愛憎の香鈴

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<16・不穏、漂ウ>

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 事件が起きたその日、特に何か予兆があったというわけではなかった。
 后達の食事は、料理人がそれぞれの体質や好みにあったものを作ってくれるとされている。普段ならば好き嫌いのほとんどない藍蘭も、悪阻の時期ともなれば食べられるものに大きく制限がかかってしまう。妊婦によって悪阻の時期に食べられるものは変わってくるが、藍蘭の場合は果物や野菜、汁物の類いならばどうにか食べられることが多かった。裏を返せば仮に懐妊を隠していても、食べ物が変わることで他の女官や后にバレるのは珍しいことではない。
 なんといっても、食事は料理人が同じ場所でまとめて調理し、並べられたものをその都度女官がそれぞれの后の元へ運んでいくという仕組みであるからである。それぞれの后がどのようなものを好むのか、というのは自ずと女官達の間で共通認識となるのだった。同時に――懐妊とは無関係にころころと好みが変わり、誰よりも豪華な食事を要求するばかりの緑蘭に関しても。

明蝶ミンチョウ、まだ来てないのね」

 藍蘭へ持っていく食事が出来上がるのを香鈴が待っているところに、話しかけてきたのは鳴沙だった。初見では少々怖い印象のお局様、であったのだが。香鈴が藍蘭とうまくやれていること、真面目な勤務態度を評価してくれたのか、ここ最近はすっかり態度が軟化している。
 香鈴にとっても有り難いことに違いなかった。女官筆頭であり、皆に指示を出す役目を担うことの多い鳴沙である。憎まれるより、親しくした方が百倍仕事がしやすいのは明白だった。
 幸い、彼女は少し厳しくて気が強いだけで、多くの面では実に真っ当な倫理観を持った女性である。妾になれない己について、少々劣等感を滲ませることことこそあるもののそれだけだ。女官の仕事の熟練者として、誇り高く皆に指示を出し導く姿はとても格好の良いものだった。
 まるで異世界でいうところの優秀な管理職みたいだ、なんて。香鈴は、他の誰にも通じぬ喩えを一人思ったりするわけである。

「本当ですね。もう緑蘭様のお食事が出来上がってしまう頃ですのに」

 藍蘭はちらり、と給仕室から廊下の方を見やる。明蝶というのは、緑蘭付きの女官の名前であった。いつもおどおどとしている、香鈴よりもさらに年下の少女である。緑蘭は藍蘭と違い、多くの女官をアゴで使っているはずなのだが、何故か食事を運ぶのいつも同じ少女なのであった。
 同時に――機嫌が悪い緑蘭の八つ当たりを一身に引き受けるのも。

「昨晩、紅帝様と何かおありだった様子なのよね。きっと、まだ緑蘭様に捕まってらっしゃるんだわ」

 はあ、と鳴沙はため息をついた。新人で、しかし宮中で人一倍タチの悪い后の担当になってしまった若い娘。鳴沙も心配しているのだろう。特に、女官の控え室で一人袖を濡らしているところを何度も見ているから尚更に。
 緑蘭は機嫌が悪いと、女官の一人を捕まえてそれはもうねちっこく愚痴を吐くのである。いや、愚痴だけならばまだいい。多くの場合は、愚痴聞きの女性への罵詈雑言へと変化していくから始末に終えない。自分が日頃貯めている鬱憤を、己より立場が弱い者に吐き散らかして発散しようなど、本当にどうかしているとしか思えないのだ。
 しかも女官の中でも、一番若いものや新人を標的にすることが多いから始末に終えないのだという。

「……明蝶も、やめてしまうんでしょうか。私が来てから、既に緑蘭様の御付きの女官は二人やめてらっしゃるわけですが」
「滅多なことを言うものじゃありません、香鈴。……いえ、気持ちはわかるわ。私だって……正直自分が緑蘭様の担当であったらと思うと、背筋が冷たくなりますもの」

 珍しく、実に率直な賛同が得られてしまった。鳴沙が言うともなればよほどのことだろう。香鈴が唖然としていることに気づいてか、鳴沙は苦笑して見せる。

「私は、藤蘭様付きの女官であると同時に、女官全員の監督者でもあるわけだけれど。……あまりにも緑蘭様付きの女官ばかりやめてしまわれるものだから……熟練の私を緑蘭様に付けてみてはどうか?という意見が殿方の間で出たらしくてね」

 希に、女官は自分の担当する后を変えることがある。后がなくなったり暇を貰った時が基本だが、時には后と女官の折り合いがあまりにも悪かった場合に発生することになる。まあ、その場合は女官の意見など通るはずもないので、后の一方的な言い分により変更されることになるわけだが。
 だが、后と女官の仲が悪いわけでもなく、女官の働きが足りないわけでもないのに第三者から変更の申し出が出るのは、非常に珍しいことだと言えた。どうなったんですか、それ、と香鈴が眉を潜めると。

「当然、私は申し上げましたわ。『わたくしが生涯お仕えしたいと決めているお方は、藤蘭様のみでございます。どうかご理解、ご容赦くださいませ……』と。有り難いことに藤蘭様も私をこのまはま置いておきたいと仰ってくださったので、この話はのまま無かったことになったのよ」

 うわあ、と香鈴は顔をひきつらせた。それってつまり、遠回しに「緑蘭に仕えるのはイヤです」と言っているようなものである。緑蘭の耳に入ったならばさぞかしややこしいことになっただろう。
 そんな話をしている間に、卓上には次々と料理が運ばれて揃っていく。本来ならば正室である緑蘭の料理が最優先で作られるはずだが、彼女の場合はとにかく他の后と品の数が比較にならないわけで。この様子だと、先に第二位の后である藤蘭の料理の方が勢揃いしそうな印象であった。

「も、申し訳ありません!遅れてしまいました!」

 やがて、バタバタと足音を響かせて明蝶が飛び込んでくる。幼い少女の頬が赤く腫れているのを見て、香鈴はやるせない気持ちでいっぱいになった。どうやら、緑蘭に派手に平手を食らったらしい。子供を八つ当たりで殴るなんて、と香鈴は腹が立って仕方なかった。即座に大丈夫ですか?と明蝶に声をかける。

「まだ、緑蘭様のお食事は出来上がってませんから大丈夫ですよ。それより、貴女のことが心配です……頬を冷やせる、氷のようなものをお借りしてきましょうか?」
「あっ……こ、香鈴様……っ」

 おや、と香鈴は思う。何故だか自分を見た直後に、明蝶が怯えるように肩を震わせたからである。

――な、なんか怖いことを言ってしまったか?

 ややおろおろする香鈴。しかし、もう一声かけるよりも前に、明蝶に“結構です”とすっぱり断られてしまった。

「わ、私のことなどお気になさらず。香鈴様は、藍蘭様のことだけお考えになっていればいいと思います。今はとても、大事な時期でらっしゃるでしょうから」

 これはひょっとして、と香鈴は思う。明蝶は、緑蘭に口が酸っぱくなるほど言われてきたのではないか――藍蘭と、その従者とは断じて仲良くするなと。むしろ積極的に嫌みの一つもぶつけてこいとまで言い聞かせられているかもしれなかった。目も合わせず、苦しそうな表情と腫れた頬で言われても、正直痛々しいだけであったのだけども。
 緑蘭からすれば、このたびの藍蘭の懐妊は恐れていたことの一つであったに違いない。また藍蘭の株が上がり、自分の居場所がなくなったしまう。しかも、秘術士には今度こそ男の子が生まれるなどと予言され、紅帝は小躍りせんばかりに大喜びしたのだ。まだ生まれてもいないのに、歓迎の宴の準備など始める始末である。緑蘭にとって面白いはずがないのだ。
 最初はそんな彼女の態度に腹を立てていた香鈴も、やがて藍蘭が何故緑蘭に対して怒らないのかを理解することになるのである。あれほど不憫で、可哀想な女性もいない。彼女は必死で帝に愛されようと努力するのに、毎度それが空回ってはより煙たがられる始末である。そして彼女自身も、帝を愛しているかというと全くそんなことはないのだろう。愛されなければいけないと思うのは全て、異国から嫁いだ深窓の姫君としてプライドが許さないからに他ならないのである。
 愛してもいないのに、愛されることに必死。身体を傷つけられてもそれにさえ悦びを感じ、それを羞恥に思ったところで世界はなにも好転しない。
 ある意味では、彼女もまたこの狂った世の中の犠牲者以外の何者でもなかったのだろう。そんな相手に恨みを向けてもどうにもなるまい。むしろ、こちらが苦しくなるだけなのである。

「ええ、そうね。藍蘭様は帝のお世継ぎを身籠ってらっしゃる、とても大切なお体だわ。健康には人一倍気を付けなればなりませんものね」

 そして、どうやらそんな明蝶にややムカついたらしい鳴沙が、笑顔でこう言い出すから恐ろしいのである。しかも思いきり“帝のお世継ぎ”という言葉を強調した。ギリ、と明蝶が無言で拳を握りしめたのがわかる。
 自分達ははっきりと帝に、藍蘭の息子を世継ぎにする、などと明言したわけではない。緑蘭が産んだ男子も存命なのだから。
 それでもみんなが暗黙の了解で“世継ぎは藍蘭の子で決まりだろう”と思っているのは。緑蘭の子が病を持っている上、今の時点で既に“性格的にも能力的にも大いに問題あり”と周囲から評されているからに他ならないのだ。明蝶も緑蘭も、それはイヤというほど理解しているのだろう。
 それでも男子がどうしても生まれなければ、次の世継ぎは唯一の男子であるその子に決まっていたはずだというのに――。

「……ひ、秘術士の方の占いは、外れることもございますから!今度こそ男子とは限りませぬゆえ!」

 震える声でどうにか言葉を絞り出すと、明蝶は、盆を抱えて出ていってしまった。まだ料理の全ては揃っていないが、どのみちこの数を一度で運ぶのは難しい。そう考えるならば、出来上がった分だけ先に運んでおくというのは英断であるのかもしれない。――今のはどう見ても、それだけが理由で出ていったわけではなさそうだが。

「……気にする必要はありませんわ、香鈴」

 その背中を見送った香鈴に、鳴沙ははっきりと告げた。

「藍蘭様は、緑蘭様以外の全ての后と親しくなさっておいでですし……男性にも女性にも分け隔てなく接する、実にお優しい方。帝の覚えもめでたい。嫉妬するのも無理からぬことですもの」
「……まあ、そうですけど……」

 なんとなく心配になって、何度も廊下を覗きこんでしまった。何か、とても嫌なことが始まりそうな気がしてならなかったのである。
 予感は、すぐに的中することになる。
 この直後、運ばれた食事に手をつけた藤蘭が、毒を盛られて倒れてしまうことになるのだから。

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