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第4話 紅茶の香りと沈黙の時間
しおりを挟む古い倉庫は、城の北棟の一番奥にあった。
扉は軋むほど重く、開けた瞬間、ひやりとした古布と乾いた木の匂いが胸に降りてくる。薄い光が高窓から射し込み、埃が雪の代わりに舞っている。棚は背の高いものが四列、樽や箱が無造作に積まれ、何年も人の手が入っていない気配があった。
「失礼します」
誰にともなく小声で言って、私は袖で口元を覆い、最初の箱の縄をほどいた。中から出てきたのは錆びた燭台、欠けた皿、継ぎの当たった水差し。次に開けた箱には、布袋がいくつか入っている。指で袋の口を摘むと、赤い蝋で封がしてあった。蝋に押された刻印は、見慣れない模様。魔族の言葉だろう。
匂いを嗅ぐ。……ほとんど、何も感知できない。封はまだ生きている。私はナイフの背でそっと蝋を割り、布袋の口を広げた。途端に、倉庫の空気が少しだけ色づく。乾いた草の甘さと、果実の皮をすりおろしたようなほのかな香気。
茶葉。
「ほんとにあった」
胸の奥が、ひと呼吸ぶんだけ温かくなる。指先でひとつまみ取り、掌に転がす。茶葉は黒に近い茶色で、葉脈の線が細く残っている。揉みは強すぎない。保存状態がよければ、飲める。いや、飲みたい。
ほかの袋も確かめる。ひとつは花びらの混じった香り茶、もうひとつは葉が少し砕けた粉っぽいもの。私は一番状態のよい袋を抱え、倉庫を出た。
台所で火を起こす。朝のスープを片付けた窯に再び薪を組み、小さな火から大きな炎へ時間をかけて育てる。水を汲み、厚手の鉄薬缶をかけ、沸点までの刻を待つ。
待つ時間が好きだ。湯の表面に小さな泡が芽吹き、縁を撫でる風みたいに静かに踊りだす瞬間。世界がひとつの音に集中する瞬間。
茶器は──ない。いや、ある。隅の戸棚の上段に、使われた記憶の薄いガラスのポットと、口の欠けた白磁のカップが二つ。私はそれらを布で磨き、欠けの位置が口に当たらないよう、印を自分の中につけておく。
湯の音が変わった。底からぽん、とひとつ泡が立ち、間を置いて、二つ、三つ。私は火から薬缶を外し、ほんの少しだけ呼吸を置いてから、ポットの中で茶葉を泳がせる。
湯を注ぐ音は、小さな雨に似ていた。茶葉が水底で舞い、色が滲む。透明だったガラスに、琥珀がゆっくり広がっていく。香りが、台所の冷えた石壁を柔らかく撫で、肩から力を外していく。
「……いい匂い」
思わず口から漏れる。自分で驚くほど、声が穏やかだった。
蓋をして、時間を待つ。急かさない。焦りは雑味になる。呼吸を数え、心拍を数え、泡のはぜる音を数え、指先でポットの温度を測る。頃合い。私はそっと茶漉しを通し、欠けの少ないカップから注ぎ始めた。
湯気が白く立ち上る。やわらかな甘み。遠くで果実が笑うみたいな酸。喉に落ちる前から、体が少し楽になる。私はカップの縁に唇を寄せる——それだけで、目の奥がじんわり熱くなる。
ここしばらく、祈りはうまく届かなくて、代わりに、香りが届いてきた。
「……」
背中に気配。振り向かなくてもわかった。足音はほとんどないのに、存在が空気の層を変える。冬空にぽつりと落ちた星のように、そこだけ密度が上がる。
「見つけたのか」
カインの声。低いのに、火のはぜる音を邪魔しない。
「倉庫のいちばん奥に。封は生きてました」
「毒はないか」
「たぶん」
「たぶんで俺に出すな」
「じゃあ、私が先に」
「……勝手にしろ」
私は微笑んで、もうひと口。舌に広がる渋みは滑らかで、角がない。熱が喉を落ち、胃に灯をともす。思い出す。こんな味で、私はひとつの午後を何度も救われてきた。
「どうぞ」
彼の前に、欠けの深い方のカップをそっと置く。欠けが唇に当たらない向きにして。カインは数秒だけそれを見た。湯気が彼の頬に薄く触れ、黒曜の瞳──いいや、銀の瞳だ──がほんの少し柔らかくなる。彼は無言でカップを持ち上げ、口元へ。
飲む。喉がゆっくり動く。肩のあたりの、いつも張りつめている筋肉が、ほんの一息だけほどけた気がした。
「……悪くない」
それだけ。短い。短いのに、音がある。
胸の内側に、小さな灯りがついた。火種みたいに頼りないのに、確かに明るい。私は何も言わず、もう一口、自分のカップから飲んだ。ふたりで同じ温度の湯気を吸い、同じ香りを分け合う。こんなに単純なことなのに、ひどくむずかしかったはずの距離が、一歩だけ近くなる。
「茶葉は、どのくらいある」
「袋で三つ。ひとつは状態が悪い。花の混じったのもあります」
「花はいらない」
「嫌いですか」
「余計な香りは、嘘をつく」
「……正直な紅茶がお好き」
「茶に正直も不正直もない」
「淹れる人には、ありますよ」
カインは返事をしなかった。代わりに、カップの縁に指を当て、その温度を確かめるようにひと呼吸置く。沈黙。けれど、私たちの間の沈黙は、以前よりやわらかい。沈黙にも質がある。今のそれは、刃物ではなく、羊毛の毛布に近い。
「砂糖は」
「ないですね。蜂蜜なら、少し」
「いらない」
「わかりました」
湯気の向こうで、彼の睫毛についた白い粉が溶けて消える。冬がほんの少し、遠のいた瞬間。
「人間は、茶を儀式にする」
「生きるための簡単な儀式です。火を起こして、水を沸かして、香りを聞いて、待つ。待っている間に、心が静かになる」
「祈りに似ている」
「祈りが先で、茶があとかもしれません」
「……お前は、祈るのか」
「はい。うまく届かない日も増えましたけど」
「届かなくても続けるのか」
「続けます。届かない日ばかりだった頃も、届いた日がたった一回あったから」
カインが視線を窓の外に落とす。黒曜の枠の向こう、雪は細かく降り続けている。世界の色は相変わらず三色だ。けれど、私のカップの琥珀が、そこに四色目をそっと足している。
「茶を淹れる手つきが、戦いに似ている」
「戦いはしません」
「だが、選ぶだろう。火の大きさ、水の温度、待つ時間。選ぶことは、戦いに似ている」
「なら、私は弱者の戦い方が好きです。強いものを叩き折るんじゃなくて、焦らず、少しずつ、味方を増やす」
「味方?」
「香りと、温度と、湯気と、タイミング」
「人間らしい」
「魔王は?」
「俺は、選んで、捨てる」
その言葉は固く、きっぱりしていた。けれど、さっきより棘が少ない。紅茶の湯気が、言葉の角を丸くしたのかもしれない。
レアが台所の入口に姿を見せ、片眉を上げた。「匂いがしたと思ったら、これね」
「飲みます?」
「……一杯だけ」
私はもうひとつの欠けたカップに少し注ぎ、渡す。レアは慎重に香りを嗅ぎ、ひと口飲む。「ふうん。人間のくせに、静かな味」
「褒め言葉?」
「皮肉を半分引いて受け取って」
彼女は羽を揺らして去っていく。入れ替わるように、ガルドが顔を出して、「主様、巡視の時間だ」と短く告げる。カインはカップを空にし、静かに置いた。
「また淹れろ」
「はい」
「午后、塔の上で」
「風が冷たいですよ」
「茶があれば、耐える」
「では、少し濃いめに」
カインはきびすを返し、影のように姿を消す。扉が閉じる音が台所の石を優しく叩いた。残された湯気が天井の梁に触れ、ゆっくり薄くなっていく。
一人になった台所で、私は空になった彼のカップを持ち上げる。縁に、ほんのわずかな唇の形が温度の残像として残っている気がした。ばかみたいだと思いながら、私はカップを磨き、棚に戻す。隣に、自分のカップを。並んだ白磁は欠けの位置が違う。違うかたちの欠け。けれど、並べば、ちょっとした模様になる。
昼までの時間、私は掃除と仕込みを進めた。繰り返しの仕事。床を拭く。鍋を洗う。根菜を刻む。心は、紅茶の余韻で穏やかだった。
午後、約束の塔へ。風はやはり鋭く、頬を切る刃のよう。私は布で包んだポットと、カップを二つ、盆にのせて階段を上がる。踊り場に出ると、彼は手すりに片肘を置き、遠い地平を見ていた。雪は止んで、雲間から薄い光が差している。
「お待たせしました」
「遅い」
「湯は、急かすと怒ります」
「茶が怒るのか」
「だいたい、私に向けて」
彼の口端がわずかに揺れた。笑いと呼ぶには薄い、けれど、確かに柔らいだ線。私は風下に盆を置き、カップを温め、茶を注ぐ。今日の午後は、朝より少し濃い。風が匂いを攫っていくから、香りの芯を重めにしてある。
カインは無言で受け取り、飲む。風と沈黙。沈黙の中に、遠くの訓練場の金属音が混ざる。私は欄干越しに雪原を見た。白の向こうに、黒い点がひとつ。霧かもしれない。心に寒さが差し、私はカップを両手で包む。
「霧は」
彼が先に言った。
「まだ薄く残ってる。城には入らない」
「いつか、入りますか」
「入らせない」
「頼もしい」
「頼られても困る」
「頼ってません」
「……言葉遊びは嫌いだ」
「本気です」
彼の視線がわずかに横へ滑り、私の指先に落ちる。赤くなった皮膚、皹の入りかけた爪。何も言わず、彼は自分のマントの端を無造作に私の肩へかけた。
「冷える」
「魔王様やさしい」
「茶を淹れる手を凍らせるな」
「はい」
マントは重く、体温の残り香があった。狼の毛皮のような匂い。心臓が脈を数えるたび、その匂いが胸の内側に広がる。私は紅茶をもうひと口飲み、喉の奥の熱に身を預けた。
「セリーヌ」
「はい」
「お前、城に何を残したい」
「……湯気」
「湯気?」
「ええ。すぐ消える。でも、上にのぼって、誰かの鼻に触れて、少しだけ優しくする。そういうものを、たくさん」
「弱い」
「しぶといですよ」
彼は返事をしなかった。代わりに、カップの底を見つめる。沈黙。沈黙が心地いい。沈黙に意味を詰め込むのは、戦いのあとでいい。今はただ、同じものを飲んで、同じ風に当たって、同じほうを向く。
カップが空になり、私は二杯目を注いだ。琥珀がもう一度、世界に色を足す。彼の指がカップの取っ手を挟み、風が彼の髪を揺らす。銀の瞳が、私のカップにうつる空の色を拾って、ほんの一瞬だけ淡くなる。
その色の変化に、胸の火種がぱち、と音を立てた。火はまだ小さい。けれど、灰の下で燃えている。
「……悪くない」
二杯目にも、同じ言葉が落ちる。私はうなずき、笑いをのどに隠した。
「はい。悪くないです」
塔の上に、午後の時間が長く伸びる。影はゆっくり形を変え、風は少しだけ緩む。私たちは、必要以上の言葉を持たず、十分すぎる沈黙を分け合った。
敵という言葉は、今日の私たちには当てはまらない。味方という言葉も、まだ早い。間にあるのは、湯気。目に見えて、すぐ消えて、でも確かにそこにある。
紅茶の香りは、城の黒曜にうすく染み込み、やがてどこかへ消えていく。それでいい。消えるものが、心を少しずつ温める。温まった心は、冬の終わりを知る。
夕暮れの一歩手前、彼は立ち上がる。「巡視に行く」
「いってらっしゃい」
「茶は、明日も」
「はい」
彼は階段に消え、足音が二つ三つ下で止んだ。振り返ってくるかと少しだけ思ったけれど、来ない。代わりに、塔の上に残された湯気が一筋、空にほどけていった。
私はカップを重ね、盆に戻し、マントをたたんだ。重さが腕に残る。残った重さと、カップのぬくもりと、喉の奥のやわらかな熱。それらを抱えて、階段を降りる。
今日、世界は三色から、四色になった。
その四色目は名前のない色で、でも、確かに“近さ”の色だった。
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