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<第四十話>
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自分はひょっとして、生まれたことそのものが間違いだったのだろうか。泣き叫ぶ脳内で、シェルはそう思った。中性的であらねばならないはずのホープ・コードなのに、女性的に振舞うことがまるでできなくて、その上けして結ばれない相手に恋をして。本来の果たすべき役目を平然と放棄しようとする欠陥品。人間の役に立つ為に生まれたはずが、人間のことなどろくに考えられもせず、同胞のことばかり想っているどうしようもない機械人形。
だから今、こんなことになっているのだろうか。
最も望まない物語の、最も最悪なエンディングを。愛した存在を巻き込んで、迎えようとしているのだろうか。
自分が生まれてきてしまったばかりに。
自分がミリーに――恋をしてしまった、そればかりに。
「う、ぁぁ…!!」
思考はぐるぐると回るのに、身体が自由に動かない。勝手に、ヤクザから奪った拳銃を抜いて構えている。照準の先にいるのは憎い敵などではなく、自分を命懸けで助けにきてくれた、命よりも大切な存在であるはずなのに。
「そうだ、シェル。そいつを殺せ殺せ殺せ!ああ、でも楽に死なせるんじゃねえぞ?俺に逆らって、俺の持ち物を盗もうとした大罪人だ。穴だらけにして、のたうち回らせて殺してやれや!」
ゲラゲラ、ゲラゲラ。
政紀の濁った声が庭中に響く、響く、響く。月夜と、スポットライトに照らされて。政紀が雇ったヤクザ達をギャラリーにして。B級映画のような悲劇が、今まさに繰り広げられようとしている。
――嫌だ、嫌だ!
ミリーを殺すなんて絶対に嫌だ。そんなことをするくらいなら、自分が死ぬ方が千倍マシだというのに、何で自分は逆らうことができないのか。
ご主人様と、契約されたホープ・コードの絶対的な契約。主人の存在ある限り、契約が解除されない限り。その声に従って、この身体は動き続けるしかないのである。殺せと言われれば、殺すように勝手に動くのだ。どれほど身体が傷だらけであろうと、どれだけ心が悲鳴を上げようとも。
――何故だ!悪いのは私だろう!?欠陥品で、ミリーのことを勝手に好きになって、その優しさに甘えて任務を放棄して逃げようとした。裁かれるべきは私だ、私のはずだろうが!!どうして、どうしてどうしてどうして!
とっくに知っていたことを、今再び思い知っている。
この世界に、神様なんていないのだ。いるのはただ、平等という言葉からは程遠い、支配者を気取る悪魔のような人間達ばかり。
――嫌だ!
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!
――だれか、そのまえに、ころして。
ダァン!と。切り裂くような銃声が上がった。
「うぁっ!」
ミリーの肩から血飛沫が上がる。シェルが撃った弾が、ミリーの肩を掠めたのだ。撃ち抜くところをギリギリで逸らそうとしたはずなのに、あの出血からするとかなり抉ってしまっている。今度は、それさえできないかもしれない。
「逃げろ……ミリー、頼む、逃げてくれっ……!!」
縛られていない声で、必死に訴える。
「今なら、まだ……衰弱している、私より。お前の方が疾く走れるはずだ……!逃げろ、このままだと、殺されるぞ……!」
殺される。殺されてしまう。ミリーが、ほかでもない――シェルの手によって。
自分で言った言葉が、何より自分を抉っていく。
「逃げない」
ミリーは痛みに呻きながらも、膝をつくことなく真っ直ぐシェルを見据えた。
「逃げたら私は、何の為に此処まで来たのか分からない」
「そんな事言っている場合か!このままじゃ……!」
「行くならシェルも連れていく。殴ってでも連れていくって決めたんだから!!」
「ミリー!!」
悲しいほど、恐ろしいほど、ミリーの意思は固いのか。その強さが今は、泣きたくて仕方ない。だから、シェルは。
「例え!私が奴に何も命じられていなくても……契約などなくても!此処から二人で逃げられたとしても!私はもう、以前の私じゃないんだ……!未来永劫、お前の荷物になるだけなんだ、そんなの御免なんだよ!分かれよクソが!!」
絶望を、悲鳴と共に叫んだ。
「私はもう、もう……お前にやれるもんなんか何も残っちゃいないんだよ!全部あのクズに奪われた!綺麗な部分なんぞ何もない!最初から欠陥品でしかなかった私には、最初からそれしかなかったってのに……!」
体中に、治療されていない傷が残っている。政紀に嗤いながら刻まれた傷。この五ヶ月の虐待で、自分は足の先から髪の毛の先まで汚れきってしまった。体の中身はもっと汚い。ただでさえ、心の方は生まれつき綺麗などではなかったのに、自分はもう身体まで汚泥のごとく穢れてしまっている。
「……私の腹には、そこのクズの子供がいるんだよ!何人目かもわからない子供だ。このままお前と一緒に逃げたらそいつまでお前に背負わせる……!そこのクズの汚れた血とともに!これ以上お前の重荷になるなんてごめんなんだ、何もやれないってのに、荷物にだけなるなんて冗談じゃねぇんだよ!だから、だから!」
本当は、ずっと怖かった。泣きたかった。
ミリーを、女の子と見ていた。女の子だと思って愛していた。中性的であらねばならないホープ・コードとして赦されないことと知りながら。
それなのに、自分は男でいたいという願望を自覚していたのに。大嫌いな男に、女扱いされて、挙句望まない子供を産まされて踏み潰されてきた自分の絶望が、一体誰に分かるのだろう。
望んだ未来が叶わないことなど分かっていた。多分、一番最初からわかりきっていたこと。ならせめて。たったひとつの希望だけ、叶えて欲しいと願うのは罪なことなのだろうか。
「だから、せめて!逃げることができないなら!お前の荷物になる前に、殺してしまう前に……私を殺して、終わりにしてくれ、ミリー!!」
ああ、きっと罪なんだろう。
助けにきてくれた愛しい人に、最低最悪の願いを押し付けているのだから。
「私ね」
再び、銃声が響いた。今度はミリーの足から血が噴き出す。それでもミリーは倒れることなく、静かな声で言葉を口にした。
「ずっと考えてたんだ。シェルのこと、とっても大切だし、大好きだと思うけど……その感情ってどういう種類のものなのかなって。キスされた時、嬉しかったし、全然嫌じゃなかった。多分自分も同じ気持ちなんだろうなって思った。でも、その時はまだ確信が持てずにいたの」
痛いはずなのに、ミリーは微笑んでいる。
少し困ったように、照れるように、慈しむように――微笑っている。
「皮肉にもね。シェルが閉じ込められて、酷い目に遭わされてるってはっきりと分かった時……ああもう否定できないなって、思ったんだよね」
「ミリー……」
「シェルをそんな目に遭わせた奴が憎くて、妬ましくて、自分で自分を抑えられなくなった。シェルが私のものじゃなくなったんだって知って、嫉妬した。……シェルを取り戻す為なら、何人殺しても、誰を不幸にしてもきっと平気なんだろうなって漠然と思ったの。……もうそれ、答え出てるようなものだよね」
大丈夫だよ、と。小さな身体のアンドロイドは、優しい声で言う。
歌うように、言う。
「私は、シェルを背負ったりしない。一緒に生きて、歩いてく。その為なら……私は、何だってする」
どうするつもりだ、と思った瞬間。ミリーの姿が掻き消えた。一瞬だが完全に見失う。何処に、と思った途端――凄まじい悲鳴が、庭中に響き渡っていた。
「あぎゃああああああああああああああ!!て、て、てえええ!?おれ、おれの手がががっがががっががあああああ!!」
何て汚い声だ、と場違いな感想を抱く。そして理解する。
シェルに命令するため、極上の悲劇を特等席で観劇するため。のこのこと前に出てきていた政紀の両腕が切断されて地面に落下していた。ミリーが男の傍で、ナイフを持って微笑んでいる。先ほどシェルに向けていたのとよく似た、それでも決定的に違う――穏やかな笑み。
この状況を見るなら、狂気的でしかない、聖母の顔をした悪魔の笑みで。
「痛い?痛いよねえ。私も痛かったよ?……シェルにはどんなことをしたのかな?きっともっともっと痛かったと思うんだ」
ざくん、と音がした。男が泡を吹いて白目を剥き、痙攣する。数人のヤクザ達が想像したのか露骨に凍りついたのが見えた。ミリーが、政紀の股間にナイフを突き刺したのである。
「あー汚い汚い。これ、後でちゃんと洗わないとなあ」
「ぎゃああああ、あががばばばばっばばばばばば」
「煩いよ。本当はもっと拷問したいけど、時間ないから終わりにするね」
本来なら、雇主のピンチに動くはずのヤクザ達が、完全に凍りついて動けなくなっている。ミリーの異様な雰囲気に、狂気に、憎悪に、威圧されている様子だった。百戦錬磨の暴力団員たちが、だ。
そしてもはや、政紀は。あまりの痛みに汚い悲鳴を上げ続けるばかりで、助けを求める言葉さえ口に出せずにいる。助けを求めたところで、この場でコイツを助ける人間がどれほどいるのか怪しいところではあったが。
ミリーの圧倒的な戦闘能力を、ヤクザ達は誰より身をもって知っているはずで。何より――この男に、どれほど人望があったか怪しいところだろう。
「主人がいなくなれば、契約は解除される。もう何も、誰も。我らを縛るものなどない」
ミリーはナイフを振り上げて、壮絶に微笑んだ。最初からそうするつもりだったのだと。これが予定調和だというかのように。
「死ね、愚かな人間が」
振り下ろされる凶刃。全ては必然だったのかもしれない。他人を苦しめることに快楽を覚え、己の糧にするばかりの男への。与えてきた数多くの苦しみへの、当然の報いだったのかもしれなかった。
ごとん、と大きな音がした。政紀の首が、胴体と泣き別れした音。人工的なものではない、大量の赤が噴き上がる。あんなに汚い男だったというのに、血の色は普通の人間や自分達とさほど変わらないのだから不思議なものだ。
「あ……」
政紀が死んだ途端、全身に送られていた命令が音を立てて解除されるのを感じた。手から銃が溢れ落ちると同時に――シェルの中で、何かが決壊していく。
なんて無様なんだろう。どうして涙が溢れてくるんだろう。憎い存在が死んだから?まだ、全て終わったわけではないのに?
「ところで、まだ私達の邪魔をしたい奴はいるのかな?雇い主、死んじゃったけどさ」
ミリーは政紀の首をプラプラと下げて、凄絶な笑みを向けた。武器を持っているはずのヤクザの男達が、その武器を向けることさえできずに固まっている。
「邪魔するなら、こいつと同じように両腕を切り落として、股間を潰して、とても苦しめてから殺してあげるよ?でも、道を開けてくれるなら、貴方達には何もしない。貴方達の仲間だって、ひとりも殺してはいないでしょ?」
悪い取引じゃないと思うんだけどなあ、といけしゃあしゃあと宣うミリーに。文句の言える人間は、誰もいないようだった。シェルは思う。汚い血に塗れて、片腕を失って、醜い生首をぶら下げているというのにだ。ちっとも、ミリー自身を汚いと思えないのは、どうしてだろう、と。
月が見ていた、狂乱の夜の物語。
その晩何かが終わって、また何かが始まろうとしていたのだった。
だから今、こんなことになっているのだろうか。
最も望まない物語の、最も最悪なエンディングを。愛した存在を巻き込んで、迎えようとしているのだろうか。
自分が生まれてきてしまったばかりに。
自分がミリーに――恋をしてしまった、そればかりに。
「う、ぁぁ…!!」
思考はぐるぐると回るのに、身体が自由に動かない。勝手に、ヤクザから奪った拳銃を抜いて構えている。照準の先にいるのは憎い敵などではなく、自分を命懸けで助けにきてくれた、命よりも大切な存在であるはずなのに。
「そうだ、シェル。そいつを殺せ殺せ殺せ!ああ、でも楽に死なせるんじゃねえぞ?俺に逆らって、俺の持ち物を盗もうとした大罪人だ。穴だらけにして、のたうち回らせて殺してやれや!」
ゲラゲラ、ゲラゲラ。
政紀の濁った声が庭中に響く、響く、響く。月夜と、スポットライトに照らされて。政紀が雇ったヤクザ達をギャラリーにして。B級映画のような悲劇が、今まさに繰り広げられようとしている。
――嫌だ、嫌だ!
ミリーを殺すなんて絶対に嫌だ。そんなことをするくらいなら、自分が死ぬ方が千倍マシだというのに、何で自分は逆らうことができないのか。
ご主人様と、契約されたホープ・コードの絶対的な契約。主人の存在ある限り、契約が解除されない限り。その声に従って、この身体は動き続けるしかないのである。殺せと言われれば、殺すように勝手に動くのだ。どれほど身体が傷だらけであろうと、どれだけ心が悲鳴を上げようとも。
――何故だ!悪いのは私だろう!?欠陥品で、ミリーのことを勝手に好きになって、その優しさに甘えて任務を放棄して逃げようとした。裁かれるべきは私だ、私のはずだろうが!!どうして、どうしてどうしてどうして!
とっくに知っていたことを、今再び思い知っている。
この世界に、神様なんていないのだ。いるのはただ、平等という言葉からは程遠い、支配者を気取る悪魔のような人間達ばかり。
――嫌だ!
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!
――だれか、そのまえに、ころして。
ダァン!と。切り裂くような銃声が上がった。
「うぁっ!」
ミリーの肩から血飛沫が上がる。シェルが撃った弾が、ミリーの肩を掠めたのだ。撃ち抜くところをギリギリで逸らそうとしたはずなのに、あの出血からするとかなり抉ってしまっている。今度は、それさえできないかもしれない。
「逃げろ……ミリー、頼む、逃げてくれっ……!!」
縛られていない声で、必死に訴える。
「今なら、まだ……衰弱している、私より。お前の方が疾く走れるはずだ……!逃げろ、このままだと、殺されるぞ……!」
殺される。殺されてしまう。ミリーが、ほかでもない――シェルの手によって。
自分で言った言葉が、何より自分を抉っていく。
「逃げない」
ミリーは痛みに呻きながらも、膝をつくことなく真っ直ぐシェルを見据えた。
「逃げたら私は、何の為に此処まで来たのか分からない」
「そんな事言っている場合か!このままじゃ……!」
「行くならシェルも連れていく。殴ってでも連れていくって決めたんだから!!」
「ミリー!!」
悲しいほど、恐ろしいほど、ミリーの意思は固いのか。その強さが今は、泣きたくて仕方ない。だから、シェルは。
「例え!私が奴に何も命じられていなくても……契約などなくても!此処から二人で逃げられたとしても!私はもう、以前の私じゃないんだ……!未来永劫、お前の荷物になるだけなんだ、そんなの御免なんだよ!分かれよクソが!!」
絶望を、悲鳴と共に叫んだ。
「私はもう、もう……お前にやれるもんなんか何も残っちゃいないんだよ!全部あのクズに奪われた!綺麗な部分なんぞ何もない!最初から欠陥品でしかなかった私には、最初からそれしかなかったってのに……!」
体中に、治療されていない傷が残っている。政紀に嗤いながら刻まれた傷。この五ヶ月の虐待で、自分は足の先から髪の毛の先まで汚れきってしまった。体の中身はもっと汚い。ただでさえ、心の方は生まれつき綺麗などではなかったのに、自分はもう身体まで汚泥のごとく穢れてしまっている。
「……私の腹には、そこのクズの子供がいるんだよ!何人目かもわからない子供だ。このままお前と一緒に逃げたらそいつまでお前に背負わせる……!そこのクズの汚れた血とともに!これ以上お前の重荷になるなんてごめんなんだ、何もやれないってのに、荷物にだけなるなんて冗談じゃねぇんだよ!だから、だから!」
本当は、ずっと怖かった。泣きたかった。
ミリーを、女の子と見ていた。女の子だと思って愛していた。中性的であらねばならないホープ・コードとして赦されないことと知りながら。
それなのに、自分は男でいたいという願望を自覚していたのに。大嫌いな男に、女扱いされて、挙句望まない子供を産まされて踏み潰されてきた自分の絶望が、一体誰に分かるのだろう。
望んだ未来が叶わないことなど分かっていた。多分、一番最初からわかりきっていたこと。ならせめて。たったひとつの希望だけ、叶えて欲しいと願うのは罪なことなのだろうか。
「だから、せめて!逃げることができないなら!お前の荷物になる前に、殺してしまう前に……私を殺して、終わりにしてくれ、ミリー!!」
ああ、きっと罪なんだろう。
助けにきてくれた愛しい人に、最低最悪の願いを押し付けているのだから。
「私ね」
再び、銃声が響いた。今度はミリーの足から血が噴き出す。それでもミリーは倒れることなく、静かな声で言葉を口にした。
「ずっと考えてたんだ。シェルのこと、とっても大切だし、大好きだと思うけど……その感情ってどういう種類のものなのかなって。キスされた時、嬉しかったし、全然嫌じゃなかった。多分自分も同じ気持ちなんだろうなって思った。でも、その時はまだ確信が持てずにいたの」
痛いはずなのに、ミリーは微笑んでいる。
少し困ったように、照れるように、慈しむように――微笑っている。
「皮肉にもね。シェルが閉じ込められて、酷い目に遭わされてるってはっきりと分かった時……ああもう否定できないなって、思ったんだよね」
「ミリー……」
「シェルをそんな目に遭わせた奴が憎くて、妬ましくて、自分で自分を抑えられなくなった。シェルが私のものじゃなくなったんだって知って、嫉妬した。……シェルを取り戻す為なら、何人殺しても、誰を不幸にしてもきっと平気なんだろうなって漠然と思ったの。……もうそれ、答え出てるようなものだよね」
大丈夫だよ、と。小さな身体のアンドロイドは、優しい声で言う。
歌うように、言う。
「私は、シェルを背負ったりしない。一緒に生きて、歩いてく。その為なら……私は、何だってする」
どうするつもりだ、と思った瞬間。ミリーの姿が掻き消えた。一瞬だが完全に見失う。何処に、と思った途端――凄まじい悲鳴が、庭中に響き渡っていた。
「あぎゃああああああああああああああ!!て、て、てえええ!?おれ、おれの手がががっがががっががあああああ!!」
何て汚い声だ、と場違いな感想を抱く。そして理解する。
シェルに命令するため、極上の悲劇を特等席で観劇するため。のこのこと前に出てきていた政紀の両腕が切断されて地面に落下していた。ミリーが男の傍で、ナイフを持って微笑んでいる。先ほどシェルに向けていたのとよく似た、それでも決定的に違う――穏やかな笑み。
この状況を見るなら、狂気的でしかない、聖母の顔をした悪魔の笑みで。
「痛い?痛いよねえ。私も痛かったよ?……シェルにはどんなことをしたのかな?きっともっともっと痛かったと思うんだ」
ざくん、と音がした。男が泡を吹いて白目を剥き、痙攣する。数人のヤクザ達が想像したのか露骨に凍りついたのが見えた。ミリーが、政紀の股間にナイフを突き刺したのである。
「あー汚い汚い。これ、後でちゃんと洗わないとなあ」
「ぎゃああああ、あががばばばばっばばばばばば」
「煩いよ。本当はもっと拷問したいけど、時間ないから終わりにするね」
本来なら、雇主のピンチに動くはずのヤクザ達が、完全に凍りついて動けなくなっている。ミリーの異様な雰囲気に、狂気に、憎悪に、威圧されている様子だった。百戦錬磨の暴力団員たちが、だ。
そしてもはや、政紀は。あまりの痛みに汚い悲鳴を上げ続けるばかりで、助けを求める言葉さえ口に出せずにいる。助けを求めたところで、この場でコイツを助ける人間がどれほどいるのか怪しいところではあったが。
ミリーの圧倒的な戦闘能力を、ヤクザ達は誰より身をもって知っているはずで。何より――この男に、どれほど人望があったか怪しいところだろう。
「主人がいなくなれば、契約は解除される。もう何も、誰も。我らを縛るものなどない」
ミリーはナイフを振り上げて、壮絶に微笑んだ。最初からそうするつもりだったのだと。これが予定調和だというかのように。
「死ね、愚かな人間が」
振り下ろされる凶刃。全ては必然だったのかもしれない。他人を苦しめることに快楽を覚え、己の糧にするばかりの男への。与えてきた数多くの苦しみへの、当然の報いだったのかもしれなかった。
ごとん、と大きな音がした。政紀の首が、胴体と泣き別れした音。人工的なものではない、大量の赤が噴き上がる。あんなに汚い男だったというのに、血の色は普通の人間や自分達とさほど変わらないのだから不思議なものだ。
「あ……」
政紀が死んだ途端、全身に送られていた命令が音を立てて解除されるのを感じた。手から銃が溢れ落ちると同時に――シェルの中で、何かが決壊していく。
なんて無様なんだろう。どうして涙が溢れてくるんだろう。憎い存在が死んだから?まだ、全て終わったわけではないのに?
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ミリーは政紀の首をプラプラと下げて、凄絶な笑みを向けた。武器を持っているはずのヤクザの男達が、その武器を向けることさえできずに固まっている。
「邪魔するなら、こいつと同じように両腕を切り落として、股間を潰して、とても苦しめてから殺してあげるよ?でも、道を開けてくれるなら、貴方達には何もしない。貴方達の仲間だって、ひとりも殺してはいないでしょ?」
悪い取引じゃないと思うんだけどなあ、といけしゃあしゃあと宣うミリーに。文句の言える人間は、誰もいないようだった。シェルは思う。汚い血に塗れて、片腕を失って、醜い生首をぶら下げているというのにだ。ちっとも、ミリー自身を汚いと思えないのは、どうしてだろう、と。
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