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若き王と冥導師
三話 死なぬ忠誠
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昼の政務が一段落し、執務室には紙の擦れる音だけが残っていた。
雀夜は書簡に目を通しながら、ふと正面の壁へ視線を流す。そこには、古い肖像画。柔らかな眼差しで誰かを見つめる男──始祖帝。
今の孔晃より少し年上で、威厳と慈愛をあわせ持つ顔立ち。光の加減で、その瞳がわずかに揺れて見えた。
歴史の中の人物。書に記され、名を残し、最も偉大と称えられる遠い王。
争いを嫌い、優しく雀夜を呼び、既に冥府に渡った過去の主。
「……孔元……」
誰にも届かないほどの小さな声で雀夜が呼んだのは、始祖帝の名だった。
書簡を握る雀夜の指に力が入る。初代が没してから、二百年以上の歳月が流れている。その間に王は七回変わり、そのたびに、雀夜は同じ誓文を読み、同じ印章を確認し、同じ言葉を述べた。
時代は次から次へと変わり、制度も民も随分整った。
雀夜だけが、変わらずにここに立っている。
始祖帝の肖像画を、雀夜はしばらく黙って眺めていた。
戻らない日々を思い出すように。
「雀夜。あとは頼んだ」
そう言い残して、始祖帝、孔元は永く覚めない眠りに就いた。
病であったが、享年は六十五。老衰と言って差し支えない。
雀夜はその魂を胸に抱いて、冥府へと運んだ日を、今もまだ忘れられないでいた。
「雀夜、何をしている」
孔晃の声で、雀夜の意識は現実へと引き戻された。
孔晃が歩み寄り、机の上へ新しい案件を置く。
雀夜は肖像から目を離した。まるで、何を見ていたわけでもないというように。
「いいえ、陛下。……何も」
紙がめくれる音がまた室内に満ちる。さきほど胸をかすめた感情は、形を失い、ただ一点、目に見えない余韻だけが壁に残った。
「人の街に、また妖が増えたな」
孔晃が書簡に目を伏せたままぽつりと言う。
雀夜は少しだけ目を細め、孔晃を見て首をかしげた。
「この煌玄国は人と妖で成り立つ国。あなた様はその全てを束ねる王。人である王の国に妖が増えると言うことは、陛下の治世が妖にも快いものであるということでございます」
孔晃は筆を置き、執務室の椅子に背をもたれる。
雀夜が側に寄ると、孔晃はその羽の先を指で弄んだ。
抵抗の無い、引けば抜けそうな羽を見つけて指の先で摘む。
「反乱を企てる妖がいるかもしれん」
「……妖は、荒事が好きなものですから」
「お前はどう見る」
その問いに、雀夜はほんの一拍置いて答えた。
耳心地の良い響きだけを残すように。
「戦など、起こり得ませぬ」
「何故言い切れる」
「私が在りますので」
「……そうか」
短い応答。そこに疑問も、不安も挟まらない。
雀夜はいつも孔晃の欲しい言葉を選んで置いていく。
孔晃は指先に力を込める。
羽の根元に伝わる感触を確かめるように、一枚、抜いた。
小さな抵抗も、声もない。
ただ、抜けた羽が孔晃の指に残る。
孔晃の口元に愉悦とも、安堵ともつかぬ感情が滲むのを、その羽で隠すように持っていく。
「私はこの国の誕生から今日まで、王に仕える影でございます」
「……“偉大なる始祖帝”から、か」
「はい。影は離れません。常にお足元に。」
孔晃は立ち上がり、手元の羽を雀夜の頬へ滑らせた。それを合図とするように、雀夜は孔晃の手を取り、指を絡めて握る。
羽と同じ色の睫毛が瞼と共に閉じられると、孔晃は雀夜の首の後ろを掴んで、唇を押し当てて舌を割り入らせた。
「……っ、ん」
吐息混じりに漏れた声ごと飲み込むように、孔晃は舌を絡めては引き、喰む。
唾液を伝わせ、吸い上げて、喉奥まで痺れるような執拗さで、深く溺れさせていく。
「は……っ、陛、下……」
雪崩れるように重なると、どこにも逃げ場のなくなった熱が唇に籠る。孔晃の腕を掴んだ手に力が入る。
唇が離れると、言葉になる前に溶けた息が漏れ、舌の先から銀色の糸が伸びて繋がった。
「この身は陛下のため、この国のため」
「この国のため、か」
「ええ、この国の果てまで」
孔晃は一瞬息を止めてから短く笑うと、その返答を嫌うように羽を強く引いた。
「ッ……!」
ぶち、という音と共に雀夜の顔が一瞬苦痛に歪む。抜けたいくつかの羽が孔晃の手のひらに残り、指の間からふわりと落ちた。
「俺のいなくなった後の世など、考えるな」
「……申し訳ございません。陛下」
「……」
孔晃は不機嫌を隠しもせず、雀夜から離れると、歴代皇帝の肖像画が並ぶ壁へ歩みを進めた。
その中央、始祖の皇帝の前で立ち止まる。
「始祖は偉大か、雀夜」
「ええ。民を想い、臣下を想い、争いを嫌い……よく笑う方でございました」
雀夜が柔らかく笑う。古い友の話をするように、その顔と声は穏やかさに満ちていた。
対照的に、孔晃の胸にじわりと靄がかかる。黙った孔晃に気付いた雀夜が、その場で頭を下げた。
孔晃は肖像画を見つめ、指先で軽く触れる。
「俺は、始祖帝を超えるぞ」
「……あなた様ならば」
「人も妖も束ね、この帝国を唯一の国とする。歴史には“最も”偉大な皇帝として名を連ねよう」
始祖帝の微笑が、若い王を照らしていた。
雀夜はその後ろで、孔晃に向かって頭を下げ続ける。
雀夜の唇が動いた。
「必ずや。陛下」
その声は床へと向かい、孔晃へは飛んでいない。
始祖帝の死から二百年、雀夜は一度も喪に服さなかった。
雀夜は書簡に目を通しながら、ふと正面の壁へ視線を流す。そこには、古い肖像画。柔らかな眼差しで誰かを見つめる男──始祖帝。
今の孔晃より少し年上で、威厳と慈愛をあわせ持つ顔立ち。光の加減で、その瞳がわずかに揺れて見えた。
歴史の中の人物。書に記され、名を残し、最も偉大と称えられる遠い王。
争いを嫌い、優しく雀夜を呼び、既に冥府に渡った過去の主。
「……孔元……」
誰にも届かないほどの小さな声で雀夜が呼んだのは、始祖帝の名だった。
書簡を握る雀夜の指に力が入る。初代が没してから、二百年以上の歳月が流れている。その間に王は七回変わり、そのたびに、雀夜は同じ誓文を読み、同じ印章を確認し、同じ言葉を述べた。
時代は次から次へと変わり、制度も民も随分整った。
雀夜だけが、変わらずにここに立っている。
始祖帝の肖像画を、雀夜はしばらく黙って眺めていた。
戻らない日々を思い出すように。
「雀夜。あとは頼んだ」
そう言い残して、始祖帝、孔元は永く覚めない眠りに就いた。
病であったが、享年は六十五。老衰と言って差し支えない。
雀夜はその魂を胸に抱いて、冥府へと運んだ日を、今もまだ忘れられないでいた。
「雀夜、何をしている」
孔晃の声で、雀夜の意識は現実へと引き戻された。
孔晃が歩み寄り、机の上へ新しい案件を置く。
雀夜は肖像から目を離した。まるで、何を見ていたわけでもないというように。
「いいえ、陛下。……何も」
紙がめくれる音がまた室内に満ちる。さきほど胸をかすめた感情は、形を失い、ただ一点、目に見えない余韻だけが壁に残った。
「人の街に、また妖が増えたな」
孔晃が書簡に目を伏せたままぽつりと言う。
雀夜は少しだけ目を細め、孔晃を見て首をかしげた。
「この煌玄国は人と妖で成り立つ国。あなた様はその全てを束ねる王。人である王の国に妖が増えると言うことは、陛下の治世が妖にも快いものであるということでございます」
孔晃は筆を置き、執務室の椅子に背をもたれる。
雀夜が側に寄ると、孔晃はその羽の先を指で弄んだ。
抵抗の無い、引けば抜けそうな羽を見つけて指の先で摘む。
「反乱を企てる妖がいるかもしれん」
「……妖は、荒事が好きなものですから」
「お前はどう見る」
その問いに、雀夜はほんの一拍置いて答えた。
耳心地の良い響きだけを残すように。
「戦など、起こり得ませぬ」
「何故言い切れる」
「私が在りますので」
「……そうか」
短い応答。そこに疑問も、不安も挟まらない。
雀夜はいつも孔晃の欲しい言葉を選んで置いていく。
孔晃は指先に力を込める。
羽の根元に伝わる感触を確かめるように、一枚、抜いた。
小さな抵抗も、声もない。
ただ、抜けた羽が孔晃の指に残る。
孔晃の口元に愉悦とも、安堵ともつかぬ感情が滲むのを、その羽で隠すように持っていく。
「私はこの国の誕生から今日まで、王に仕える影でございます」
「……“偉大なる始祖帝”から、か」
「はい。影は離れません。常にお足元に。」
孔晃は立ち上がり、手元の羽を雀夜の頬へ滑らせた。それを合図とするように、雀夜は孔晃の手を取り、指を絡めて握る。
羽と同じ色の睫毛が瞼と共に閉じられると、孔晃は雀夜の首の後ろを掴んで、唇を押し当てて舌を割り入らせた。
「……っ、ん」
吐息混じりに漏れた声ごと飲み込むように、孔晃は舌を絡めては引き、喰む。
唾液を伝わせ、吸い上げて、喉奥まで痺れるような執拗さで、深く溺れさせていく。
「は……っ、陛、下……」
雪崩れるように重なると、どこにも逃げ場のなくなった熱が唇に籠る。孔晃の腕を掴んだ手に力が入る。
唇が離れると、言葉になる前に溶けた息が漏れ、舌の先から銀色の糸が伸びて繋がった。
「この身は陛下のため、この国のため」
「この国のため、か」
「ええ、この国の果てまで」
孔晃は一瞬息を止めてから短く笑うと、その返答を嫌うように羽を強く引いた。
「ッ……!」
ぶち、という音と共に雀夜の顔が一瞬苦痛に歪む。抜けたいくつかの羽が孔晃の手のひらに残り、指の間からふわりと落ちた。
「俺のいなくなった後の世など、考えるな」
「……申し訳ございません。陛下」
「……」
孔晃は不機嫌を隠しもせず、雀夜から離れると、歴代皇帝の肖像画が並ぶ壁へ歩みを進めた。
その中央、始祖の皇帝の前で立ち止まる。
「始祖は偉大か、雀夜」
「ええ。民を想い、臣下を想い、争いを嫌い……よく笑う方でございました」
雀夜が柔らかく笑う。古い友の話をするように、その顔と声は穏やかさに満ちていた。
対照的に、孔晃の胸にじわりと靄がかかる。黙った孔晃に気付いた雀夜が、その場で頭を下げた。
孔晃は肖像画を見つめ、指先で軽く触れる。
「俺は、始祖帝を超えるぞ」
「……あなた様ならば」
「人も妖も束ね、この帝国を唯一の国とする。歴史には“最も”偉大な皇帝として名を連ねよう」
始祖帝の微笑が、若い王を照らしていた。
雀夜はその後ろで、孔晃に向かって頭を下げ続ける。
雀夜の唇が動いた。
「必ずや。陛下」
その声は床へと向かい、孔晃へは飛んでいない。
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