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<39・綱渡りの戦士達>

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 どさり、と一際大きな音がした。ソファーから崩れ落ちた紫苑を見ながら、リオウは優雅に紅茶を啜る。

「あまり好みの味ではないと言ったが……若者が嗜むにしては玄人向け、深みがある点は評価している。この味は、お前のような子供にはまだ早かったかな?」

 彼女に盛ったのは、手足に痺れを齎す効果のある薬だった。毒といえば毒だが、致死性はない。あくまで痺れるのは手足だけなので、臓器やそれを動かす筋肉に支障を齎すわけではないからだ。
 もう少し慎重かと思ったが、あっさりと敵地で出された紅茶を飲んで倒れるとは。少々拍子抜けしたところだ。もし自分が、即効性の毒薬を選んでいたら即ジ・エンドだったというのに。

「さて、日高紫苑。今の気分はどうかな?……ろくな話もできないまま、お前はこうして俺の前に倒れ伏しているわけだが」

 リオウは立ち上がると、倒れて体を震わせる彼女に近づく。

「俺とどんな話をしようとしていたかは興味があったが……まあこうなってしまったら会話どころではあるまいな?そもそも、俺はマサユキやアヤナのような愚か者とは違う。お前が、こちらに寝返る可能性など万に一つも有り得ないと知っている。拷問くらいすれば話は別だが、お前からこちらに有利な交渉など絶対来ないと知っているわけだ。ならば、こちらにその話とやらを聞くメリットはほとんどない。……こういうテを使ってくることは予想できなかったのか?随分と油断してくれたものだ」
「……何、を」
「何の薬を盛ったかって?“アグナベリー”……と言っても、異世界人であるお前は知らないか。ベリーティーは、花も葉も根も非常に甘く香しい薫りがすることで有名であり、アグナベリーもその葉を乾燥して茶葉として利用されているわけだが。その根と茎には毒があるので、注意が必要なのだよ」

 これはリア・ユートピアの人々でも知らない者が少なくないが。美味しい実と香しい薫りを持つ人気のこの植物は、実は食虫植物としての一面も持っているのである。茎や根には毒があり、染み出てくる毒液に触れた虫を麻痺させてしまう効果があるのだ。そうしてころんとひっくり返って身動きがとれなくなった虫を、美味しい実と薫りで釣った花本体がパクリ!というわけである。なかなかえげつない植物なので、葉を採集する際には注意が必要というわけだ。
 虫ならば全身が麻痺するこの薬も、人間相手ならば部分的な麻痺だけで済む。全身が痺れて死んでしまうということも殆どない。ただし――これが戦場であれば当然命取りになるので、戦場で敵を倒すために使われる薬としてはかなりメジャーな方ではあるのだが。

――まあ、そんな知識は異世界出身の小娘にあるはずもなかったな。

 流石にこれは詰みだろう。リオウはしゃがんで、少女の顔を覗き込もうとする。小柄で中学生にしては幼い印象だったが、こうしてよくよく見れば充分可愛い顔立ちだ。髪が短いことと喋り方から若干少年じみて見えることもあるが、よく見ればそこそこ胸もあるしスタイルも悪くない。
 どうせなら、人質にするついでに飼ってやるのも悪くないかもしれないと思う。性的な暴力を行う気がないが(趣味でもないし)ちょっとした写真でも撮ってアーリアに送ってやれば、きっとダメージを与えるのに充分だろう。リオウがそんなことを考えていた、その時だ。

「……す」
「ん?」

 少女の唇が、震えた。何か言いたいことがあるらしい。声が掠れていてよく聞き取れない。リオウはそれとなく顔を近づけ、そして。

「……!」

 次の瞬間、がっと手首を掴まれた。目を見開くリオウ。薬で麻痺しているはずなのに、一体どこにそんな力があったというのか。
 そして。



「油断したのは、そちらですよ」



 今度ははっきりとした、声が聞こえた。なんだと、と返すよりも前に視界が突如として切り替わる。一瞬青く光ったかと思えば浮遊感に襲われ、瞬きをする程度の間の間に景色がまったく別のものに変化している状況。
 先ほどまでの、豪奢な応接室ではなくなっていた。ソファーも、紅茶も、傍に控えていた部下達もいない。傍にいるのは紫苑のみ、そして目に入るのは深い深い――森の、どこか。

「……なるほど」

 即座に飛び退き、リオウから距離を取る紫苑。素人ながら、そこそこ訓練された動きだった。なるほど、体力も運動神経もなくても――この流れは想定通り、多少練習してきたものであったらしい。感心するリオウ。

「空間転移装置を持ってきていたか。確かに、お前の身体検査などしなかったからな。しかも、自分と自分に触れた人間だけ別の場所に転送させるタイプか」
「ええ。これならスイッチ一つですし、大掛かりな準備もいりませんから。その代わり、飛ばしたい相手に触れていることが絶対条件ですし、大して長い距離も飛ばせないので南の地の外に出ることも叶わなかったわけですけど」
「まあそうだろうな。俺の屋敷は、南の地の中でもほとんど中央部分にある。他の地域に出るには相当飛ばなければいけないが、そんな準備もいらない、隠し持てる程度の小型の装置では飛ばせる距離などたかが知れているだろうさ」

 紫苑の手首からは、腕時計型の装置が覗いている。空間をすっとばす方法はいくつか確立されていた。一つが魔法による転移、もう一つが科学技術による転移だ。魔法がろくに使えないような異世界の小娘であっても、科学技術の方ならば多少扱うことができたのだろう。ただし、科学にしろ魔法にしろ万能ではない。長い距離を飛ばしたいと思えば装置はそれに比例して大型化されるし、装置を小型にしたいと思えば多くの準備時間が必要となってくる。
 実際アヤナの部下達を空間転移させる時は、装置の“数”を増やして結界を作った上、数分以上の時間をかけて転送の準備を完了させたはずだ。今のように一瞬で飛ばすためには、いくら相手に触れなければいけないという前提条件があったとしてもさほど遠くに飛ぶことはできなかっただろう。

「まあ、屋敷が見えないくらいの距離ではありそうだ……あくまで、俺を屋敷から引き離し、部下達から孤立させるのが狙いといったところか」

 ただ、どうしてもわからないことはある。向こうはなんらかの時間稼ぎ狙いかもしれないが、これだけは聞いておかなければ気が済まない。

「だが、これに何の意味がある?……お前達からすれば、タイマンこそ最も避けるべき状況だろう?なんせ、俺とサシて向かい合ってしまった時点で絶対に勝負にならないことは明白だ。誰と戦っても、俺の戦闘能力は確実に相手を上回るのだから」
「そうでしょうね。まあ、そんなものがなくたって僕一人で戦闘で勝てるケースなど殆どないと思ってますけど」
「だろうさ。……それとも、部下がいなければ数で押し切れるとでも思っているか?この付近のエリアには仲間でも潜んでいるのかな?」

 周囲を見回すが、風が強くて葉擦れの音が大きいことから気配を探りきることは叶わない。戦闘能力でなら自動で上回れるリオウだったが、だからといって気配察知や索敵能力まで上がったわけではないのだ。周囲に何人潜んでいても、それを知ることはなかなか難しい。
 まあ、相手を認識した時点で、その場にいる“最も戦闘能力の高い者”を上回れるのがリオウである。完全な奇襲でも成功させなければ、全く効果は得られないわけだが。

「それともう一つ。何故、先ほどの薬が効かなかった?確かにお前が紅茶を飲んだことは確認したはず。実際、中身も減っていたしな。特異体質だ、なんて誤魔化しても無駄だぞ。そんな都合のいいことなど有り得ない」

 そう、もう一つの疑問はそれだ。こうして動き回っているところを見ると、倒れたのは殆ど演技だったのが伺い知れる。全く効かなかったか、若干程度しか効果がなかったかのどちらかだ。恐らくは後者。解毒剤でも飲んでいた可能性は否定できないし、紅茶と一緒にそれを飲んだということも考えられなくはないが。
 仮にリオウが紅茶に薬を盛ることがわかっていても。どの薬を盛る気か、ということまでは読み切れるものではなかったはずである。ならば、一体どうやって。

「……貴方が僕の誘いに応じて交渉を許した時点で、隙を見て僕を捕まえるつもりであることは読んでいました。僕を誘い込んだ理由は二つ。僕がこの状況でどのような“説得”を仕掛けてくるのか興味があったから。そして……僕を人質にすれば、アーリアを脅すのに充分なスイッチになると知っていたから」

 鋭くこちらを睨み、じりじりと後ずさる紫苑。

「貴方には、“あそこで”僕を殺すメリットがない。むしろ殺すだけならおびき出す必要もない……貴方の武力は絶対的に北の軍を上回っているのですから。なら、殺さない程度に動きを奪って拘束するタイプ、麻痺する薬か睡眠薬系の薬を入れてくることは想定内です。そして、出てきたのは香りの強いベリーティーでした。ならば、最も可能性が高いのは、簡単に匂いを紛らわせることができるアグナベリーの毒です」
「確かに、アグナベリーの薬は、極めてメジャーなものではある。戦場でもよく扱われるものだし、お前がそこまで調べていてもまあおかしくはなかっただろう。だが、それだけでは推論だ。アグナベリーで確信した理由が他にもあるんじゃないか?」
「そうですね。まあ、殆ど消去法なんですけど」
「消去法?」
「南の地で手に入るタイプの薬で、この場面で使う毒として不適切なものはすべて弾いてきましたから」

 まさか、と流石に驚くリオウ。この小娘は、そのテの毒物の種類を全て知識として叩き込んできたとでもいうのか?

「睡眠薬として使われることもある“モチオキ”、あれは少々強力すぎて子供に使うことは禁止されている。僕を殺したくないはずのリオウがあえて選ぶとは思えないので却下。同じく睡眠系の薬である“エタノルーゼ”は強い刺激臭がする、匂いでバレる可能性が高いので却下。麻痺の薬としては有名なのが“シビレバチ”の粉でこれは無味無臭ですが、生息地域がほぼ北の山脈に偏っているので、貴方が手に入れるのは困難。“レクルート”、これも有名な痺れ薬ですけどこちらは苦味が強いので、ほんの舌先が触れただけでも勘づかれる可能性が高い。しかも効果が出るまでに時間がかかるのでその間に逃げられる可能性がある、これも却下……まあこんな具合で弾いていけば、かなり絞られますよね」

 つらつらと語る少女。それは、リオウのまさか、という予感を裏付けるのには充分だった。
 彼女は一体、此処にくるまでに――どれほどの勉強、分析を重ねてきたというのか。



「しかも、貴方は僕に紅茶を出してきた時、こんなことを口にしました」



『ベリーティーだ。俺はさほど好むものではないんだがな、リア・ユートピアでは若者に人気の茶葉らしい。特別に入れてみたんだが、どうだ?』



「つまり、普段から飲むわけではない茶葉を、あえてあの場面で選んで入れたということ。ならば、ベリーティーであったことには当然必然性がある。無味無臭のタイプの毒ならばわざわざベリーティーにする意味がない。……あれが出てきた時点で、殆ど毒は確定したようなものです。あとは、一口飲む時にそれとなく解毒剤も一緒に放り込めばそれで充分。……多少程度に効果は出てしまいましたけど、軽い目眩がするくらいなので動くには問題ありません」
「これは恐れ入った、というべきか。……わざと紅茶を飲んだ可能性も視野には入れていたが、入れる毒の種類まで読まれているとは考えていなかった」

 同時に、自分が護衛にやらせるではなく、安易に彼女に近づくことも読まれていたというわけか。
 空間転移させるためには、リオウに接触しなければいけない。が、敵対している上身体能力に差がありすぎる以上、生半可なやり方では彼女がリオウに触れることなど不可能だ。
 だから、倒れたフリをしてリオウの油断を誘った。
 恐らくアヤナ、マサハルなら近づかなかったことだろう。戦闘系のチートスキルを持ち、分断されても一人で戦えるリオウだからこその隙だったのは間違いあるまい。

「見事だ。……ここまではな」

 思ったよりあっさりと倒せてしまった、つまらない――ついさっきまでそう思っていたが、ここは訂正しておこう。

「予想以上だ。面白いぞ……日高紫苑。どうやら、思ったよりも退屈しないですみそうだな?」

 この小娘は、興味深い。是非とも捕まえて観察してみたくなった。

「さあ、此処からはどうする?……まだまだ奇策は用意しているんだろう?」

 笑いながら、距離を詰めていくリオウ。きっと彼女は自分を裏切らないでくれることだろう。
 ああ、本当に久しぶりだ。ここまで自分を楽しませてくれる相手に出会ったのは。
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