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閑話休題
閑話休題1 縄文期の地政学からみた|淡海国《おうみのくに》
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縄文期、日本最大の淡水湖である近江は、10000年以上前から縄文の終焉まで、人が住み続けていたと発掘調査の結果が得られています。四季が巡り、住環境が「琵琶湖」という淡水湖を中心に凝縮していて、水上交通網すら縄文期から存在した近江近郊は、巨大な食料生産地であったのは間違いありません。
鮒寿司のような形で、保存食が造られたのは、熟れ鮨が造られたのは、奈良時代には始まっていたと考えると、米の大量栽培と交通網の整備が確立した弥生時代には、始まったのではないかと推定することもできる。
東西の境界となる不破を抱え、重心となるハートランド美濃、海上交通の要衝である若狭沿岸、瀬田から川を下って難波へと繋がり、南に甲賀・伊賀の山岳民とも繋がる地域であるった。しかしながら、中央に巨大な琵琶湖があるために、陸地同士では繋がりが薄く、経済の要衝であっても、政治・経済の中心となるには、核となる地域が分散してしまうため、難しい地域でもあった。
縄文期は、琵琶湖そのものを治水できるほどの技術は無いので、琵琶湖の水位は、かなり大きく変動したと推定されます。1995年管理最高水位が+0.95mで、1994年管理最低水位が-128mと高低差130mありますが、平成30年でも1m程度の水位差がありますので、縄文期であれば10m程度の水位差は、当たり前のように起きていたと推定されます。
琵琶湖に流れ込む百本以上の川あり、琵琶湖から流れ出すのは瀬田川一本であり、瀬田川が土砂が溜まりやすく、琵琶湖周辺の洪水被害は、かなり大きなものであったと考えられます。
こういった状況から、洪水は毎年の風景であり、琵琶湖の湖岸線そのものが、かなり流動的なものであったと推定されます。
ナイル川が氾濫することで、豊かな恵みをエジプトへもたらしたように、縄文期の琵琶湖は、氾濫による被害はあっても、豊穣の恵みを与えられていたと考えられます。そういう意味では、「葦原中つ国」の現風景というのは、琵琶湖岸の様子であったとも言えるのです。縄文時代には生活そのものが、琵琶湖の水位に合わせた形で作られていたと思われます。
水位変化1m程度となる水域では、葦原が覆い茂る地域となる。このような地域では、最初から水が溢れるとわかっているから、春先に葦原を焼いて、鯉や鮒の散乱しやすい状況を作り上げ、鯉や鮒の生活空間を自分の居住空間に近づけ、葦原の成長と共に水路に設置した罠で漁をおこない、様々な貝を採取して、家の周囲に植樹した堅果類を採取することで食料の自給体制を確立する。
秋に数メートルに成長した葦原からは、湖水が引いて乾いた大地が顔を出すので、数メートルに成長した葦原を刈り取って、住居の建材や薪として活用する。
縄文期では、琵琶湖の水位変化が、季節変化に対応しているという周期性を活用し、縄文の生活に応用したのが、琵琶湖岸の生活風景ということになる。
水位変化の小さい場所では、葦原と同じことを稲作にも応用し、藁という材料を得ると共に、米の採取が行えたのも、縄文後期における琵琶湖岸の様子であったと推定されます。春先に藁焼きを実施して、籾を撒いて成長した段階で琵琶湖の水位上昇で水田となり、秋に水が引いて刈り取りをおこなうという、草創期の稲作が始まったのも、琵琶湖岸であったとも思われます。
天然の水田が生まれたのが、縄文期の大きな湖畔地域であり、人工的に田圃の水位を調整できるようにするために、大規模な治水のための土木工事が始まったのが、墳丘の形に古墳が造成された時代であったと思います。そういった意味では、古墳時代こそが弥生時代であったのである。
琵琶湖は、淡水の海であり、古くから淡海と呼ばれていたと思います。
水量が豊富だけど、数メートルは水位差が生じると考えれば、琵琶湖の沿岸に家を建てることはできないので、ある程度高台になった場所に集落を作るしかなかった、琵琶湖岸は縄文時代に高地性集落が形成されました。琵琶湖の場合、周囲に濠を巡らす必要もなく、勝手に周囲が水に沈んでいく環境であり、水郷の中にある高台に集落ができるというものだったと推定されます。
平成10年に那珂川が氾濫した時に、水戸に住んでいて、60㎝から1m沈んだが、昭和の頃には平屋の家が沈み、氾濫の結果として平屋が多かった、水府町一帯は、水平線が見えたと町の人が言った時で、2m以上の浸水があったようだ。
琵琶湖は、毎年、数mの浸水をすると考えれば、人の住居は、10m以上の高台でなければならず、自然に高地性環濠集落が形成されたのだろうと推定される。
日ノ本の場合、川は氾濫するのだから、高台に家を建てるのは当たり前で、高槻の日吉台小学校にも縄文期の集落が形成されていたのを発掘時に見たけれど、日吉台小学校の位置は高台であり、坂の上に作られていて、田圃が広がっている地域とは10m以上の高低差があった。
琵琶湖で1mから3mの水位差があったとすると、巨椋池から、河内湖あたりを含め、淀川の水位変化もかなりあると推定できます。鴨川や桂川についても、毎年のように氾濫していたという話もありますので、日ノ本の河川沿いや湖岸の居住区は、高地性集落の形を自然ととっていたのではないかと思います。
弥生時代というのは、現代人から見た、日ノ本の原風景が始まった頃というのではないでしょうか?縄文草創期に、ドングリを中心とした堅果類がカロリーの中心であった頃から、米がカロリー取得に変わったのが、弥生時代であるとすれば、縄文から弥生の流れは、現在の前4世紀から後3世紀までに、風景が変化していったのであって、縄文期から民族が変わったわけでは無い。
しかしながら、秦によって大陸で滅ぼされた国々から、日ノ本へ逃亡し亡命した者達が、日ノ本各地で徐福の伝承を残している。こういった亡命者は、秦が滅びた時にも生じており、多くの亡命者達が、日ノ本へと亡命し、伝承を各地に残している。結果として、大人数が行う戦争技術や、作業者の大量動員によって造りあげることができる治水技術、こういった大陸で培われた技術が、日ノ本へも浸透していくことで、大規模な墾田開発が日ノ本で推進されていった。
鮒寿司のような形で、保存食が造られたのは、熟れ鮨が造られたのは、奈良時代には始まっていたと考えると、米の大量栽培と交通網の整備が確立した弥生時代には、始まったのではないかと推定することもできる。
東西の境界となる不破を抱え、重心となるハートランド美濃、海上交通の要衝である若狭沿岸、瀬田から川を下って難波へと繋がり、南に甲賀・伊賀の山岳民とも繋がる地域であるった。しかしながら、中央に巨大な琵琶湖があるために、陸地同士では繋がりが薄く、経済の要衝であっても、政治・経済の中心となるには、核となる地域が分散してしまうため、難しい地域でもあった。
縄文期は、琵琶湖そのものを治水できるほどの技術は無いので、琵琶湖の水位は、かなり大きく変動したと推定されます。1995年管理最高水位が+0.95mで、1994年管理最低水位が-128mと高低差130mありますが、平成30年でも1m程度の水位差がありますので、縄文期であれば10m程度の水位差は、当たり前のように起きていたと推定されます。
琵琶湖に流れ込む百本以上の川あり、琵琶湖から流れ出すのは瀬田川一本であり、瀬田川が土砂が溜まりやすく、琵琶湖周辺の洪水被害は、かなり大きなものであったと考えられます。
こういった状況から、洪水は毎年の風景であり、琵琶湖の湖岸線そのものが、かなり流動的なものであったと推定されます。
ナイル川が氾濫することで、豊かな恵みをエジプトへもたらしたように、縄文期の琵琶湖は、氾濫による被害はあっても、豊穣の恵みを与えられていたと考えられます。そういう意味では、「葦原中つ国」の現風景というのは、琵琶湖岸の様子であったとも言えるのです。縄文時代には生活そのものが、琵琶湖の水位に合わせた形で作られていたと思われます。
水位変化1m程度となる水域では、葦原が覆い茂る地域となる。このような地域では、最初から水が溢れるとわかっているから、春先に葦原を焼いて、鯉や鮒の散乱しやすい状況を作り上げ、鯉や鮒の生活空間を自分の居住空間に近づけ、葦原の成長と共に水路に設置した罠で漁をおこない、様々な貝を採取して、家の周囲に植樹した堅果類を採取することで食料の自給体制を確立する。
秋に数メートルに成長した葦原からは、湖水が引いて乾いた大地が顔を出すので、数メートルに成長した葦原を刈り取って、住居の建材や薪として活用する。
縄文期では、琵琶湖の水位変化が、季節変化に対応しているという周期性を活用し、縄文の生活に応用したのが、琵琶湖岸の生活風景ということになる。
水位変化の小さい場所では、葦原と同じことを稲作にも応用し、藁という材料を得ると共に、米の採取が行えたのも、縄文後期における琵琶湖岸の様子であったと推定されます。春先に藁焼きを実施して、籾を撒いて成長した段階で琵琶湖の水位上昇で水田となり、秋に水が引いて刈り取りをおこなうという、草創期の稲作が始まったのも、琵琶湖岸であったとも思われます。
天然の水田が生まれたのが、縄文期の大きな湖畔地域であり、人工的に田圃の水位を調整できるようにするために、大規模な治水のための土木工事が始まったのが、墳丘の形に古墳が造成された時代であったと思います。そういった意味では、古墳時代こそが弥生時代であったのである。
琵琶湖は、淡水の海であり、古くから淡海と呼ばれていたと思います。
水量が豊富だけど、数メートルは水位差が生じると考えれば、琵琶湖の沿岸に家を建てることはできないので、ある程度高台になった場所に集落を作るしかなかった、琵琶湖岸は縄文時代に高地性集落が形成されました。琵琶湖の場合、周囲に濠を巡らす必要もなく、勝手に周囲が水に沈んでいく環境であり、水郷の中にある高台に集落ができるというものだったと推定されます。
平成10年に那珂川が氾濫した時に、水戸に住んでいて、60㎝から1m沈んだが、昭和の頃には平屋の家が沈み、氾濫の結果として平屋が多かった、水府町一帯は、水平線が見えたと町の人が言った時で、2m以上の浸水があったようだ。
琵琶湖は、毎年、数mの浸水をすると考えれば、人の住居は、10m以上の高台でなければならず、自然に高地性環濠集落が形成されたのだろうと推定される。
日ノ本の場合、川は氾濫するのだから、高台に家を建てるのは当たり前で、高槻の日吉台小学校にも縄文期の集落が形成されていたのを発掘時に見たけれど、日吉台小学校の位置は高台であり、坂の上に作られていて、田圃が広がっている地域とは10m以上の高低差があった。
琵琶湖で1mから3mの水位差があったとすると、巨椋池から、河内湖あたりを含め、淀川の水位変化もかなりあると推定できます。鴨川や桂川についても、毎年のように氾濫していたという話もありますので、日ノ本の河川沿いや湖岸の居住区は、高地性集落の形を自然ととっていたのではないかと思います。
弥生時代というのは、現代人から見た、日ノ本の原風景が始まった頃というのではないでしょうか?縄文草創期に、ドングリを中心とした堅果類がカロリーの中心であった頃から、米がカロリー取得に変わったのが、弥生時代であるとすれば、縄文から弥生の流れは、現在の前4世紀から後3世紀までに、風景が変化していったのであって、縄文期から民族が変わったわけでは無い。
しかしながら、秦によって大陸で滅ぼされた国々から、日ノ本へ逃亡し亡命した者達が、日ノ本各地で徐福の伝承を残している。こういった亡命者は、秦が滅びた時にも生じており、多くの亡命者達が、日ノ本へと亡命し、伝承を各地に残している。結果として、大人数が行う戦争技術や、作業者の大量動員によって造りあげることができる治水技術、こういった大陸で培われた技術が、日ノ本へも浸透していくことで、大規模な墾田開発が日ノ本で推進されていった。
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