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一章 異世界慕情
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「気を失った夫を放って、お前は何をしている」
傾く馬車の中から降りてきた男は、俺たちを一瞥した後に不機嫌な口調を肉妻へとぶつけた。
目鼻立ちが整った神経質そうな細面。肩に金細工を施した仕立ての良い服を着ている。戦時中日本の将校服のような造りだ。
「その男は何だ?」
細めた目で俺を睨み、男は肉妻に問う。
「この方が、穴を掘って馬車を止めて下さりました。謝辞をお伝えしていたところです」
「礼だと? ふん。どう見てもその男は平民だろう。愚妻とはいえ、伯爵夫人のお前が頭など下げるな」
「そんな、でも……」
男は肉妻にゆっくりと近づき、おもむろに足を上げると、そのまま土足で己の妻の肩を突いた。
「きゃあっ」
「俺に口ごたえする気か?」
「す、すみません」
誤らせた妻を睨みつけた後、男は傍で石になっている俺に目を向けた。
「おい、お前」
「はひい!」
「馬車を直せ」
「……へ?」
「お前の掘った穴で馬車が壊れた。テーベの街まではまだ距離がある。俺に歩かせる気か?」
呆気にとられて男の顔を見る。滅茶苦茶な理論だ。
お前の馬車が勝手に俺の掘った穴にハマっただけだろうが。何で俺が直さなければならない。物を頼むにしても、他に言い方というものがあるだろうがーーそう思った。
だが俺はーー
「ぼぼぼ僕には無理でしゅうっ」
情け無い声で後ずさるのが精一杯だった。
なぜならーー俺はその男が、怖かった。寸前にその妻に欲情していたからではない。
俺を見る男の目だ。この目には見覚えがある。元の世界で俺は何度かこの目に遭遇した。
人を傷つけることを何とも思っていない人間の目。
それは若い頃の同級生だったり、取引先の人間だったり、街ですれ違っただけの通行人だったりした。
そうして俺はその目と出会う度に、ズタズタに傷つけられてきた。俺はその目が怖い。筋肉を身につけた後にあっても、異世界にたどり着いた今でさえも、その目を見ると、俺は体がすくんで逆らえなくなるのだった。
「馬車の中に工具がある。直せ」
男はそう言うと、ツカツカと草原を歩き、腰高の岩にドカリと腰を下ろした。
「早くしろ」
「あなた、それはあんまりにも……」
男に睨まれて、肉妻は口をつぐみ俯いてしまう。
(やるしかないのか)
覚悟を決めて立ち上がる。肉妻はその俺を見上げ、切なそうな表情をした後、スッと腰を上げ馬車の中に消えていった。
再び現れた時、木箱を抱えていた。消え入りそうな声で俺に中身を説明する。
「金槌と、ノミと、ノコギリとカンナがあります。すみません。私も、手伝います」
「……はい。でも俺、日曜大工程度の知識しかありません。こんな複雑そうな造りの馬車を、直せるかどうか」
「すみません。夫はあんな性格で、意にそぐわないと何をするか分からないのです。巻き込んでしまって、本当に本当にすみません」
何度も何度も頭を下げる肉妻を見て、二人の関係を悟った。彼女の目は怯えていた。俺と同じように。
きっと彼女は今まで何度も同じような経験をしてきたのではないだろうか。その度にこうして頭を下げ続けてきたはずだ。
怯えながら、震えながら。
愛すべき伴侶であるはずの、自分の夫を恐怖して。
ーー助けたい。
どこからともなく、そんな思いが湧き上がってきた。そんな自分を意外に感じた。
俺はヘタレだ。それは間違いない。ヘタレで卑屈で、困難には身を縮めることで自分を守ってきた。何かに立ち向かう、などという経験はない。
そんな俺に、右手が囁いている気がしたんだ。
お前はそれでいいのか。変わりたかったのではないのか。お前の大きな体は何のためにある。筋肉は見掛け倒しか。お前は神に、何を願った。
お前の両手は、何のためについているーー?
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおっ」
湧き上がる感情を咆哮に変えて空に放った。
肉妻の体がビクリと震え、怯えた目を俺に向ける。気にせずに、俺は男に振りかえる。
「やってやるよ」
「あ?」
「お前が直せないものを、俺が直してやるよ」
「何だと?」
「お前が出来ないものを、俺がやってやるって、そう言ってんだよっ。テメエはそこで、指をくわえてそれを見てろっ!」
さあ。カタルシスの時間だ。
傾く馬車の中から降りてきた男は、俺たちを一瞥した後に不機嫌な口調を肉妻へとぶつけた。
目鼻立ちが整った神経質そうな細面。肩に金細工を施した仕立ての良い服を着ている。戦時中日本の将校服のような造りだ。
「その男は何だ?」
細めた目で俺を睨み、男は肉妻に問う。
「この方が、穴を掘って馬車を止めて下さりました。謝辞をお伝えしていたところです」
「礼だと? ふん。どう見てもその男は平民だろう。愚妻とはいえ、伯爵夫人のお前が頭など下げるな」
「そんな、でも……」
男は肉妻にゆっくりと近づき、おもむろに足を上げると、そのまま土足で己の妻の肩を突いた。
「きゃあっ」
「俺に口ごたえする気か?」
「す、すみません」
誤らせた妻を睨みつけた後、男は傍で石になっている俺に目を向けた。
「おい、お前」
「はひい!」
「馬車を直せ」
「……へ?」
「お前の掘った穴で馬車が壊れた。テーベの街まではまだ距離がある。俺に歩かせる気か?」
呆気にとられて男の顔を見る。滅茶苦茶な理論だ。
お前の馬車が勝手に俺の掘った穴にハマっただけだろうが。何で俺が直さなければならない。物を頼むにしても、他に言い方というものがあるだろうがーーそう思った。
だが俺はーー
「ぼぼぼ僕には無理でしゅうっ」
情け無い声で後ずさるのが精一杯だった。
なぜならーー俺はその男が、怖かった。寸前にその妻に欲情していたからではない。
俺を見る男の目だ。この目には見覚えがある。元の世界で俺は何度かこの目に遭遇した。
人を傷つけることを何とも思っていない人間の目。
それは若い頃の同級生だったり、取引先の人間だったり、街ですれ違っただけの通行人だったりした。
そうして俺はその目と出会う度に、ズタズタに傷つけられてきた。俺はその目が怖い。筋肉を身につけた後にあっても、異世界にたどり着いた今でさえも、その目を見ると、俺は体がすくんで逆らえなくなるのだった。
「馬車の中に工具がある。直せ」
男はそう言うと、ツカツカと草原を歩き、腰高の岩にドカリと腰を下ろした。
「早くしろ」
「あなた、それはあんまりにも……」
男に睨まれて、肉妻は口をつぐみ俯いてしまう。
(やるしかないのか)
覚悟を決めて立ち上がる。肉妻はその俺を見上げ、切なそうな表情をした後、スッと腰を上げ馬車の中に消えていった。
再び現れた時、木箱を抱えていた。消え入りそうな声で俺に中身を説明する。
「金槌と、ノミと、ノコギリとカンナがあります。すみません。私も、手伝います」
「……はい。でも俺、日曜大工程度の知識しかありません。こんな複雑そうな造りの馬車を、直せるかどうか」
「すみません。夫はあんな性格で、意にそぐわないと何をするか分からないのです。巻き込んでしまって、本当に本当にすみません」
何度も何度も頭を下げる肉妻を見て、二人の関係を悟った。彼女の目は怯えていた。俺と同じように。
きっと彼女は今まで何度も同じような経験をしてきたのではないだろうか。その度にこうして頭を下げ続けてきたはずだ。
怯えながら、震えながら。
愛すべき伴侶であるはずの、自分の夫を恐怖して。
ーー助けたい。
どこからともなく、そんな思いが湧き上がってきた。そんな自分を意外に感じた。
俺はヘタレだ。それは間違いない。ヘタレで卑屈で、困難には身を縮めることで自分を守ってきた。何かに立ち向かう、などという経験はない。
そんな俺に、右手が囁いている気がしたんだ。
お前はそれでいいのか。変わりたかったのではないのか。お前の大きな体は何のためにある。筋肉は見掛け倒しか。お前は神に、何を願った。
お前の両手は、何のためについているーー?
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおっ」
湧き上がる感情を咆哮に変えて空に放った。
肉妻の体がビクリと震え、怯えた目を俺に向ける。気にせずに、俺は男に振りかえる。
「やってやるよ」
「あ?」
「お前が直せないものを、俺が直してやるよ」
「何だと?」
「お前が出来ないものを、俺がやってやるって、そう言ってんだよっ。テメエはそこで、指をくわえてそれを見てろっ!」
さあ。カタルシスの時間だ。
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