僕の忘れられない夏

碧島 唯

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第二章 アリス

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 公園の一角、林になった場所の木の上で過ごして、数日経ったのか、それともまだたった一日しか経ってないのか。
 太陽が昇ったのも、夜になるのも分かるのに感覚が麻痺しているのか、今日が何日か、というのが分からなくなってしまっていた。
 とりあえず非常袋の中にあった水も、乾パンも、少しずつ食べていたのにあとほんの一回か二回食べたら無くなってしまうくらいになっていた。
「……食料の調達をなんとかしないと……飢え死にするな……」
 運よく林の中にあいつらはほとんど居なかった。
 あいつらが居るのは遊歩道や道路、建物の中と、普段人がよく居るような場所だというのも双眼鏡で見ていて何となくおぼろげにわかってきた。
 さすがに僅かな食料を食べつくしてから食料を探しに行くのは、もし襲われた場合に逃げ切れないかも知れないし、体力のある内になんとかしたい。
「大きなスーパーはあいつらが居そうだよな……」
 ゾンビ映画なんかだと、スーパーにはわらわらと湧いて出るように集まって来る。
 映画の中で「生前の行動を真似てるんだ」というセリフが確かあった。
 街中にあいつらは多くて、この林の中に見かけないのもそういったことだろうか?
 公園の近くに小さな雑貨店だかカフェみたいな店があった。
あまり人気のない店らしく前を通った時にも客がほとんど居なかったのを思い出す。
ここから距離も遠くないし、人気がなかった店なら…あいつらが居る可能性って低いよな、多分。
「いつまでも木の上に居るわけにもいかないし」
 正直ずっと木に座っているのもいい加減お尻が痛いし、身体が強張ってミシミシ言っている。
 どこか、鍵がかかって、あいつらに見つからないような場所も出来れば探したい。
 非常袋を背負うと音をさせないように木から下りていく。
 地面に足が付くと、身体のあちこちがきしんで、大きく伸びをしてあちこち動かしてみる。
 音をたてないように、静かに、慎重に、隠れながら歩き、途中に落ちていた長めの棒切れを拾う。
 無いよりはマシといった程度の気休めにしか過ぎないが、それでも武器のようなものを手に入れられたのは嬉しい。。
「こんな時、映画だったら鉄パイプぐらいは落ちてるんだろうなぁ」
 公園の裏手から道路が見えて、目的の店が目に入った。
 息を思い切り吸い込んで、全速力で走り出す。
 道路の向かい側で背中を向けているあいつらのいる場所を走り抜けた時には心臓が縮み上がる思いをしたが、なんとか目的の店の前に着いた。
 鍵がかかっていたらしく、ドアに手をかけて開けようとしたらガチャガチャと響く音と中のドアベルが鳴る音がして、あいつらが僕に気付いて向かってくるのが、気配と音で分かった。
「ま、まずいっ」
 店に入るのは諦めて早く逃げなくちゃ!
 どこに?
 まだどこに逃げるとか決めてなかったのに。
 あいつらがどんどん近づいてくるのが気配で分かって、恐怖が先に立って足が動かない。
 双眼鏡で見た、あの哀れな被害者のようになす術もなく、食われてしまうのかと思うとぞっとして、鳥肌が立ってしまう。
 僕は──こんなところでまだ死にたくない!
「こっちだ、早く!
 走れ!」
 誰かに呼ばれると同時に 銃声が響き渡る。
 僕に向かって血で染まった口を開けてゆらゆらと襲い掛かろうとしていたものから血が吹き出して倒れていくのが目の前でスローモーションのように見えた。
「早く!
 死にたくなかったら走れ!」
 声の方向に走って息が切れて足が砕けそうになった時、右腕を掴まれて細い路地に引っ張り込まれる。
 思わずあいつらかと声を上げそうになった時、口を手で塞がれて、耳元でしゃべるなと言われ、さっきの声だと気付く。
「音を立てないように、こっちへ」
 手を引かれるままに路地の中の暗い穴の中にと入る。
 ギィ……と小さな音がしてドアが締められ、暗闇に目が慣れてくるとうっすらと穴の中は部屋だったのが分かった。
「何であんな所に一人で?
死にたいのか?」
 蝋燭に火をつけたのか、暗闇が仄かに明るくなった。
「いや、死にたいわけじゃ……」
 蝋燭の僅かな光が明るくて、目の前に長い金髪と綺麗な顔がまるで──天使のように見えて。
「天……使……?」
金色の髪と白い肌、青い瞳がよく絵で見る天使のようで、僕の頬に熱いものが流れて、触るとそれは僕の涙だった。
「……どうした?」
「あ……、いやその……助けてくれてありがとう」
 天使に出会って泣いてしまったなんて、いくらなんでも口に出来ない。
そんな事を言ったら、彼女の持つ不釣合いな、あのゴツゴツした銃でこんな非常事態に何を言ってるんだと殴られるんじゃないかと思いながら、助けてもらったお礼を言ったけど、自分でも驚くほどに、なんてまぬけな声を出してるんだと呆れてしまった。
「食べ物を探そうと思って……。
街に出て、そこで襲われかけて、君に助けてもらった」
 嘘じゃない、だって僕の非常袋の中には乾パンと水がほんの少しあるだけだ。
「武器も持たずによく今まで無事だったもんだ……」
 目の前の美少女に呆れたように言われてしまう。
「まぁ、無事でよかった。
 ……お前、名前は?
 私は……、アリスだ」
 彼女は少し躊躇したように名前を教えてくれて、ミネラルウォーターを放り投げて寄越した。
 一口飲むと、今までに飲んだどんな飲み物よりも甘く感じられて、自分がどれだけ渇いていたのかを思い知った。
 身体──お腹や喉だけじゃなく、人との会話にも。
 一人じゃないって、実感すると自然に笑みが零れた。
「アリスって……不思議の国の?」
 思わず不思議の国のアリスが浮かんで口に出してしまっていた。
 ぷっと吹き出すようにして彼女──アリスが笑い出していた。
「ああ、綴りは一緒、アリス・イン・ワンダーランドじゃなく……アリス・イン・デッドランドなんだろうけどね」
 彼女が言う通り、確かに不思議の国ではなく、死の国なんだろうなと、僕も苦笑してしまう。
 生きたまま地獄を覗いたら、今のニューヨークに似てるんじゃないか、なんて事を考えて、この世の地獄なんてとんでもないと頭を振ってその考えを追いやる。
「僕は修一、鳴海修一」
「……ナルミシューイチ?
 ニホン……ジン?」
「ああ、日本人だよ。
ナルミでもシュウイチでも、言いやすい方で呼んでくれたらいいよ」
 何度か彼女が僕の名前を言い直し、結局シューと呼ばれることになった。
「それにしても……アリスの格好ってすごいね」
 よくよく見るとラフな長袖のTシャツとジーンズに、なんだかポケットのいっぱいついたベストを着た彼女は弾の詰まった帯を斜めにかけて、背中にリュックと、ライフルだかショットガンだかの大きな銃をしょって、腰にも銃の入ったホルダーが二つ下げられていて、女ランボーのような格好をしていた。
 ランボーよりもっと華奢で可愛い──というか綺麗だけど。
 両手の黒い皮手袋は指先だけが出ていて、肘の辺りまであるようだった。
めずらしい皮手袋だなと、しげしげと見つめてしまう。
これがボンテージとかいう手袋なんだろうか?
そもそもボンテージって皮だったっけ、よく知らないけど。
「長い皮手袋って珍しいね、初めて見た気がするよ」
「ああ、ちょうどいいのを見つけたから、指先だけ動かしやすいように切ったんだ。
奴らに咬まれないように、このくらいはしてないと安心できないからな。
まぁ──気休めかも知れないけど、ないよりはマシだろ?
服ごと食いちぎるあいつらに、皮がどのくらいもってくれるんだろうってのは試したくもないけどさ。
そういえば、シューは銃を使ったことは?」
 ない、と僕は首を横に振った。
 アリスは背中のリュックに手を突っ込んで何かを探し、僕に銃をひとつ放り投げてきた。
「えっ、ちょっ……何これっ」
 両手で思わず受け止めて、その黒い鉄の冷たさと重さに、なんていうんだろう、ゾッとしたとかじゃなく、──そう、生まれて初めて殺す為の武器という物を手にして心臓が止まりそうになった。
「あげる。
シューも銃くらい撃てないと……生き残れないよ?」
 多分この銃用の弾らしい箱を数個、一緒に渡してくれた。
「だったら、せめてもう少し小さいのを……」
「持ってないし、小さいと当たってもあいつら止まらないぞ。
それに、そのくらいでないと手持ちのサイレンサーが付けられない」
 サイレンサー、それは知ってる。
 スパイものとかによくある銃の音がほとんどしないようにするやつだ。
「あいつら、普段は鈍いけど、音とかに寄って来るし。
 無音ってわけにはいかないけど、ちょっとでも音の出ない方がいいと思う。
 シューは撃つよりは逃げる方を優先するタイプだろ?」
「そう……だね……。
 出来ればあんなのと戦いたくないし……」
 確かに、銃の音は派手だし、集まってくるかも知れない。
 あれ?
だけど、僕を助けてくれた時はバンバン派手に銃音がしてたんじゃあ……。
 多分、僕はその疑問を顔にもろに出していたんだろう。
 アリスが僕の顔を見て肩を竦めて小さく笑った。
 間抜けた顔の僕を笑ったのだと思って恥ずかしくなったが、アリスが肩を竦めて笑ったその本当の意味を、僕はまだ知らなかった。

 この部屋はアリスの隠れ家なのか、勝手知ったるといった感じで、奥の箱から缶詰と少し固くなったパンを持って来て、僕に分けてくれた。
 アリスもここなら安心なのか上着を脱いでいて、Tシャツとジーンズだけになっていた。
「美味しい…缶詰のソーセージをこんなに美味しいって思ったのは初めてだよ」
 久しぶりにまともな食事らしい食事をした気がして、何だか涙が出そうになる。
 日本に居た時は、ソーセージはどこそこのメーカーで荒挽きの皮がパリッとしてるもの、とか以外は食べないぞ、缶詰なんてとんでもないって思ってたのに。
 乾パン以外の物なんて久しぶりで、お腹いっぱいに食べられるって、なんて幸せだったんだろうと実感していた。
「シュー、食後の熱々のコーヒーとまではいかないけど、飲むだろ?」
 砂糖の入ったミルクコーヒーの缶を渡してくれて、常温で生ぬるいが砂糖とコーヒーとミルクの味に涙が出そうになった。
「美味しいよ。
今まで飲んだどのコーヒーより、アリスがくれたこのコーヒーが美味しいよ」
 日本に居た時は、缶コーヒーに感激することもなく、ごく普通に日常的に飲んでいたのがまるで遠い昔の事のようだった。
 僕とアリスは缶コーヒーを飲みながら、お互いの事を少しずつ話し出した。
 僕は、夏休みで日本から留学の下見に来たこと、着いた翌日にこんな事になって、公園の木の上でしばらく過ごしたことを。
 でも、アリスの話してくれた今までの事を聞いて、僕は本当にラッキーなだけだったんだと感じた。

 缶コーヒーを両手に持ったまま、アリスが俯いたまま話し出す。
「私の家はさ、ガンショップだったんだ」
 ああ、だからアリスは軽々と、映画の主人公や仲間みたいに銃を扱えるんだ。
 狙いも正確だったし、あいつらを撃つのに何の戸惑いもないみたいだし。
 シューティングっていうのかな、それに慣れているんだな、なんて軽く思っていた。
 だが、その後に続くアリスの告白に、驚いて目を見開いた。
「いつか店を継ぐって思ってたし……。
そう思われてたから、銃の扱いも小さな頃からやってて……いや、そうじゃないな……。
 ──そんなんじゃないんだ。
 私が銃を持ってるのは、そうじゃない──。
 私は、私の家族をむちゃくちゃにしたあいつらが憎くてしょうがないんだ。
一匹残らず狩ってやるんだ……。
その為なら何でもする。 
私が生きてる限り、あいつらを許せなくて、憎くて。
──ずっと狩り続けるんだろうな……」
ああ、だからこんなに武装して一人で街を歩いていたのか。
そして、あの時もあいつらを狩ろうとしていて、僕を見つけたのか。
「だって生きてたって、私にはもう誰も居ない。
 あの日、店の開店準備をしてた親父が、いきなり入ってきたやつに食われて、母さんと
妹が親父に食われて殺されて、血で床が真っ赤になって……。
ついさっきまでは親父だったものを撃ってただの死体にした時から、私もおかしくなってるのかも知れないな。
でも、母さんと妹は生き返らなかったから、撃たずにすんで──それだけはよかったのかな……」
自嘲的に笑むアリスの顔が、泣きそうに歪んでいる。
「だから、音に集まって来るあいつらを撃って、撃ち捲くって。
 その時だけは親父や母さんや妹の仇を討てた気がして気が楽になるんだ。
……変だよな、親父の仇って、親父を撃ち殺したのは私なのにさ」
 彼女がそう言って笑った顔がとても悲しくて、胸が痛くなった。
 僕は何も分かってなかった。
 彼女の悲しみも苦しみも、憎しみすらも。
「何泣いてんだよ、シュー」
 僕は泣いていた、なぜだか胸が痛くて、頬に涙が伝っていた。
多分、それはもう泣けない彼女の為に変わりにだったのかも知れない。
 手を伸ばして抱き締めたアリスの身体は温かくて、まだ生きてるってことを実感できた。
「アリス、君も僕もまだ生きてる。
生きてるんだよ」
「こんな狂った世界で、生きてたって……どうなるんだろうな……」
 僕は何も言えなくて、ただアリスをぎゅっと抱き締めた。
 せめて、この身体の温かさだけでも伝わってくれたら。
「きっと……軍が来てあいつらをやっつけてくれるよ。
 そしたら、すぐに元通りのニューヨークになって、僕たちは笑いながらアイスクリームを食べたりして、あの時は酷い目にあったねって言うんだ」
 自分自身に言い聞かせるように言いながら、僕はアリスを抱き締め直した。
「アメリカの軍って優秀なんだろ、だから、きっと……大丈夫だよ……」
 抱き締めた時にアリスの胸が当たって、こんな時なのにドキドキして、あいつらの事を一瞬でも忘れてしまっていた。
恥ずかしいし、不謹慎だから、この事は一生秘密にしておこう。

 少し落ち着いてから、アリスが僕に銃の使い方を教えてくれることになった。
「銃はこう狙って照準をみて撃つんだ。
 やってみて」
 薬莢の装填を教えてもらって、次に撃ち方の練習をした。
 とはいっても、僕のはマガジン式というのか、弾は一度に詰め込んで、撃ったら自動的に薬莢は排出されるらしい。
 だから、マガジン……弾倉というらしいのに常時弾を詰めておくことが大事らしい。
 射撃場には多少は興味もあったけど、初めて持つ銃は手にずっしりと重かった。
「……シュー、それじゃ撃てない。
セーフティ」
 アリスの銃で銃身がコツンと当てられて、教えてもらったはずの安全装置を外すのを忘れているのを指摘される。
「セーフティっと……これで大丈夫だよね」
 今度はちゃんと安全装置を外して構える。
 的は割ったりして音が出ないようにクッションが置かれていて、その真ん中を狙って引き金を引く。
 パシュンとかちょっと間の抜けたような音と共にクッションに穴が空いて、なんとか的には当てられた。
「当たった、当たったよ、アリス!」
「まぁ初めてだしそんなものかな。
 狙いは外れても当たるようになるべく真ん中を狙うんだ。
 足や手とか狙わずに頭を狙えよ。
あいつらは頭の真ん中を打てばとりあえずは死ぬ。
 いや……死ぬってのもおかしなもんだよな、あいつらもうとっくに死んでるのに。
 動かなくなるっていうのが正しいのかな?」
「本当にね。
 映画のアレみたいだよね、ゾン……」
「その呼び方は止めよう、シュー。
その手の映画はいくつか見たことがあるけど、映画でハッピーエンドなんて私は見たことないし、そもそもあの手の映画にバッドエンドじゃないのってあるのか?」
ああ、それ僕にもちょっと分かる気がする。
リメイク版の有名なやつを見たことあるけど、生き残りの人たちが島に渡って助かるかなと思って終ったら、エンディングロールで島にもゾンビが居て叫び声とか入って、それでENDマークが出てたもんなぁ。
「じゃあ……アレ……ITとか……Zとか?」
「──Zか……それいいんじゃないかな。
アルファベットの最後の文字だな」
 映画の用にあいつらを呼ぶのはアリスに肩を竦められて、結局Zで落ち着いた。
 本当に、映画みたいだ。
死んだら生き返って?
動く死体がそこらを歩いてて、人間を襲って、襲われた人がまた起き上がって歩き出す。
「……まったくとんだ夏休みだ」
 期待と希望をもってニューヨークに来たその日から、まだ一週間も経ってないのに。
 多分、一週間も経ってはないと思う、というか思いたい。
 ニューヨークの多分、全土がこんな有様なのに、軍が動かないのは長すぎるだろう?
「何か言ったか?」
「何でもない」
せめて、僕がゲームの主人公みたいに射撃が上手くて、アリスに守られるんじゃなく、守ってあげられたらよかったのに。
現実は、僕はアリスの足を引っ張るしか出来なくて、これじゃあヒーローじゃなくてヒロインの立場じゃないか。
ちょっと男としては自分が情けない。
「シュー、それが当てられるならこっちのも練習してみる?」
 アリスが持っているライフルだかの長い銃を僕に掲げる。
「いや、やめとく。
 そういうのは反動も大きいんだろ、的に漸く当てられる程度の腕じゃ持たないほうがよさそうだよ」
「それもそうだな」
 くすくすと笑うアリスに、笑った顔を初めて見たとびっくりしてたら、ふいに近づいて来た彼女にキスをされてしまった。
「なぁに、そんな呆けた顔してんだよ」
 何だか顔が赤くなっていくのが分かる。
 金髪の美少女に頬だけどっ、キスされるなんて初めての事で。
 アメリカじゃ挨拶くらいの意味しかないかも知れないけど、僕は日本人で、頬のキスでも意識しちゃうじゃないか!
 あ、いや……これじゃあ本当に僕がヒロインで、アリスがヒーローじゃないか……。
 否定出来ないあたり、ちょっと情けないなぁ。
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