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第13話 『戻る』のボタンが欲しい

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 失敗? 買収が?

「……」

 フェルミーは無表情ながらもどこか暗い。聞き間違いではないらしく、それ以上言葉を加えることもなかった。
 
「その先生って誰だったの?」
「語学教師のアダムス先生です」
「アダムス先生か」

 名前を呟いて真顔になるシオン先生。何か思うところがあるのかもしれない。
 
「お嬢様?」
「ああ、シオン先生には作戦がばれてるから安心して」
「そゆこと。大切なお嬢様奪っちゃってごめんね」

――奪われたつもりはないけど。

 シオン先生はさっきの表情が嘘のように茶目っ気満載でフェルミーに笑いかけた。対するフェルミーは笑い返すこともなく一度頷いただけだった。本当にこの人、執事業以外の反応が薄いな。

「それでアダムス先生の事だけど」

 シオン先生の方もまるで何事も無かったかのように話を続けた。

「まずいと思うの」
「まずい?」
「だってほら、アダムス先生って学年主任でしょ。私たち教師陣の元締めみたいなところもあるから、たとえ他の先生を買収しても、彼が『NO』と口にすれば全てがひっくり返っちゃうなんてことも考えられるんじゃないかしら」
「なっ……」

 なんだと。ここまでせっせとやってきた買収活動が全て無に? 学年主任にそこまで強い権限があるなんて話、知るわけない。こっちはこの世界にやって来て数日しか経ってないんだぞ。
 外はもう暗くなっていた。こんな時間まで頑張ったのに。
 
「でも変」

 シオン先生は顎に手を当てながらポツリと呟いた。

「彼だって今までは他の先生みたいに成績買収に応じていたはずよ。それが今になってどうして買収を断ったのかしら」

 今まで買収出来ていた相手が出来なくなった。それは確かに変かもしれない。

「フェルミー」
「はい」
「アダムス先生のところに連れて行って」

 とりあえず確かめてみよう。

「もし何かあったら先生も相談に乗るから言ってね」
「はい、ありがとうございます」

 シオン先生にお礼をして、僕らはアダムス先生のいる図書室へと向かった。

===

「ここです」

 図書室と書かれたありきたりな看板。
 夜も七時を過ぎている。こんな時間だからか、室内には誰かが残っている気配がない。いや、一人いる。あれは。
 
「リリェル……さん?」

 広い机にポツン座っている。その後ろ姿は授業中に見ているそれと同じものだった。勉強中らしく、いくつかの本が広げられている。

――すごい集中力。

 僕たちの入室にも気付かない。
 それにしても放課後になるとすぐ教室を飛び出していたけど、なるほどここで勉強していたのか。確かにあのうるさい教室より何百倍もいい。

「お嬢様、先生はこちらの部屋になります」

 先に進んでいたフェルミーが振り返って僕を呼んでいる。

「ええ、今行くわ」

――彼女のことはひとまず置いておこう。まずは買収の件を優先……

「森田さん?」

 僕の名前を呼ぶ声。
 防音加工の図書室。くぐもった少女のその声は、足を止めるのに十分だった。

「あっ、あら、ごきげんよう」

 咄嗟に出るのはぎこちない挨拶。気付かれる前に通り過ぎようとしていた僕に用意出来るものはこれだけだ。
 しかし気まずい。だって一体どの面下げて彼女と会話する? 彼女の机にゴミを捨て、挙句、宣戦布告をしたこの自分が。彼女だって内心僕なんかと関わりたいと思ってないだろう。ついうっかり声をかけちゃったに違いない。
 ここは軽く挨拶してフェルミーのとこに行こう。

「じゃあ私はこ……」
「図書室に用事ですか?」

――え、会話続けるの?

「え、ええ、まあね」

 さすがに無視するわけにはいかないから答えたけどいいのだろうか。メンタル的に不快じゃない? それとも無理に気を使って会話してくれてるのか? だったらほんと申し訳ない。とりあえずなんだ、こっちも当たり障りのない会話してみるか?

「リリェルさんこそ、こんな時間まで勉強を?」

 質問には質問で返す。どうだ、会話としては結構無難なチョイスなんじゃないだろうか。自分の話題で話を広げるって手もあるけど、さすがに先生を買収しにきたなんて言えないからな。あとは相手の返答を待つのみ。

「ええ。学校ならこの時間でも明るいし、部屋も温かいから」

――よかった、割と普通の反応だ。というか、そんな理由で学校に残ってたんだ。

 確かにリリェルの家はアレだもんな。窓ガラスにヒビが入っていたり、隙間風が通り抜けて寒かったり、住むにはまあ適さない感じだ。多分あの感じだと電気も通っていないんだろうし。
 節約と実用性を考えている判断だと思う。見かけによらずたくましい。こんな時間じゃなきゃね。

「でも、この時間まで残るのは危険じゃないかしら」

 当然のことながら外はすっかり暗い。
 お抱えの執事がいるわけでも、送迎してくれる爺やがいるわけでもなさそうなのに、一人で夜道を歩くというのはあまり好ましいことではないだろう。
 リリェルは一瞬不思議そうに僕を見上げた後、少し笑って答えた。

「シオン先生が一緒に帰ってくれるので」
「先生が」
「はい」

――なるほど……なるほど。

 確かに大人が一緒に帰るなら安心だろう。なるほど、先生。さすがだ、先生。壁ドンしてくる変な一面もあるけど、一応やることはちゃんとやっているらしい。……大丈夫だよな、リリェルには壁ドンしてないよな?

「……」
「どうしました?」

 別に変なことされてるって感じでもないか。相手の心は読めないけど、無理して笑ってるようでもなさそうだし。

――とりあえずは「味方になる」っていう先生の言葉を信じてもいいかな。

「なんでもありませんわ。そろそろ私はこれで……ん?」

 机に見覚えのあるものが置いてある。
 ノートにペンに桜色の包みに――これはもしかしなくても、プレゼントもといゴミとして机に捨て置いた文房具セット一式、そうか使ってくれてるんだ。

「あ、えっとこれは、いらないって言っていたから。その、不快に思ったらごめんなさい!」
「それは、まあ別に」

 元々あげるつもりだったしね。
 過程はどうあれ使って貰えるならそれは嬉しい。問題はそこじゃない。

「それ」
「?」
「そっちのノートは使わないのかしら?」
「あっこれは」
 
 ノートが机の上に広げられている。でも肝心の中身は何も書かれず真っ白。つまり使われていない。なんだそれは。飾りか。
 リリェルは俯いた。耳を澄ませるとぽそぽそと何か言っている。

「……勿体なくて」
「勿体ない」
「ここに文字を埋めてしまったらそれだけで終わってしまうと思って。だから私、心の中で文字を書いたことにして。そうすればほら、何回でもノートが使えるから」
「…………え?」
「え?」

 耳を疑った。
 ということは何か。この子は真っ白なノートを見つめながら、文字を書いたつもりになって何時間もみつめて勉強していたのか。ノートにそんな使い方があったなんて。いやいや、無い。無いよ、そんな使い方。ペーパーレスもびっくりだよ。

「あ、のね」

 そこまで口にして言葉が詰まった。ここでつっこむのはやめた方がいいのかもしれない。その証拠に「何か間違ったこと言ったかな?」と思ってそうな表情で首を傾げている。本気だ。本気でノートを使うことが勿体ないと思ってこの方法を取っているんだ。

「やっぱり何でもな……」

――いいのか? 本当にそれで。

 このままこの先もノートやペンは使わないのか。それはつまり、今後も彼女にノートやペンは必要ないってことになるわけで。

――そんなわけないだろ。

「……リリェルさん」
「は、はい」

 そんなに不安そうに見ないでくれ。不安なのはこっちも同じだよ。だって今からまた、最低な発言をしようとしてるんだから。

「いい? 別にね、そんなゴミなんてうちに腐るほどあるの。それなのに、その一冊もまともに処理出来ないようじゃ、そのうち貴女の机の周りはゴミだらけになってしまうわね」

 はい、出ました最低発言。またゴミって言っちゃいました。誰がって? はい、僕です。最低野郎です。でも、これしか思いつかなかったんだから仕方ない。自分のコミュ力の無さにはほんとがっかりだよ。

「あの、それってつまり」
「誰が今日限りって言ったのよ。ゴミなんて定期的に出るわ。処理してよね、ちゃんと」

 だから別にそれだけを大切に扱わなくてもいいんだ。必要なら何度だって捨ててやるよ、勿体ないから使えないなんて思えなくなるくらいに。これが最低の行為でも。それが名目上の『ゴミ』でもさ。――どうだ伝わったか?

「私、これから用事があるの」

 反応は見たくなかった。僕は普通の男子高校生だから、人に嫌われるのは慣れてない。

「ごめんなさい、呼び止めてしまって」
「別に」

 僕は振り返らず、そのままフェルミーの待つ奥の部屋へと向かった。
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