号。受領番号。未受領の空欄。
空欄は嘘をつかない。空欄は「止めた手」を映す。
ルーナが小さく言う。
「……空欄があるだけで、みんな顔色が変わりました。現場も、王城も」
「逃げにくくなる」
私は言った。
「嘘をつくには、空欄を埋めなきゃいけないから」
アレクシスの口角がほんの少し動いた。笑いではない。安堵に近い。
「陛下、ローヴェン州の民代表から、伝言が来ています」
「何て」
アレクシスが紙を読み上げる。
「『女王は来なかった。しかし、返事は来た。これなら怒りは燃やさずに済む』」
胸の奥が、少しだけほどけた。
来なかった。でも来た。
その違いが、国を守る。
*
昼、臨時の小会議。
出席者は最小限にした。記録官、監査官代理、内政局の局長、そしてアレクシスとルーナ。護衛は部屋の外。
机の上に置かれたのは、二つ。
ひとつは、偽造押印具の立会い封印記録。
もうひとつは、ローヴェン州の火の報告書。
局長が汗を拭きながら言った。
「女王陛下、この件は第六係の不始末であり……」
「不始末で終わらない」
私は遮った。声は低い。怒鳴らない。怒鳴れば、誰かの首が落ちて終わる。
首を落としても、穴は残る。
「第六係がやった。そこまでは事実。でも、やれた理由は?」
局長が言葉を詰まらせる。
監査官代理が硬い声で答えた。
「受領の確認が、内部の善意に依存していたこと。発送記録と配布記録の突合が、遅延していたこと。印の保管が曖昧だったこと……」
「つまり」
私はまとめる。
「制度が正しくても、“届く”までの経路が弱かった」
ルーナが唇を噛む。彼女は自分を責めている顔だ。自分が運んだ紙が届かなかったと思っている顔。
私は彼女を見た。
「ルーナ、あなたのせいじゃない」
「……でも、セレス様。わたしがもっと早く気づいていれば」
「気づくのが遅れたのは、私の設計が甘かったから」
沈黙が落ちた。
局長が顔色を変える。王が自分で引き受ける言葉に、慣れていない。
私は言葉を続けた。
「責任は、現場に落とさない。第六係を吊るして終わりにしない。今回は“失敗”として記録する」
監査官代理が目を見開く。
「失敗を……記録、ですか」
「成功だけの記録は、嘘になる」
私は淡々と言った。
「“声を聞く制度”は、失敗を含んで完成する。失敗を隠すと、同じ穴が別の場所に生まれる」
アレクシスが小さく頷いた。彼は理解している。隠した失敗が、前の王宮を腐らせたことを。
私はペンを取り、議事録の上に赤線を引いた。
――【今回の遅延・差し止めは制度設計上の欠陥として記録し、改善措置を明記する】。
局長が震える声で言う。
「女王陛下……それでは、陛下の評判が……」
「評判は壊れていい。信用は壊さない」
私は言い切った。
「信用は、“隠さない”ことで積める」
ルーナが小さく息を吐いた。泣きそうな息だ。でも泣かない。彼女も変わってきている。
*
夕方、王城の回廊。
忙しさはまだ消えない。紙は減らない。声は増える。改革疲れは、まだそこにある。
それでも、今日だけは一つ違う。
火が大きくならなかった。
小さな火のうちに、声を拾った。仕組みで受け止めた。だから燃え広がらなかった。
私は城壁の上へ上がった。
風が冷たい。冷たいと、考えが整う。熱があると、人は間違える。
そこに、カイがいた。
黒い外套。夜みたいな目。王城の灯りの中でも、彼は影のままだ。
「来たか」
「来た」
私は彼の隣に立った。王都の灯りが下に広がっている。星みたいに、ぽつぽつと。
「ローヴェン州、鎮まったよ」
「知ってる」
カイは短く言った。知っているのに、目が硬い。硬さが、疲れだ。
沈黙が落ちる。
私はその沈黙の重さを、前より怖がらなくなっている。
でも今日は、カイの沈黙が違う。
いつもなら、沈黙は刃だ。今日は、沈黙が鈍い。鈍さは、消耗の音だ。
「カイ」
「ん」
「眠ってない?」
「寝る暇、ない」
「……無理してる」
私が言うと、カイは鼻で笑った。
「無理しない影なんて、役に立たない」
いつもの言い方。可愛くない言い方。
でも今日は、その言い方の奥に、別のものが混じっている。
私は一歩近づいた。
「役に立つかどうかで、生きてないで」
カイの目が、ほんの少しだけ揺れた。
「……女王の口から出る言葉じゃない」
「女王だから言う」
私は言った。
「役に立つ人間だけで国を作ったら、国は痩せる」
カイが、息を吐く。
短い息。ため息に近い。
「……全部は守れない」
弱音に近い言葉。
カイが自分から言うのは、珍しい。
私はその言葉を否定しなかった。否定したら、彼はまた黙る。黙った影は、いつか折れる。
「うん。全部は守れない」
私は頷いた。
「でも、逃げない」
カイが私を見る。視線が刺さるみたいに鋭いのに、どこか弱い。
「逃げないって、簡単に言うな」
「簡単じゃない」
私は笑わなかった。軽くしたら、嘘になる。
「怖いから言うんだよ。怖いままで、逃げない」
カイの喉が動く。言葉が出かけて、出ない。
私は手を伸ばした。
指先が、風の中で揺れる。
触れていいのか、迷いが一瞬だけ胸に引っかかる。女王が、誰かの手を取ること。意味が増えること。
でも私は、意味で人を縛りたくない。
カイは躊躇しなかった。
彼の手が伸びて、私の指を掴んだ。
強くない。握りつぶす握り方じゃない。逃げないための握り方だ。
「……手、離すなよ」
カイが低く言った。
その言葉が、胸に落ちる。
命令じゃない。脅しでもない。
頼みだ。
私は小さく頷いた。
「離さない」
沈黙が、また落ちる。
でも今度の沈黙は、壊す沈黙じゃない。
生き残る沈黙だ。
王都の灯りが、風に揺れている。揺れているのに消えない。消えないのは、灯りの下に暮らしがあるからだ。
私はその灯りを見下ろしながら、心の中で書き足した。
成功だけでは国は育たない。
失敗を隠さず、記録に残し、次の手に変える。
王とは、勝つ人間ではない。
失敗を引き受けて、逃げ道を塞ぐ人間だ。
風が冷たい。
でも、指先は温かい。
温かさがある限り、私は明日も紙をめくれる。
明日も、声を受け止められる。
そして、手を離さない。
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