一方的運命論

鳫葉あん

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一方的運命論

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 この世には六つの性別がある。
 身体的な違いが大きくわかりやすい男性と女性。さらにそこから三つの性があり、合わせて六つだ。
 一つは精神的、肉体的に高い才能を持ち統率力に優れるが出生数の少ない希少なアルファ。
 一つは世界の大半を占め平均的な能力を持った者の多いベータ。
 残る一つは『発情期』と呼ばれる特殊な生理現象と、男女の差なく妊娠能力を宿し、唯一アルファを産む可能性を持つオメガ。
 歪んだようで均整の取れたパワーバランスを保ちながら、この世は性別に支配されている。


 高階馨(たかしな かおる)はかなり生きにくい存在だった。実家が日本でも指折りの財閥でなければ生きていけなかったかもしれない。
 まず頭が良くない。はっきり言って悪い。高校卒業までの十八年間、学力考査は常に最下位から数えた方が速く見つけられる順位だった。きちんと学校を卒業出来たのは根気よく補習授業を行ってくれた家庭教師と、そんな家庭教師よりも熱心に復習に付き合ってくれた兄の優吾(ゆうご)のおかげだ。お世話になった人達には感謝の言葉もない。
 運動も得意ではなく、ドジで手先も不器用、音楽等の芸術的な分野も伸びは良くない。いい所のなさそうなうえに、中学に上がると義務付けられている第二性別検査――男女ではなくアルファやオメガなどのバース性と呼ばれる性別を明らかにする検査で、オメガの判定が出た馨を誰よりも心配したのは両親ではなく兄だった。

「バカで顔も……いや、俺からしたら可愛いんだが、他人からしたら……まぁ普通……だよな……悪くはないと思うんだが。とにかくお前、どうにかして番を見つけないと……」
「そうだねぇ」

 当人よりも焦る兄にのほほんとした返しをする弟。危機感のない馨を見て、毒気を抜かれた優吾が深いため息をつく。

「ま、相手はどうにか見繕ってみるし……いざとなったら俺が面倒見てやるからな」

 大きな企業を背負い立とうとしている男の力強い言葉は、子供の頃から馨を支えてくれた。きっと大丈夫だと、根拠もないのにそう思わせてくれる優吾に、馨は甘えていた。


 高校を卒業した馨は学力を理由に進学せず、引退した父に代わり会社を取り仕切る兄の手伝いをしていた。
 これといって得意分野のなさそうな馨だが、直感的なセンスだけは良かった。
 ゆりかごから墓場までと言うように、馨の会社は多種多様な業界へ進出しており、世間の流行に乗り遅れない新商品の開発は必須事項だ。けれど思い付いたもの全てを商品化することは出来ない。取捨選択が必要で、その意見を出すのが馨の仕事だった。
 新商品候補のサンプル達を前に、微妙な違いで議論し合う。例えば女児向けのうさぎのぬいぐるみ一つとってもそうだ。カラーバリエーションはコストの関係で二色まで。候補はシンプルな白、可愛いピンク、リアリティのブラウン、お茶目な白地に黒まだら。さらに目の色は赤と黒の二色から選ぶ。
 年若い青年社員やベテラン中堅社員に混じり、自分のセンスを信じて意見を出し言い合う。相手の意見もよく聞いて、悪い頭なりに吟味する。そこに社長の弟だからだとか、そんなものは関係ない。
 より良い、売れる商品を。全員の胸にあるのはそれだけだ。
 学がないなりに懸命に考え、世話になりっぱなしの両親と兄の役に立とうと生きる馨に、兄はある日一人の男性を紹介してきた。


 その日は休日である日曜日で、用事があるから家に居るよう言われていた馨は趣味の散策もせず自室で暇を潰していた。
 昼前に客間へ来るよう言われ、素直に従うとスーツ姿の男性が待っていた。平均的な身長の馨より頭一つ分は背の高い、スラッとした手足と端正な顔立ちの彼は兄が探してくれた馨の婚約者候補だという。
 出世コースを順調に歩んでいるアルファで兄も気に入っているらしい彼、真島令一(まじま れいいち)は馨との結婚を望んでいるという。頭が悪くてろくに家事も出来ないくらいドジのいいとこなしだと話しても、その意思は変わらなかった。
 家事は令一が全て行い結婚後の労働は自由、三食昼寝付きと言われれば馨に断る理由はなかった。そもそも結婚出来ると思っていなかったのだ。
 もともと優秀だったが馨との結婚で社長の義弟という強い繋がりが出来た。彼にとっても有益な部分はあるだろう。
 あれよあれよと話は進みあっという間に二人は結婚した。令一の気が変わらないうちにという思いがあったのかもしれない。籍を入れた当時馨は十九、令一は二十六だった。
 まだどちらも若く――取り返しはつくのだと、察していた。


 話があると弟から連絡を受けたら優吾に断る選択肢はない。二つ返事で了承し、翌日の土曜日は午後までなら空いているのでそこへ捩じ込む。
 結婚後も変わらずに会社を手伝っているとはいえ、商品開発部で一癖も二癖もある同僚達と議論し合う馨と社長業に勤しむ優吾とでは接点などほぼない。久しぶりに実家に帰って来た弟は、困った顔をしていた。

「どうした? 何かあったのか」
「……これ」

 すっと手渡されたのはスマートフォンだ。開いてみるとボイスレコーダーのアプリが表示され、再生ボタンを押す。

『――お電話でも話した通り、私は令一さんの運命の番です』

 凛とした女性の声が語り始める。聞いた話では最近会社に入ったオメガの女性で、令一と同じ部署らしい。
 運命の番。それはアルファとオメガにとっては何よりも強く求める存在だった。科学的な解明はなされていないが当人同士は一目見ただけで心を掴まれる魂の半身のようなものらしい。
 馨も優吾も運命の番に出会えていないので正しく理解出来てはいないが、それがどれだけ大切なのか想像は出来る。
 既婚者のアルファ、もしくはオメガが運命の番と出会い、それまでの番を捨てるケースは珍しくない。

『令一さんと出会ったのは一月程前で……一目見てこの人だとわかりました。でも……指輪をされてるし、他の同僚から結婚してるって聞いて、諦めようと思ったんです』

 そこで区切り、かた、と物音がする。

『貴方が! どうしようもないダメ人間だって知らなければ!!!』

 怒声と共に机を叩くような音が聞こえ、その大きさに優吾の肩がびくついた。

『掃除洗濯炊事にゴミ捨てまで家事全部令一さん任せって……お願いします、令一さんと別れて下さい。私の方が絶対に令一さんを支えてあげられます。大切にします。必ず幸せにします!!』

 だん、と再び大きな物音が聞こえる。実際の現場にいなくともどんな光景なのか、優吾の頭にはっきりと浮かび上がった。

「あの、この人の言ってること間違ってないし。れ……真島さんに負担かけてる生活なのは本当だし……」

 令一との結婚にあたり、馨も家事を覚えようとはした。のだが。
 料理をしようとすればボヤすれすれの騒ぎになり、掃除をすればその前より散らかって皿や花瓶が割れる。最近ようやく操作マニュアルを見ながら洗濯機を動かし、洗濯物を干せるようになった程度に家事能力は低い。
 相応の給料を貰っているので馨負担で家政婦を雇うことを提案したが他人に家に入られるのは嫌だと断られてしまった。令一が家事を引き受けてくれているので目をそらしていたが、平等に助け合うべき夫婦生活は破綻していると見れるだろう。
 何も出来ないオメガを養うより、運命の番と助け合いながら生きていく方が幸せに決まっている。誰の目から見ても明らかだった。

「で、あの、離婚しようと思うんだけど」
「……まぁ、そうなるよなぁ」

 何となく察しはついていた。どう考えても出世の為に成立した結婚だ。いつか別れる可能性があるとは思っていた。
 優吾が可愛がっている馨を無下に出来ず、溢した愚痴や不満が運命の番を突き動かしたのだろう。

「慰謝料ってどのくらい払うものなんだろう。一年間迷惑かけたからたくさんあげたいんだけど、俺、お金あんまりないから」
「そこら辺は弁護士と相談だな。いいよ、俺が出してやる。お前が困らないようにって相手探して、こうなったんだからな。とりあえず……寝泊まり出来る荷物持ってこっちに戻って来い。真島くんの都合のつく日に俺が話すよ」
「ありがとう兄さん」


 午後から予定のある優吾と時間が許すまで話をした馨は帰宅すると荷造りを始めた。令一はジムや買い物に行き、帰りは夕方になると言っていたので見咎められることもない。
 結婚して令一のマンションに移ってから買い増えた物は服くらいだ。趣味の少ない馨の私物は大きめのキャリーに詰められる程度しかない。
 忘れ物はないかとリビングを見渡すと、趣味の道具を忘れていたのを思い出す。テレビを置いている大きめのチェストの引き出しを開けると、色とりどりの毛糸玉とプラスチック製の編み針が入った籠がある。籠ごとキャリーにしまえば、今度こそ忘れ物はなかった。
 これといった趣味のなかった馨が気紛れに訪れた店で何となく手に取った本。それは編み物の本だった。
 当時は秋に入り始めた頃で、冬に向けて初心者でも簡単に編み物が出来るようになる教本や実際に本の通りに作られたサンプルが飾られていた。それを見て、日頃世話になっている令一に何か作ってやりたいと思ったのだ。
 本と道具を買って、あまり得意ではない活字を追って、糸のようにこんがらがる頭で精一杯糸を編んで――出来上がったのは複雑に糸の絡み編まれた物体だった。
 壊滅的に手先の不器用な馨にマフラーだの手袋だの高度な物が作れる筈もない。わかってはいても悲しくて落ち込んだ。ゴミ箱に捨てられるだけだったそれを、令一はよく出来ていると褒めてくれた。
 たわしとして利用してくれた。馨が一人で作り出したものに、令一は価値を見出だしてくれたのだ。
 汚れがよく取れて助かると微笑んでくれて、嬉しくてマフラーや手袋の作り方より毛糸たわしの作り方を調べた。丸っこかったり正方形だったりカラフルだったり、色んなたわしを作っては令一に渡して、お礼を言われるのが嬉しかった。
 本心はどうあれ、ちょこっとでも役に立てたような気になれた。令一のおかげだ。
 ほんのわずかに物の減った部屋を見渡して、馨が思うことは一つ。令一への感謝だけだ。
 令一と暮らした一年は楽しかった。優吾の大切な弟である馨に、令一は優しくしてくれた。
 頭の悪くて何も取り柄のないオメガと結婚してくれた彼を、幸せにしてあげたかった。


 悩みを優吾に打ち明けたことで安心した馨は久しぶりの実家、長い時間を過ごした自分の部屋に入ると、荷造りの疲れもあったがテリトリーに戻った安心から眠ってしまった。夢も見ない程の深い眠りを覚ましたのはうるさく鳴り続けるスマートフォンだった。
 慌てて手に取ると、画面は通話着信と共に表示される令一の名前を見て、書き置き一つ残さず出て来てしまったことを思い出す。帰宅して家に居ない馨を不審に思ったのだろう。
 通話マークへスライドして繋げると、開口一番に彼から名前を呼ばれた。

『馨? 今どこにいるんだ』

 電話越しの声から心配してくれている気配を感じ、馨は安堵する。

「あの、実家です。ごめんなさい、連絡するの忘れてた」
『実家? 何かあったのか?』
「兄さんに相談があって。あの、今日は」
『相談はもう終わったのか?』
「ああ、うん。終わりました」
『なら今から迎えに行くから』
「え? あの、待って」

 一方的に通話は切られてしまう。かけ直そうかと思ったが部屋の扉を叩かれ、そちらに意識を奪われる。返事をすると長年働いてくれている家政婦が部屋の中へ入ってきた。

「馨さん、起きてらしたんですね。もうお夕飯が出来上がりますよ。優吾さんも待ってますから食堂へいらして下さいね」

 皺の多くなった顔にとびきりの笑みを浮かべた彼女の言葉に頷く。何より優吾が家に居るらしいことを知り、馨は食堂へ急いだ。

「そうか。田中さん、夕飯ってもう一人分くらいある?」

 令一が家に来ることを伝えると、優吾は家政婦の田中に尋ねる。彼女が頷くと、馨の伴侶が夕飯を食べに来るのだと返した。

「あらあら、馨さんの」
「うん、急に悪いんだけどもう一人分用意してあげて」

 嫌な顔一つせず夕飯の支度に戻る彼女は長年働く名家令息の我が儘に慣れている。夕飯が一人増えるのなんて可愛いものだと。

「どうせいつか話をするんだからちょうど良かったな」
「……うん」

 令一がどんな反応をするのか、色々と考えると心配になってくる。たまっているだろう不満をぶつけられるかもしれない。
 はやく済ませてしまいたいような、もう少し猶予が欲しかったような。断言出来ない感情に苛まれていた馨の耳に来客を知らせるチャイム音が届いた。


 十人は同席できる大きな机には真っ白なクロスがかけられ、机の中央には花が飾られている。上座には海外旅行を楽しむ両親に代わり邸の主人となった優吾が座り、その隣に馨が、馨と向かい合う席には怪訝そうな令一が座っている。
 誰も口を開かない中、ニコニコと笑みを浮かべる田中が配膳を済ませていく。目の前に並べられた和食達に、馨の顔が綻んだ。

「田中さんのご飯、久しぶりだ」

 思わずといった様子の呟きに令一の眉が僅かに反応する。
 味のよく染みたおひたし、脂の乗った焼き魚、具の多い味噌汁、つやつやと輝く白米、黄金色のだし巻き玉子。田中の作るご飯で育った馨には、彼女の家庭料理こそがお袋の味だった。

「どうぞごゆっくりなさって下さいね」

 馨の言葉に笑みを深くした田中が下がる。優吾が促すと馨と令一が箸を持つ。食事を進めながら優吾と令一は当たり障りのない話をし、会話に入れない馨は黙々と箸と口を動かした。
 家を出る前と変わらない味に笑みを浮かべていると強い視線を感じ、目を向けると令一が冷たい目で馨を見ていた。
 えっ、と声を上げる馨に優吾がどうしたと尋ねてくる。令一の顔を見ていなかったのだろうか。

(やっぱり嫌われてたのかな)

 いい所もなく面倒ばかりかける運命の番でもないオメガなんて厄介者でしかない。好かれる要素がなかった。


 食後のコーヒーを飲み終わると令一からそろそろお暇しようと声が掛かる。普段なら二つ返事で従う馨だが今日はそうはいかず、言い淀む様子に令一が訝しむ。

「真島くん。馨は家に戻すよ。君には申し訳ないことをした」
「え?」

 馨の代わりに優吾が答えると、当然ながら令一は疑問の声を上げた。

「私からの縁談では君も断りにくかっただろう。弟可愛さに押し通して悪かったと思っている。君には出来る限りのことはさせてもらうよ」

 頭を下げる兄を見て、慌てて馨もそれに倣う。

「あの。お世話になりました」

 同じように頭を下げる兄弟の姿を見て、令一は困惑していた。
 馨の意向で彼の運命の番の行動には触れず、ひたすら頭を下げる。馨との生活に問題があるとはいえまだ籍は入っており、彼女の行動は不貞に繋がるが恐らく令一には無断でのことだろう。運命の男を想って動いた彼女を諌める気にはなれない。
 頭を下げ続ける二人に理由を問う令一。折れたのは後者だった。
 納得はしていないという顔ではあるが、馨の家族であり上司である優吾に強く出られない為か、一人帰宅していく彼の背中に馨は何度も謝った。


 翌日から馨の暮らしは一変、というか元に戻った。
 朝起きると、田中が昨日用意しておいてくれた朝ご飯を温めて美味しくいただき、身支度を済ませると優吾に引っ付いて運転手付きの送迎車で出社する。
 商品アイディアを練り、資料を作り、開発部の面々とああでもないこうでもないと討論し、一日が終わると迎えの車に乗り込む。帰宅すれば田中が用意してくれた夕飯を食べて一日を終える。
 今日は優吾も共に帰宅したので夕飯も同席した。仕事の後に優吾と食事をするのは久しぶりだ。

「お前と真島くんのことは弁護士に頼んだ。真島くんにも伝えたから何か言われたら弁護士を通すよう言いなさい」
「うん、ありがとう。手間かけてごめんなさい。お金、少しずつ払うよ」
「返さなくていい。見合いも結婚も俺が進めたことだ」

 けれどそれは良いとこなしのオメガを心配しての兄心だ。馨がもっと器量が良くて少しでも家事が出来たら困ることはなかっただろう。
 令一だって運命を諦めてくれたかもしれない。そう思うのは彼に未練があるからだろうか。


 馨が実家へ戻って六日目の木曜日。今日も共に帰宅した優吾は難しい顔をしていた。

「仕事、大変なの?」
「いや……真島くんのことだ。どうも離婚の意思はないと突っぱねてるらしくてな」

 示談交渉は難しいかもしれない。珍しく困った顔で語る優吾に馨も釣られて困ってしまう。
 優吾の話では家庭生活に問題があるという主張で馨有責扱いで進めようとしているのだが、令一はそれを否定しているようだ。

「……真島さんは運命の人と結婚したいんじゃないのかな?」

 運命の番と出会ったことを馨には知られていないと思っている筈で、そんな中お荷物の馨の方から離婚を切り出したら喜んで別れるものだと思っていた。明確な理由を話さず離婚しようとする馨が気に食わないのだろうか。
 どうしたらいいのか考える馨に、焦れたように動きがあった。
 翌日の金曜日。優吾は今夜取引先との会食があるらしく帰りの送迎車は断り、久しぶりに歩いて帰ることにした。十数分の距離なのでたまの運動にはちょうどいい。
 終業後、会社を出て歩いていると手首を掴まれる。何だろうと振り返ると、令一だった。

「あ」

 目が合うと途端に令一の顔が綻ぶ。釣られて思わず笑うと、令一は安心したように手首を掴んでいた手を肩へ移動させた。

「馨、帰ろう」
「え? でも」

 肩を抱いて歩かれるとつい足が動いてしまう。あれよあれよと社員駐車場の隅に停められた令一の車へ押し込まれ、シートベルトを着けるよう言われ反射的に従う。
 令一のマンションも会社からそう離れた場所ではないので車ならすぐに着いてしまう。促されるまま入った久しぶりの部屋は、酷く荒れていた。
 片付けをしようとすると物を倒して壊してひっくり返して、と元より汚してしまう馨と違い、令一はてきぱきと部屋を綺麗にしてしまう。
 綺麗好きでゴミが落ちてたり溜まっているなんてあり得なかった筈の部屋は洗ったカップ麺の容器がシンクの横に山と積まれ、満杯のゴミ袋の山も見えた。
 卓上には本や書類が乱雑に積まれ、チェストは引き出しが開けっ放しだ――が、中は空っぽだ。それもその筈、中に詰まっていた編み物道具は馨が持ち出してしまったのだから。

「見事に空だったな」

 馨の視線の先に気付いた令一が口を開く。

「馨の部屋にも何もなかった。どういうことなんだ」
「……運命の番の人に会ったんだよ」

 事情を全て話して、もういいのだと、馨から解放されるべきだと説得しよう。そう思った馨が告げると彼は驚いた顔をしている。

「何を言っているんだ。馨の運命の番は俺だろう?」
「え?」
「俺の飯は口に合わなかった? 部屋が気に入らないのか? 何処が悪いのか教えてくれ。それともその運命の番とやらと結婚したいのか?」

 それは駄目だと唸る令一には馨が見えていない。馨との齟齬に気付いてすらいない。

「馨、そんなのは間違いだ。お前の運命は俺なんだよ」

 物分かりの悪い子供を諭すように冷静な目で、なのに浮かべる表情は夢見る乙女のように紅潮した令一は語る。いつもの彼と明らかに違う様子が恐ろしい。

「違うよ……だって俺、真島さんと会った時何ともなかったよ。運命の番って一目でわかるんでしょ?」

 男前だと見惚れはしたがそれ以上のものはなかった。令一も初対面の際、馨を見ても平然としており、理性を感じさせる冷静な目で馨を見ていた。

「馨」

 嫌に冷静な声で呼ばれた。

「俺の運命はお前なんだ。ならお前の運命は俺なんだよ」


 令一の運命はもっとずっと前。優吾に紹介してもらう前から馨のことは知っていた。
 何かの用事で訪れた商品開発部の席で商品アイディアをまとめていた真剣な横顔は令一の心に残り続けた。
 馨のことをそれとなく探っていたある日、優吾の方から話を持ってきてくれた。本当に運命だと思った。
 馨は何も出来ないと言われていたが令一にはちょうど良かった。兄の庇護から脱し、令一がいないと生きていけなくなればいい。
 家に呼ばれ改めて馨と対面した時、やはり馨が運命だとわかった。馨の周りは光り輝いて見えた。彼と結婚するのは、彼のうなじに噛み付いて番となるのは自分だけだと本能が囁いていた。


「いたっ……あう、いたいよっ……」

 初夜の日もそんな声を上げて痛がり、慌ててうなじから口を離した令一を馨は複雑そうな目で見上げていた。
 あれから一年経った今も馨は痛がりで恥ずかしがり屋で可愛らしい。
 夫夫生活の頻度は多くはなかった。馨の体力はあまり多くないし二人共働いているので週末と発情期に目一杯愛し合う。行為の前に馨の体を磨くのも、貪り尽くされ気絶した馨の体を清めるのも令一の特権だ。
 今日は心の余裕がなく、磨きもせずに寝室へ連れ込んでしまったが令一としては何の問題もない。

「ひっ、あははっ! くすぐったい!」

 うなじを舐め上げると馨は無邪気に笑う。
 開発された乳首を摘まむと途端に甘えた声を出す。媚びた甘ったるい声を聞けるのは令一だけだ。そうでなくてはならない。

「んぅ……あっ、やめてぇ……」

 乳首だけで性感を拾い可愛いぺニスを勃ち上がらせている。それを掴み扱いてやると声の甘さが増した。
 手は止めずに口付けると舌が迎え入れてくる。そうするように教え込まれた馨は健気に舌を絡ませる。時折令一の舌や唾液を吸い上げてくるのが可愛かった。

「んぶ……んん♡ ……んぅ、あっ……あぁん♡ ……まじまさ……」
「馨も真島だろう」

 離婚を切り出されたあの日から馨が令一を真島と呼ぶのが気に食わなかった。他人だと線引きされているようで――ようじゃない、線引きしているのだ。

「れ、いちさ……あっ……あっ♡ あんんっ♡」

 令一を呼ぶ馨のぺニスを褒美のように扱き上げる。鈴口の穴に爪を立てると一際高く喘ぐ。
 ぴゅくぴゅくと精液を吐き出し、舌を出して呆けているうちにベッドサイドを探る。常備されたローションを馨の後孔へ垂らす。オメガの男性はアルファやベータとは胎内構造が異なり、排泄器官であるそこは生殖器でもある。
 馨の痛みを最小限にする為にたっぷりと垂らしたローションを中へ送り込む。卑猥な水音に馨はただ喘ぐだけだった。
 孔にいきり立った肉棒を宛がわれるまでは。

「えっ」

 令一が当てた亀頭をゆっくり侵入させていくと、馨は声を上げた。

「れいいちさん……ゴム……つけた?」

 理性の光を取り戻し始めた馨の目が令一を、令一の下半身を見ようとする。
 当分は二人の時間を大切にしたいという令一の望みから馨との行為は必ず避妊をしていた。
 感触に違和感があるのか普段なら聞いてこないような問い掛けをする馨に令一は答えないが、陰茎の侵入は止めない。

「やっ……! ゴム! ゴムして! お願いだから!」

 馨の心とは裏腹に馨の胎は令一の侵入を悦んでいる。はやく射精しろと促すように肉をあたたかく締め付け、腰を振ると馨の腰も自然と揺れ始めた。
 うるさい口を塞いで胎の中を叩き付けてやると馨の口から飛び出すのは可愛い嬌声だけになる。
 馨に促されるままに精を吐き出す。少しでも実りに近付くようにと奥深くへ押し入れると馨が大きく啼いた。
 令一の腰に纏わりつく両足がもっと奧へ来いとばかりに締め付けてくる。嫌がる言葉とは背反する馨の獣染みた行動は酷く興奮した。




『……というわけで、未だに全ては判明していません。例えばアルファのAさん、オメガのBさんが番だったとして、AさんはBさんを運命の番と認識してもBさんの運命の番がAさんだとは限らない、というケースも見られます』

 テレビの中で年配の学者がホワイトボードに情報をまとめながら話している。何となくつけた番組はアルファとオメガのメカニズムについての簡単な解説番組だった。

『運命の番が相互の関係になっていることの方が多いです。が、こういったケースもあります』
「馨、ただいま」

 聞こえてきた声に反応し、馨は手にしていた編み針と糸を置きテレビを消す。嫉妬深い番はテレビにすら焼き餅を焼くので彼がいる時は殆ど電源を切っている。

「流石はお兄さんの弁護士だ。接見禁止の同意書を貰ってきてくれたよ」
「そう、良かった。お疲れ様」

 令一がビジネスバッグから取り出した書類を差し出され、見てみると印刷された文書の下に几帳面そうな字で署名されている。その名前には一度だけ見覚えがあった。

「大丈夫だとは思うがまたあの女から連絡があっても相手にしないで俺に教えてくれ」

 令一の運命を名乗った女性は一方的なストーカーだったそうだ。運命だと信じ恋した男の為を思い動き、報われない恋に暴走した。
 馨の噂を聞き令一との結婚は政略性だけのものだと思い、馨が居なくなれば令一は自分を選ぶ。そうでなくてはならない。馨のスマートフォンを見てボイスレコーダーの内容を聞いた令一が問いただすとそう語ったそうだ。

「うん」
「またたわし作ってくれてたのか」

 真新しいカウチに腰掛けた膝の上に転がる毛糸を見て令一が笑う。それに馨は首を振った。

「手袋とかマフラーとか作ろうとしてるんだよ」
「そうか」
「令一さんにも、この子にもね」

 馨が慈愛の眼差しを向ける腹はまだ薄いが二人の子供を身籠っている。出産に備えて仕事を辞めた馨は日がな一日子供と令一のことだけを考えている。
 愛しげに腹を撫でる馨に慈しみを向ける令一は幸福だった。誰よりも。
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