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第10話 足音と笑い声は、ローンとは別口の贈り物だったらしい
静かな部屋というものは、長く住んでいるとそれが標準になる。
私はこれまで、自分の部屋に音が少ないことを特に不便だと思ったことがなかった。
テレビをつけるか、音楽を流すか、自分で何か発しない限り、家の中はだいたい静かだ。冷蔵庫の低い駆動音と、外の車の気配と、たまにスマートフォンが震えるくらいで、あとはほとんど無音に近い生活だった。
もちろん、それはそれで楽だった。
疲れて帰ってきた日は余計な刺激がない方がいいし、休日に誰とも話さず終わる日があっても、私は別に困らなかった。困らなかった、というより、それが一人暮らしというものだと思っていた。
だが最近になって、静けさにも種類があるのではないかという気がしてきた。
落ち着く静けさと、広すぎる静けさ。
前者は歓迎できるが、後者はたまに人の胸の内側を寒くする。
「ぱぱりん見てー!」
その考察を真正面から破壊する声が、廊下の向こうから飛んできた。
続いて、ばたばたばた、と軽い足音が近づいてくる。
私はソファに座ったまま顔を上げた。
透星である。
銀髪のロングを揺らしながら、本人だけが楽しい速度でこちらへ突っ込んでくるのは、もはや日常の一部として定着しつつあった。非常に不本意である。
「何だ」
「これ!」
彼女が差し出してきたのは、私の棚から勝手に取り出したらしいアクリルスタンドだった。
しかも、わりと古い。
昔のイベント用に少数だけ作って満足し、そのまま飾っていたオリジナルキャラクターのグッズである。
「勝手に触るな」
「でも可愛いじゃん」
「論点をすり替えるな」
「えー、だってぱぱりんの部屋、可愛いのとか綺麗なのとか変なのとかいっぱいあるし」
「最後に不穏な分類を混ぜるな」
透星は気にした様子もなく、アクスタを光に透かして見ている。
こちらとしてはだいぶ落ち着かない。
自作のキャラクターグッズを、モデル本人みたいな顔をした少女に無邪気に眺められる状況が、健全な精神へどのような影響を及ぼすのか、私はまだ知らない。
「これって誰?」
透星が訊く。
「誰、というのは」
「名前とか設定とか」
「……お前、自分で分からないのか」
「分かるけど、ぱぱりんが何て言うのか知りたい」
その返しは少しだけ意表を突いた。
私はアクスタと透星の顔を交互に見た。
たしかに、彼女は自分が空鈴透星だと名乗っている。名乗っているうえに、こちらの創作内容とも驚くほど一致している。
なのに、私がどう見ていたかの方を確かめたがる。
それは妙に、娘らしい問い方だった。
「……空鈴透星」
「うん」
「三姉妹の三女。銀髪ロング。わがままで、わんぱくで、天真爛漫」
「へへ」
「家の中を走り回る。騒がしい。たまに人の話を聞いていない」
「それ褒めてる?」
「八割は事実だ」
「えー、でも嬉しい」
透星は本当に嬉しそうに笑った。
そういうところなのだ。この子は。
柚灯や凛音なら、もう少し言葉の意味を吟味してから反応するだろう。
だが透星は違う。相手の言葉の中から自分に都合のいい温度だけを器用に拾って、そのまま喜ぶ。悪く言えば単純だが、良く言えば、幸福をその場で受け取る才能がある。
「ぱぱりん」
「何だ」
「これ、透星っぽい?」
「だいぶな」
「じゃあ、ぱぱりんの中では、透星って最初からこういう子だったんだ」
その言い方は、少しだけ意表を突いた。
私はアクスタと透星の顔を交互に見た。
たしかに、彼女は自分が空鈴透星だと名乗っている。名乗っているうえに、こちらの創作内容とも驚くほど一致している。
なのに、私がどう見ていたかの方を確かめたがる。
それは妙に、娘らしい問い方だった。
「……そういうことになるのかもしれないな」
私はそこで少しだけ言葉を止めた。
最初から。
その表現は、どこか引っかかった。
いや、引っかかるどころではない。妙に本質へ近い気もした。
だがいまそれを深く考えると、また別の方向へ思考が迷い込みそうだったので、とりあえず先送りにする。人間は理解不能な幸福に対して、時に考えない勇気も必要なのだと思う。たぶん。
「ぱぱりん、ほかにも見ていい?」
「よくはない」
「じゃあちょっとだけ」
「それは許可を取る態度ではない」
しかし、透星はもう次の棚へ視線を移していた。
足音が軽い。
動きにも遠慮がない。
この部屋の主が誰なのかという基本概念だけ、彼女の中ではだいぶ曖昧らしい。
私は立ち上がってあとを追った。
追わないと何をしでかすか分からない。
「おい、待て」
「待たなーい」
「待てと言っている」
「足が速い子って、だいたい待てないんだよ」
「初めて聞く理論だな」
透星はくるりと振り返り、その勢いのまま後ずさる。
危ない、と思った瞬間にはもう口が動いていた。
「後ろ、危ない!」
私は反射的に手を伸ばし、彼女の肩を引いた。
透星の足元には、床に置いていた収納ボックスの角があった。勢いよくぶつければ、たしかに転んでいたかもしれない。
透星は目を丸くして、それから私を見上げた。
「……ぱぱりん、いま普通に心配した」
「普通に危なかったからな」
「へへ」
「なぜそこで笑う」
「だって、何か嬉しい」
「嬉しい要素がどこにある」
「ちゃんと見ててくれてる」
その言葉は、あまりに真っ直ぐだった。
私は少しだけ言葉に詰まる。
見ていて当然だ、とはまだ言えない。
だが、見てしまうのも事実だった。
透星は放っておくと危ないし、騒がしいし、だいたい想定外の方向へ走っていく。だから視界に入れておかなければならない。理屈としてはそれだけだ。
……たぶん。
「ぱぱりん?」
「何だ」
「いまちょっと照れた?」
「照れていない」
「照れた顔だー」
「お前は本当に余計なところばかり見るな」
「だって、そういうの面白いし」
「私は面白くない」
そこで、ソファの方から凛音の声が飛んできた。
「透星、ぱぱりんいじるのそのへんにしなよ」
「えー」
「そのうち黙るよ」
「もうだいぶ黙りかけてる」
「だったらやめろ」
凛音は本をめくりながら、こちらも見ずに言う。
やはり長女である。
助けているのか、面倒を減らしたいだけなのか、判別がつきにくいところも含めて。
一方、キッチンの方からは柚灯の声がする。
「透星、棚の一番上は触らないでくださいね」
「はーい」
「返事が軽い」
「中身も軽いよ!」
「意味が分かりません」
「でも何か分かる!」
家の中に、声が行き交っていた。
足音も、笑い声も、台所の物音もある。
私はその真ん中に立っていて、ふと、昔のことを思い出す。
子どもの頃、親戚の家に行くと、家の中に音が満ちていた。台所の気配、テレビの音、誰かが廊下を歩く音、子どもが騒ぐ声。私はそういうものをある家にはあるものとして見ていた。
たぶん自分の人生には、あまり縁のない景色として。
それがいま、自分の部屋で鳴っている。
「ぱぱりん」
透星が、ふいに呼んだ。
「何だ」
「この部屋、前よりちょっと楽しいね」
私は答えなかった。
答えなかったが、否定もしなかった。
楽しい。
その言葉は少し軽くて、しかしこの場にはよく似合っていた。
透星はそのままソファへ飛び込み、クッションを抱えて転がった。
動きのすべてが騒がしい。
だが、たぶんこの子は、静かな部屋に楽しいという言葉を持ち込むためにいるのだろう。
その夜、寝る前に私はリビングを見渡した。
テーブルの上には透星が置きっぱなしにしたヘアピン。
ソファの端には彼女が丸めたままにしたブランケット。
廊下の向こうには、ついさっきまで走っていた足音の名残みたいな空気がある。
私は部屋の真ん中に立ったまま、小さく息を吐いた。
静かな部屋は落ち着く。
だが、音のある部屋がこんなに安心するものだとは、私は知らなかった。
足音と笑い声は、どうやらこの部屋のローンとは別口の贈り物だったらしい。
少なくとも、契約時の私はそんなものが後からついてくるとは思っていなかった。
私はこれまで、自分の部屋に音が少ないことを特に不便だと思ったことがなかった。
テレビをつけるか、音楽を流すか、自分で何か発しない限り、家の中はだいたい静かだ。冷蔵庫の低い駆動音と、外の車の気配と、たまにスマートフォンが震えるくらいで、あとはほとんど無音に近い生活だった。
もちろん、それはそれで楽だった。
疲れて帰ってきた日は余計な刺激がない方がいいし、休日に誰とも話さず終わる日があっても、私は別に困らなかった。困らなかった、というより、それが一人暮らしというものだと思っていた。
だが最近になって、静けさにも種類があるのではないかという気がしてきた。
落ち着く静けさと、広すぎる静けさ。
前者は歓迎できるが、後者はたまに人の胸の内側を寒くする。
「ぱぱりん見てー!」
その考察を真正面から破壊する声が、廊下の向こうから飛んできた。
続いて、ばたばたばた、と軽い足音が近づいてくる。
私はソファに座ったまま顔を上げた。
透星である。
銀髪のロングを揺らしながら、本人だけが楽しい速度でこちらへ突っ込んでくるのは、もはや日常の一部として定着しつつあった。非常に不本意である。
「何だ」
「これ!」
彼女が差し出してきたのは、私の棚から勝手に取り出したらしいアクリルスタンドだった。
しかも、わりと古い。
昔のイベント用に少数だけ作って満足し、そのまま飾っていたオリジナルキャラクターのグッズである。
「勝手に触るな」
「でも可愛いじゃん」
「論点をすり替えるな」
「えー、だってぱぱりんの部屋、可愛いのとか綺麗なのとか変なのとかいっぱいあるし」
「最後に不穏な分類を混ぜるな」
透星は気にした様子もなく、アクスタを光に透かして見ている。
こちらとしてはだいぶ落ち着かない。
自作のキャラクターグッズを、モデル本人みたいな顔をした少女に無邪気に眺められる状況が、健全な精神へどのような影響を及ぼすのか、私はまだ知らない。
「これって誰?」
透星が訊く。
「誰、というのは」
「名前とか設定とか」
「……お前、自分で分からないのか」
「分かるけど、ぱぱりんが何て言うのか知りたい」
その返しは少しだけ意表を突いた。
私はアクスタと透星の顔を交互に見た。
たしかに、彼女は自分が空鈴透星だと名乗っている。名乗っているうえに、こちらの創作内容とも驚くほど一致している。
なのに、私がどう見ていたかの方を確かめたがる。
それは妙に、娘らしい問い方だった。
「……空鈴透星」
「うん」
「三姉妹の三女。銀髪ロング。わがままで、わんぱくで、天真爛漫」
「へへ」
「家の中を走り回る。騒がしい。たまに人の話を聞いていない」
「それ褒めてる?」
「八割は事実だ」
「えー、でも嬉しい」
透星は本当に嬉しそうに笑った。
そういうところなのだ。この子は。
柚灯や凛音なら、もう少し言葉の意味を吟味してから反応するだろう。
だが透星は違う。相手の言葉の中から自分に都合のいい温度だけを器用に拾って、そのまま喜ぶ。悪く言えば単純だが、良く言えば、幸福をその場で受け取る才能がある。
「ぱぱりん」
「何だ」
「これ、透星っぽい?」
「だいぶな」
「じゃあ、ぱぱりんの中では、透星って最初からこういう子だったんだ」
その言い方は、少しだけ意表を突いた。
私はアクスタと透星の顔を交互に見た。
たしかに、彼女は自分が空鈴透星だと名乗っている。名乗っているうえに、こちらの創作内容とも驚くほど一致している。
なのに、私がどう見ていたかの方を確かめたがる。
それは妙に、娘らしい問い方だった。
「……そういうことになるのかもしれないな」
私はそこで少しだけ言葉を止めた。
最初から。
その表現は、どこか引っかかった。
いや、引っかかるどころではない。妙に本質へ近い気もした。
だがいまそれを深く考えると、また別の方向へ思考が迷い込みそうだったので、とりあえず先送りにする。人間は理解不能な幸福に対して、時に考えない勇気も必要なのだと思う。たぶん。
「ぱぱりん、ほかにも見ていい?」
「よくはない」
「じゃあちょっとだけ」
「それは許可を取る態度ではない」
しかし、透星はもう次の棚へ視線を移していた。
足音が軽い。
動きにも遠慮がない。
この部屋の主が誰なのかという基本概念だけ、彼女の中ではだいぶ曖昧らしい。
私は立ち上がってあとを追った。
追わないと何をしでかすか分からない。
「おい、待て」
「待たなーい」
「待てと言っている」
「足が速い子って、だいたい待てないんだよ」
「初めて聞く理論だな」
透星はくるりと振り返り、その勢いのまま後ずさる。
危ない、と思った瞬間にはもう口が動いていた。
「後ろ、危ない!」
私は反射的に手を伸ばし、彼女の肩を引いた。
透星の足元には、床に置いていた収納ボックスの角があった。勢いよくぶつければ、たしかに転んでいたかもしれない。
透星は目を丸くして、それから私を見上げた。
「……ぱぱりん、いま普通に心配した」
「普通に危なかったからな」
「へへ」
「なぜそこで笑う」
「だって、何か嬉しい」
「嬉しい要素がどこにある」
「ちゃんと見ててくれてる」
その言葉は、あまりに真っ直ぐだった。
私は少しだけ言葉に詰まる。
見ていて当然だ、とはまだ言えない。
だが、見てしまうのも事実だった。
透星は放っておくと危ないし、騒がしいし、だいたい想定外の方向へ走っていく。だから視界に入れておかなければならない。理屈としてはそれだけだ。
……たぶん。
「ぱぱりん?」
「何だ」
「いまちょっと照れた?」
「照れていない」
「照れた顔だー」
「お前は本当に余計なところばかり見るな」
「だって、そういうの面白いし」
「私は面白くない」
そこで、ソファの方から凛音の声が飛んできた。
「透星、ぱぱりんいじるのそのへんにしなよ」
「えー」
「そのうち黙るよ」
「もうだいぶ黙りかけてる」
「だったらやめろ」
凛音は本をめくりながら、こちらも見ずに言う。
やはり長女である。
助けているのか、面倒を減らしたいだけなのか、判別がつきにくいところも含めて。
一方、キッチンの方からは柚灯の声がする。
「透星、棚の一番上は触らないでくださいね」
「はーい」
「返事が軽い」
「中身も軽いよ!」
「意味が分かりません」
「でも何か分かる!」
家の中に、声が行き交っていた。
足音も、笑い声も、台所の物音もある。
私はその真ん中に立っていて、ふと、昔のことを思い出す。
子どもの頃、親戚の家に行くと、家の中に音が満ちていた。台所の気配、テレビの音、誰かが廊下を歩く音、子どもが騒ぐ声。私はそういうものをある家にはあるものとして見ていた。
たぶん自分の人生には、あまり縁のない景色として。
それがいま、自分の部屋で鳴っている。
「ぱぱりん」
透星が、ふいに呼んだ。
「何だ」
「この部屋、前よりちょっと楽しいね」
私は答えなかった。
答えなかったが、否定もしなかった。
楽しい。
その言葉は少し軽くて、しかしこの場にはよく似合っていた。
透星はそのままソファへ飛び込み、クッションを抱えて転がった。
動きのすべてが騒がしい。
だが、たぶんこの子は、静かな部屋に楽しいという言葉を持ち込むためにいるのだろう。
その夜、寝る前に私はリビングを見渡した。
テーブルの上には透星が置きっぱなしにしたヘアピン。
ソファの端には彼女が丸めたままにしたブランケット。
廊下の向こうには、ついさっきまで走っていた足音の名残みたいな空気がある。
私は部屋の真ん中に立ったまま、小さく息を吐いた。
静かな部屋は落ち着く。
だが、音のある部屋がこんなに安心するものだとは、私は知らなかった。
足音と笑い声は、どうやらこの部屋のローンとは別口の贈り物だったらしい。
少なくとも、契約時の私はそんなものが後からついてくるとは思っていなかった。
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