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第5話 眠れぬ夜、名前を呼ぶ声
しおりを挟む夜は、黒曜石の城の輪郭をさらに固くしていく。壁の目地に溜まった冷気は、呼吸を一つ置くたびに薄い霧になってほどけ、すぐにまた静けさへ押し戻される。寝台の上で天蓋を見つめながら、セリーヌは目を閉じたり開けたりした。まぶたの裏に浮かぶのは、灯りではない。いつだって、声だ。
「――聖女失格。滑稽だな」
王太子の、あの冷たい笑い。つられてざわめく群衆。怒号と嘲りは波のように押しては引き、引いてはまた押し寄せる。名指しの罪を浴びせられた時、彼らは自分の正義を疑いもしなかった。自分の手が震えていたのは、怒りか、恐れか、それとも両方か――答えはその場に置き去りにしてきた。
寝返りを打つ。薄い布が肌に貼りつく。閉ざした瞼の奥で、王都の石畳が濡れていく映像が勝手に再生される。あの日は晴れていたはずなのに、夢の中の地面は雨で黒く、泥が跳ねる。嘲笑う口が何十も何百も増えるたび、彼女は片方の掌で喉を押さえた。声が出るのが怖かった。言葉がどこかの誰かをまた傷つける気がした。
息を吸う。うまく入らない。肺が硬くなったみたいだ。セリーヌは体を起こし、裸足のまま床に降りた。石の冷たさが足裏の感覚を取り戻させる。室内は薄暗く、炉の火はさっき落とした。目が闇に慣れるのを待ってから、水差しの水を一口。冷たい。けれど頭の熱は引かない。
眠れない夜は、動くしかない。
肩に薄いショールを掛け、扉を押し開ける。回廊は月の筋で切り分けられ、窓から入る夜風が大きくもないのに確かにそこにいる。遠くで鉄の従者の巡回音が短く鳴って止んだ。彼らは必要以上に近づかない。人間である彼女に対する警戒が、まだ湿った壁のように城中にある。その距離感に、セリーヌはどこかで安堵もしていた。
足音を忍ばせ、台所へ向かう。昼間見つけた古い倉庫の棚から分けてもらった茶葉――手のひらで軽く転がすと、乾いた香りが立つ。銅の小さなケトルに水を入れ、火を起こす。火打石の音が夜に明るい点を刻む。やがて、ケトルが小さく息をするみたいに鳴り始めた。
湯が踊る前の、静かな時間。セリーヌは指先をカップの縁に添え、深い息をした。紅茶の香りは、過去を消しはしない。でも、過去の輪郭を柔らかくしてくれる。ここで彼女が出来ることは、たぶんそういう種類のことだ。
ふと、背後で布の擦れる音がした。反射的に振り向く。回廊の影から現れた背は高く、歩みは獣のように静かだった。銀の瞳が暗がりを切り取り、確かめるように彼女に留まる。
「眠れないのか」
低い声。問いというより、状況の確認。セリーヌは頷いた。喉が硬く、声は小さくなった。
「……少しだけ。騒がしくて、頭の中が」
カインは火のそばまで来て、ケトルの蓋を軽く押さえた。金属の熱が指先へ移る。彼は視線だけで「大丈夫だ」と伝え、必要な動作だけを残してあとは何も言わない。彼の沈黙は冷たくない。方向を誤らせないための、最小限の風のようだ。
「茶葉は?」
「ここに。……きっと上等なものではないけれど、香りは、よくて」
「香りが立てば十分だ」
湯が細く鳴った。カインが火を弱め、セリーヌは茶葉をティーポットに落とす。乾いた葉が湯に触れる音は、耳を澄ませなければ聞こえないほど小さい。けれど確かに「今ここで変化が起きている」と告げる音だった。
「……ありがとう」
何に対しての礼か、自分でもうまく言えない。ただ、誰かが隣にいて、必要以上に覗き込まず、手順を確かめるように火加減だけを見てくれていることが、救いに似た形をしている。
カップに注いだ紅茶は、夜の色を少しだけ明るくした。最初の一口で喉の奥の鍵がほどける。セリーヌは肩から抜ける息の音を自分で聞いた。胸の中の硬さが少しずつ崩れていく。香りの向こう側で、夢の残滓がまだざらざらと砂のように転がっていた。
「……夢を、見ました」
言葉にしてしまえば消えると思っていた。けれど、口にしても夢は消えず、ただ形を持った。セリーヌは両手でカップを包み、視線を紅茶の表面に落とす。揺れる茶面に、王都の広場が一瞬だけ映った気がした。
「王都の人たちの顔。声。わたしの名を呼ぶ声は、一度も優しくなかった」
カインは黙っていた。黙って、最後まで聞こうとしている気配。彼は言葉を持っているが、同じだけの沈黙も持っている。沈黙の手触りを、彼は知っているのだと思う。
「王太子の笑い声が、頭の中で何度も鳴りました。――『聖女ごっこは終わりだ』って。わたしが何かを間違えたとき、人は正しい怒りの顔をするのだって、知っているつもりでした。でも、あれは……」
「正しい顔ではなかった」
短い、けれど逃げ道を作らない言葉。セリーヌは小さく目を瞬いた。頷くことに時間がかかった。頷いたあと、喉の奥に溜めていたものが重力に負ける。
「わたしが……わたしが弱かったから」
「弱くない」
「弱くなかったら、もっと上手に笑って、誰も責めずに済んだのに」
「上手に笑う必要はない」
湯気が二人の間で薄く揺れる。彼の声は冷たい石とよく馴染み、同時に火のそばにいるような温度も持っていた。セリーヌはゆっくりと息を吐き、二口目を飲む。そこで、胸の奥にさざ波のような痛みが走った。痛みは、この城に来てから何度も姿を変える。さっきまで眠れなかったのは、たぶん、この痛みが名を持たないままだったからだ。
「……もう終わったことだ」
カインが言った。言葉に刃はなかった。むしろ、刃物の鞘の方に似た落ち着きがあった。彼は紅茶を飲むでもなく、彼女の肩の高さに合わせて少しだけ膝を折り、その手を――ごく自然に――彼女の肩に置いた。
驚きはなかった。触れられることへの恐怖も、なかった。ただ、肩の上に置かれた重みが、今の自分の輪郭を教えてくれる。彼の手は熱くも冷たくもない。“ここだ”と告げる、指先の確かさだけがあった。
言葉が、いくつも喉の手前で崩れた。次に出てきたのは、声にならない音だった。息と一緒に解ける、それでも音の形をした何か。セリーヌは目を閉じ、首を小さく振った。振ったあとで、振る必要などなかったと思った。肩の上の手は動かない。ただ、いる。
涙は静かに落ちた。大げさな嗚咽は要らなかった。頬に伝うものの温度に自分が驚く。こんなにも自分は水分でできていたのか、と他人事のように思う。涙がカップの縁に落ちないよう、少しだけ腕を伸ばして置く位置を変えた。
「……強くならなくていい」
カインの声は、城のどこにいても見失わない道標のように、短くまっすぐだった。
「ここは戦場だと思われがちだ。だから、立っている者はみな剣になると考える。だが剣の側に、火や、水や、器が要る。お前は器でいい」
「器……」
「熱を受け止め、冷たさを受け止め、満ちたり空いたりしながら、誰かを渇きから戻す。お前はもうやっている」
「わたしは……ただ、紅茶を淹れただけ」
「それでいい」
涙の味と紅茶の香りが混ざる。肩に置かれた手は、いまだ同じ重さ。同じ位置。セリーヌは小さく笑おうとして、うまくいかず、息を一回挟んでからもう一度やり直した。今度は、少しだけできた。
「カイン」
呼んだ瞬間、彼の手の重みがごく僅かに変わった気がした。反応は薄い。けれど確かに何かが波紋した。自分の口から出た名前は、考えていたよりも簡単に空気になった。言ってはいけない言葉ではなかった。むしろ、ずっと言いたかった言葉だったのだと分かった。
「ありがとう」
言ったあと、胸が温かくなる。礼を言える場所に自分が立っていることが、救いだった。王都では、礼を言う相手を見失ってばかりだった。怒りの矢面に立たされると、人は礼を忘れる。礼を言う暇も奪われる。
カインは頷いた。薄く、しかし否やのない頷き方で、それ以上の言葉は添えない。沈黙が、二人の間の椅子にそっと座る。湯気はもう薄い。けれど香りは、まだ底の方に残っていた。
「……眠れるか」
「うん。たぶん、さっきよりは」
「なら、ここで少し座れ。火は弱めておく」
彼は火加減を見ながら、台所の端に置かれた古い椅子を手で示した。セリーヌはそこに腰を下ろし、カップを両手で包んだ。肩の上の手は、もう離れていた。離れたことが不安ではないのは、その重みの記憶がちゃんと体に残っているからだ。
「ねえ」
「なんだ」
「みんな、わたしのことを“聖女”って呼ぶのを、いつかやめてくれるかな」
「お前が望むなら、やめさせる」
「そんなに簡単に?」
「名は道具だ。必要がなければ置けばいい」
「……わたし、名前で呼ばれたいの」
「セリーヌ」
自分の名は、城の石にも紅茶の香りにも馴染んだ。誰かがその名をまっすぐに呼ぶのを、どれだけ待っていたか。胸の奥で、固くなっていた何かが音もなくほどけた。
「ありがとう、カイン」
もう一度、名前を呼ぶ。今度は、ほんの少しだけ笑って言えた。笑うのは難しくない。難しくしていたのは、あの広場の記憶にいつまでも借りを作っていたからだ。返すべきものを返してしまえば、笑い方は思い出せる。たぶん。
夜が、少しだけ薄くなった気がした。窓の外に、雲の切れ間が生まれ、月が細く姿をのぞかせる。冷たい光が床の上を滑り、カップの縁で小さく跳ねた。セリーヌはまぶたを半分閉じる。視界が柔らかくぼける。
「眠っていい」
カインの声が最後に届く。セリーヌは椅子の背へ体を預け、ショールを胸元で引き寄せた。心臓の鼓動はさっきよりも静かだ。夢の中の広場は、遠のく。群衆の声は、波打ち際の泡の音に変わっていく。王太子の笑いは、石畳の隙間に落ちて、音を失った。
彼女は眠りの手前に立つ。落ちる前に、もう一度だけ確認する。
――ここは、あの日の広場ではない。
――ここは、火加減を見てくれる人のいる、夜の台所だ。
肩の上の重みは消えた。けれど、言葉は残った。
もう終わったことだ。
その言葉が、胸の内側で薄く灯り、暗い部屋を見渡せるほどの明るさに育っていく。セリーヌは小さく微笑み、やがて静かに目を閉じた。紅茶はかすかに冷め、香りはまだ、彼女の呼吸と同じリズムで揺れていた。
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