特別ではないけれど

鳫葉あん

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 ずば抜けて美しい容姿という訳ではなかった。
 少し童顔で、同年代の男よりは可愛らしさを感じはするが、それだけだ。
 そんな彼の豊かに変わる表情は見ていて楽しかった。自分のつまらない話で一喜一憂し、自分の変わりに怒ったり笑ったりしてくれる彼が好きだ。
 最近ではほとんど毎日食べている彼の料理も世間一般的に言うと平凡なレベルなのだろうが、全く料理の出来ない幸一からすれば彼の作る物は何でも美味しかった。
 ゴミ捨て場で寝ていた幸一に声を掛けてくれた彼は、いつの間にか世界の中心になっていた。


 幸一はその日、不幸のどん底に落ちた。
 社会人になってから初めて出来た、結婚すら考えていた彼女。誰よりも優先し何よりも大切にしていた存在は、丸めた紙屑をゴミ箱に捨てるように簡単に、アッサリと幸一を捨てた。

「取引先の会社の若社長がね、私にプロポーズしてくれたの。貴方と彼なら……ね? わかるでしょ」

 上司に気に入られ、出世を見込まれているとはいえ一会社員でしかない幸一と、約束された将来の見える若き御曹司。
 どちらを選ぶかなんて愛と金の重さが全く違う目の前の女には愚問だった。

「……二股してたのか」
「どっちかっていうと貴方が浮気ね。キープっていうか。ま、楽しませてくれてありがとう。もう声掛けないでね」

 週末の会社帰りに話があると呼び出された喫茶店で一方的で身勝手な別れを告げられ、幸一はそのまま居酒屋へ向かった。とにかく酒を飲んで、逃げたかった。
 その時まで、彼女のことを心の底から本当に、本当に。愛していたのだ。
 信じていた愛は偽物で、醜悪だった。裏切りに傷付き泥酔した幸一は、いつの間にか見知らぬゴミ捨て場で寝転がっていた。
 時折開く視界に、幸一を見て顔を顰める人々が見える。しかし多くの人は幸一など視界に入れず、足早に通り過ぎていく。幸一もそうするだろう。
 ゴミまみれの酔っ払いに声を掛けるのはよっぽどのお人好しか迷惑そうな警官くらいだ。彼は前者だった。

「お兄さん酔ってるの? 大丈夫? おーい。死んでる?」

 そんなことを言いながらどうにか幸一を引っ張り立たせ、肩に腕を回して歩かせる。残念なことに幸一にはこの辺りの記憶はほとんどなく、鮮明に覚えているのは翌朝からだった。
 酷い頭痛によって目を覚ました幸一に市販薬と水を渡し、何も取らずに助けてくれた善人。優しい彼は帰り際、一枚のカードをくれた。
 良かったら店に来いと言ってくれた彼にその場で礼を言いたかったが言えなかった。胸に残り続ける様々な感情に疲れ果て、口が動かなかった。


 帰宅してからそれまでに起きた幸一的には怒濤の展開を思い返し、土日を使ってどうにか気持ちに折り合いを付けた幸一はとりあえず彼の店へ行くことにした。
 ショップカードに記された地図と営業日を確認して仕事帰りに訪ねてみる。店内は落ち着いた雰囲気で、それに合った佇まいのママが迎え入れてくれた。

「来てくれたんだ」

 化粧だけでなくドレス姿の彼がそう声を掛けてくれて、その姿を見て、幸一はほっとしていた。彼がいた。覚えてくれていた。
 彼と席につき、話の流れであの日のことを話した。彼女の裏切りに酷いと声を上げ、うっすらとした怒りを見せる彼を見て、そうだと思った。

「そうだな。酷いんだ」

 さっさと自分の前から去っていった彼女への怒りを忘れていた。それだけ衝撃や悲しみが強かった。
 その日はそのまま彼女の話をした。殆ど愚痴というか悪口だった。
 そんな話をずっと聞かせて彼には悪いことをしたが、溜まっていたものを吐き出せたからか胸に詰まっていた嫌なものがなくなった気がした。


 それから、明人の存在はすっかり幸一の生活の一部になった。
 時間さえあれば店に通い、明人を横に酒を飲む。幸一は口が上手くないのでなかなか話題を振れないし、明人の声を聞いている方が楽しいので自然と明人が話すことを聞くのが多かった。
 それを言った時は、特に何も考えていなかった。本当に頭に浮かんだ言葉を呟いてしまっただけだ。
 彼女が居た頃はたまに手料理をご馳走になる以外は惣菜、たまに外食で済ませていた。それが毎日になると、電子レンジの温かさではない料理が食べたくなった。
 ただでさえ一緒に居ると気の緩む明人の前で、肉じゃがが食べたいと溢してしまった。真に受けた優しい明人は作ろうかと提案してくれて、幸一はその言葉に甘えた。
 明人の作ってくれた手料理はどれも美味しかったし、明人は幸一の食生活を心配して家に通ってくれるようになった。店に行っても家に帰っても、明人が居る。
 今でも忘れないあの日。神妙な面持ちの明人から好意を告げられ、幸一は舞い上がった。
 性別の括りを越えるくらい、明人のことを好きになっていた。心のままに唇を重ねて、改めてそう自分の心を理解していた。
 でもきっとゴミ捨て場で拾われたあの時から、心は動いていたのだろう。


 明人との付き合いが始まっても幸一は店に通った。店の雰囲気を気に入っているのもあるが、明人に会いたいし明人を独占していたかった。
 自己評価の低い明人は自分の人気をわかっていなかった。幸一の初来店時に他のホステスを勧めたように、自分をつまらない人間だと思っている。

「高松さんいらっしゃい。残念だけどアキちゃんは空いてないわよ」

 ベルと共に入店した幸一に、ちょうど出入口付近にいたホステスが声を掛ける。幸一は明人しか指名しないが、明人が他の客に指名されている時に何度か場繋ぎの話し相手になってもらったことのある彼は幸一の顔と名前を覚えてくれている。

「……またか」
「そんな怖い顔しないでよ。イケメンが台無し。アキちゃんに怖がられちゃうわよ」

 カウンターからママに挨拶され、ホステスにテーブル席へ案内される。
 その途中で明人を見つけた。隅のテーブルに着き、客の相手をしている。人の美醜に疎い幸一にも、なかなかの男前に見えた。
 ソファーに隣り合って座る二人には拳一つ分しか距離がない。男は常に明人を見ており、その目は穏やかなのに情熱に満ちている。

「ガン付けないでよ」

 腕を引かれ、明人から目をそらす。案内された席に着くと、すぐにグラスを差し出される。苛立ちのままに一気に飲み干す。

「アキちゃんは本人が思ってる以上に人気者よね。あの人、店に通い出して一年くらいだけど全く相手にされてないのよ」

 口説かれていると思っていないからだろう。口説き文句を言っても、おそらく明人は冗談だと受け取っている。

「アキちゃん処女拗らせて夢見てるとこあるから、アキちゃん自身が好き好き! ってならないと恋に発展しないだろうなー……ねぇ、高松さん?」
「……処女?」

 幸一が反応したのは含みのたっぷりな詮索ではなく、明人の経験だった。

「そうよ。アキちゃん前も後ろも新品ピカピカ。初めては心の底から好きになった人とって考えてるスレてない子なの。あたしや他の子の体験談聞いて赤くなったり青くなったりしてるわ」
「心の底から」

 この時、付き合いが始まってから一月以上が経っていた。同性間での性事情はわからないが、幸一を捨てた彼女は一週間で体を許した。
 告白してくれたのは明人だが、交際するうちに幸一への好意は薄れたのだろうか。キスを拒まれることはないが、それ以上は避けられている節がある。
 明人はどれだけ遅くなろうと、幸一の家に泊まらない。深夜に帰ろうとする彼に何度か泊まっていくよう言ったが、毎回断られてしまう。危ないと引き止めても、少し目を離した隙に帰ってしまう。
 深夜に帰宅するくらいなら恋人の家に泊まるものではないのだろうか。別に泊まったからといって必ずそういった行為を行う訳ではないし、本当に心配なだけなのだが、彼は幸一を信用していないのだろうか。

「ま、仲良くしてあげてね。……ほら、お待ちかねのアキちゃんが来たわよ」

 席を立つ彼に代わり、ドレス姿の明人が駆けてくる。謝る明人は拳二つ分は距離を空けて、幸一の隣に座った。


 頭に血が上った、としか言えない。正常な判断が出来ない。感情を抑えられない。
 職場の女性から欲しくもないクッキーを貰って、流石に捨ててしまうのは憚られ、甘いものが好きな明人に見せたのは今考えると悪手だったが、現状の打開でもあった。
 結果的に言うと明人は幸一を切り捨てるつもりでいたのだから。
 幸一の為だと言いながら関係の終わりを考えさせる。元に戻れると語る。そんな訳がないのに。
 明人に捨てられたら幸一はクッキーの差出人と付き合えるのだと彼は思っているが、そんなことはない。惨めったらしくまとわりつくだけだ。
 幸一を捨てた明人こそ、熱心に口説くあの客と付き合うのではないか。それとも幸一のように、またどこかで男を拾うのか。
 そんなことは許せないと、暴走する幸一を明人は拒んだ。非を認め謝罪し、別れの言葉を告げようとする口を塞ぐ。あとは勢いのままだ。
 やめろという訴えはいつの間にか媚びた嬌声に変わった。幸一の指がコンドーム越しに孔を苛めてやると、引きつった悲鳴は快感を帯びていく。
 聞きかじりの知識を思い出しながら胎内を探る。明人の体が快楽を得られるように、それにはまりこんでくれるように。
 そんな幸一の願いに応えるように、明人の反応は変わっていく。

「あっ、あ……ぁん♡ こ、いちぃ、ついてっ、もっとついてぇ♡」

 幸一の指をもっともっと奥深くへ誘うために、自ら尻を振って媚びる。快感を求める淫らで可愛い姿に体に熱が溜まる。それと同じく怒りもわいた。
 こんな姿を他の男に見せるだなんて気が触れそうだった。


 半ば襲い掛かる形で関係を保ち、別れたくないと懸命に言い募る幸一を明人は許した。
 毎日のようにその体を抱き、幸一から離れられないようにと呪った。
 店を辞めてくれという頼みはなかなか受け入れてもらえなかったが、粘り強く交渉を続けるとついに聞き入れられた。幸一のいない間に他の男に口説かれているのではないかと疑心に苛まれる幸一を見た明人が折れた結果だった。
 明人の住んでいたアパートを引き払い、幸一の部屋で共に暮らし始めた。生活費を渡し、家を整え、帰れば明人が出迎えてくれる毎日は幸せだった。
 そんな幸福はある日突然、汚点となった女に叩き壊された。


「幸一お帰りなさ~い♡ もうご飯出来てるわよ♡」

 同じ台詞だったとしても、口にする人が違うだけでこうも心の反応が変わるのかと思った。ちなみに今の幸一の心は目の前の相手に対する悪い意味での驚きと生理的な不快感で占められている。

「何故ここにいる。どうやって入った」
「どうしたの? 怖い顔だわ。そんな顔しないで……」
「どうやって入った。彼は何処だ? とにかく出ていけ。今なら穏便に済ませてやる」

 目の前で不思議そうにしている幸一を捨てた女の手首を掴む。部屋の外へ出そうと引っ張ると、女の方から抱き着いてきた。

「ごめんなさい! 浮気して、酷いこと言って、本当に悪かったと思ってる……でも、私ようやくわかったの! 私が本当に愛してたのは貴方なんだって」

 インターネット上に溢れているテンプレートのような台詞だった。

「お願い、もう浮気なんてしないから私と……」
「俺がキープで浮気だったんだろう。離れろ。出ていけ」

 まとわりつく体を引き剥がす。何となく目に入った女の衣服は何だか安っぽかった。
 交際相手が御曹司だった為か元々の嗜好なのか、幸一でも知っているようなブランド品ばかり身に付けていた女だったのに。

「……ああ、捨てられたのか。キープがいたのがバレて婚約破棄されたか?」

 図星なのか女の顔が強張る。

「目に見えて落ち込んだキープ男なら喜んで元の鞘に戻ると思ったか。馬鹿にするなよ」
「……違う。違うわ、私、本当に!」

 言葉は待たずに外へ追い出し、女のものだろう薄汚れたハイヒールを蹴り出して鍵を掛ける。開けてと叫びながら扉を叩かれるが無視する。近所に通報されても構わない、むしろそうして欲しい。
 室内を探しても彼はいない。スマートフォンに掛けてみると通じはするが出てくれない。着信音は部屋からしないので何処か外にいるのだ。
 彼女面して部屋を訪ねてきたあの女に追い出されたのだろう。
 探しに行こうとした幸一の視界に二人掛けのテーブルと、その上に並ぶ料理が見える。ぱっと見ただけで彼のものではないとわかり、怒りが増した。
 部屋を見ていた際に見つけた女の鞄を手に外へ出ると、女はまだ帰っていなかった。幸一の顔を見て期待を滲ませる顔に鞄を投げた。


 明人は見慣れた公園のベンチで途方に暮れていた。
 なし崩しのように始まった幸一との同棲生活に慣れたこの頃、買い物から帰って夕飯作りを始めようとした時、計ったようなタイミングで玄関のチャイムが鳴った。来客については何も言われておらず、宅配便か何かだと思って出てみると若い女性が待っていた。

「誰あんた。ここ、幸一の家でしょ?」

 明人を見て怪訝そうな顔をする彼女に、明人が同居人だと答える。ルームシェアの珍しくなくなった昨今、男同士で暮らしていてもおかしくはない。

「悪いけど出てってくれる? あたし、幸一の彼女なの」
「え? でも彼女とは別れたって」
「復縁したの。そんなことも聞いてないの?」
「……幸一に確認しないと。勝手に家には入れられないです」

 仕事中だから出てもらえないかもしれないが電話をかけてみようとポケットに入れていたスマートフォンを手に取ると、女性は気を悪くしたのか眉を吊り上げて怒り始める。

「あたしが嘘ついてるっていうの!? いいから出ていきなさいよ! 邪魔なのよあんた!」

 女性相手に油断していた明人は思ったより強い力で引っ張り出され、着の身着のまま外へ放り出される。反対に女性は中へ入り、ガチャン、と大きな音を立てて鍵を掛けられてしまった。
 しばらく呆然としていた明人は、幸一に連絡しようかとスマートフォンを操作し始めて――やめた。
 本当に復縁して明人に隠していたのかもしれないし、女性の狂言なのかもしれない。でも後者だったとしても、幸一は彼女を選ぶかもしれないと思ったのだ。
 それくらい、出会った頃の幸一の落ち込みは強かった。本当に彼女が好きだったことがわかる。
 明人に強く執着するのも、恐らくは彼女への未練を紛らわしてくれた存在だからだろう。

「……どうしよ」

 財布とスマートフォンはジーンズのポケットに入れていた。サンダルを履いているから歩行も問題ない。ネットカフェにでも行けばホテル代わりになるだろうし、それくらいの金はある。
 ぼんやり考えながら歩いていると、自然と足は慣れた場所を目指すらしく。いつの間にか日は暮れ、気付けばとある公園の前まで来ていた。
 数日前に引き払ったアパートとも、惜しんでもらいながら辞めたバーとも、それ以前に働いていた会社とも近い小さな公園。遊具は錆びたブランコくらいで、他にはボロボロのベンチがあるだけのそこに何故かよく訪れていた。
 誰にも会うことのない、現実から捨て置かれたような公園に一人でいると何も考えずにいられる気がした。
 以前そうしていたように、ペンキの名残すらないベンチに腰掛け目を閉ざす。
 どれだけそうしていたのか。長くも短くも感じる時間を打ち破ったのは、名前を呼ぶ声だった。

「中条くん?」

 たったそれだけなのに。長く聞いていない声なのに。
 それが誰かわかって明人は反射的に目を開け、声の主を探した。
 寂れた公園のベンチに腰掛ける明人から一メートル程距離を置いた所に、スーツ姿の男性が一人佇んでいた。
 明人と同年代の彼はかつての同僚であり、苦い思い出の人だった。
 同年に入社し同じ部署に配属され、仕事の出来は彼の方が何倍も良くて上司からの期待も大きかった。それを鼻に掛けず明人に気さくに接してくれる彼に、明人は好感を抱いていた。
 それはやがて好意になり、明かす筈のない想いは勘のいい先輩に気付かれ、広められてしまった。
 冷やかす目。侮蔑の声。他人から向けられるそれよりも、噂を聞いた彼から向けられる困惑した顔が一番きつかった。
 まだ面と向かって罵ってくれた方が良かったかもしれない。優しい彼を困らせるより、怒りをぶつけられた方が――辛くないとは言えないけれど、気が楽だ。
 ぽかんと口を開けて見上げる明人に、彼は困った顔で微笑んだ。
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