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第1章 黄泉の国から来た少女
#11 杏里、おののく
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振り返ると、紺色のジャンプスーツに、中日ドラゴンズの野球帽をかぶった若い女性が入り口に立っていた。
白衣こそ来ていないが、その細面の美貌は確かに七尾ヤチカのものである。
科捜研きっての切れ者と陰で噂される。例の美人研究員だ。
「一課のみんなは、今聞き込みに出かけたところですけど」
おずおずと杏里が応えると、
「ん?」
という感じで、切れ長のヤチカの眼が杏里を見た。
「あんたも刑事さん? そういえばきのうの現場にもいたわね」
「は、はい。笹原杏里と申します」
反射的に杏里は立ち上がっておじぎをしていた。
「へーえ、ニラさんとこに、こんな可愛らしい女の子、いたんだ。いいじゃんいいじゃん、このロケットおっぱい」
つかつかと歩み寄ってくると、いきなりブラウスの上からヤチカが杏里の胸を鷲掴みにした。
「うはあ、たまんないわあ、このマシュマロチックな感触」
「ちょ、ちょっと」
杏里はうろたえ、あわててその手を振り払った。
何なのこの人?
ひょっとして痴女?
「なーんてね」
にかっと笑うと、椅子を引き寄せて、杏里の隣に座るヤチカ。
「あたし、科捜研の七尾ヤチカ。ニラさんの部下なら、名前くらい知ってると思うけど、よろしくね」
握手を求められ、杏里はおずおずとその手を握り返した。
「こ、こちらこそ。でも、ヤチカさん、ニラさんと知り合いなんですか?」
ついそう訊いてしまったのは、韮崎のヤチカに対する言動が、どうも不自然だと感じていた矢先だったからである。
必要以上に意識しているように思えてならない時があるのだ。
「あれ? 知らなかったの?」
ヤチカが面白そうに杏里の顔を覗き込む。
「な、何をですか?」
「けっこう有名だったんだけどなあ。まあ、あなた、新人さんみたいだから知らなくて当然か。いいわ、じゃ、教えてあげる。実はね、あたしの元上司、結城美香さんっていうんだけど、彼女、ニラさんの奥さんだったの。もう離婚して2年になるんけどね」
「ええ? ニラさん、結婚してたんですか?」
杏里はのけぞった。
胡麻塩頭。
ぎょろりとした目。
狛犬のような顔。
杏里と大して変わらぬ背丈。
人間蒸気機関車とあだ名がつくほどの、ヘビースモーカー。
韮崎は、どうみても女性には無縁に見えたからだった。
「そう、2年前まではね。ニラさん、あれでけっこうやり手だったんだよ。昔は今程ガミガミ言わなかったしさ。まあ、奥さんのほうが出世して科警研配属になっちゃったんで、夫としては面白くないってのもあっただろうし、那古野と東京に離れ離れになっちゃったんで、自然に離婚ってことになったんだろうと思うけど」
科警研が、東京にある警察庁科学警察研究所のことだということは、杏里も知っている。
いわば全国の科捜研の元締めみたいなところである。
「そうだったんだ」
杏里は納得した。
だから韮崎は、ヤチカに関して普段何か含んだような言い方をする割には、いざ本人に会うと妙に態度がぎこちなくなるのだ。
ヤチカが元妻の一番弟子だから、やりにくくて仕方ないのだろう。
「まあ、それはそれとして」
野球帽を脱いで長い髪をひと振りすると、ふいにヤチカが話題を変えた。
「あたしがわざわざ出向いてきたのはね、面白いことがいくつかわかったから。ニラさんがいないなら、杏里ちゃん、あなたに教えてあげる。その立派なおっぱいに免じてね」
「おっぱいおっぱいって、言わないでください」
杏里は無意識に腕で胸元をガードした。
「何言ってるのよ。そんな素敵な武器持ってるなら、使わなきゃ損じゃない」
「使うって…」
まだ母乳が出るわけじゃ、ないんだけど。
「さ、準備完了。ちょっとこれ見てくれる? ハイツ南分の1階ロビーの防犯カメラの映像なんだけどさ。4月16日午後3時から午後7時までのものを、コピーしてきたの」
ヤチカは軽口を叩きながらも、杏里のPCにいつのまにかUSBメモリをセットしていたのだった。
「ちょうど、三浦文代の死亡推定時刻ですね」
「そうそう、おりこうさんね。で、映っていた人物の中で、ひとりだけ身元不明なのがいてさ。それが、こいつなの」
早送りしていた画像をヤチカが止めたのは、画面下の表示が、
2017/4/16/16:12
を示した時のことだった。
エレベーターの前に、黒いスーツ姿の男が映っている。
細身で背が高く、手にした鞄から、訪問販売のセールスマンの類いに見える。
エレベーターの前を通り過ぎ、1階の通路へ向かって歩いて行くところだった。
画面から消える寸前、
「ここ、ここ」
ヤチカがまた画像を止めた。
防犯カメラに気づいたらしく、男がこちらを振り仰いだのだ。
そのとたん、杏里は思わず、
「ひゃあ」
と声を上げた。
卵形のつるんとした、真っ白な顔。
そこには、目も鼻も口もなかったのである。
そう。
カメラを見上げる男の顔は、見事なまでに、のっぺらぼうだったのだ。
白衣こそ来ていないが、その細面の美貌は確かに七尾ヤチカのものである。
科捜研きっての切れ者と陰で噂される。例の美人研究員だ。
「一課のみんなは、今聞き込みに出かけたところですけど」
おずおずと杏里が応えると、
「ん?」
という感じで、切れ長のヤチカの眼が杏里を見た。
「あんたも刑事さん? そういえばきのうの現場にもいたわね」
「は、はい。笹原杏里と申します」
反射的に杏里は立ち上がっておじぎをしていた。
「へーえ、ニラさんとこに、こんな可愛らしい女の子、いたんだ。いいじゃんいいじゃん、このロケットおっぱい」
つかつかと歩み寄ってくると、いきなりブラウスの上からヤチカが杏里の胸を鷲掴みにした。
「うはあ、たまんないわあ、このマシュマロチックな感触」
「ちょ、ちょっと」
杏里はうろたえ、あわててその手を振り払った。
何なのこの人?
ひょっとして痴女?
「なーんてね」
にかっと笑うと、椅子を引き寄せて、杏里の隣に座るヤチカ。
「あたし、科捜研の七尾ヤチカ。ニラさんの部下なら、名前くらい知ってると思うけど、よろしくね」
握手を求められ、杏里はおずおずとその手を握り返した。
「こ、こちらこそ。でも、ヤチカさん、ニラさんと知り合いなんですか?」
ついそう訊いてしまったのは、韮崎のヤチカに対する言動が、どうも不自然だと感じていた矢先だったからである。
必要以上に意識しているように思えてならない時があるのだ。
「あれ? 知らなかったの?」
ヤチカが面白そうに杏里の顔を覗き込む。
「な、何をですか?」
「けっこう有名だったんだけどなあ。まあ、あなた、新人さんみたいだから知らなくて当然か。いいわ、じゃ、教えてあげる。実はね、あたしの元上司、結城美香さんっていうんだけど、彼女、ニラさんの奥さんだったの。もう離婚して2年になるんけどね」
「ええ? ニラさん、結婚してたんですか?」
杏里はのけぞった。
胡麻塩頭。
ぎょろりとした目。
狛犬のような顔。
杏里と大して変わらぬ背丈。
人間蒸気機関車とあだ名がつくほどの、ヘビースモーカー。
韮崎は、どうみても女性には無縁に見えたからだった。
「そう、2年前まではね。ニラさん、あれでけっこうやり手だったんだよ。昔は今程ガミガミ言わなかったしさ。まあ、奥さんのほうが出世して科警研配属になっちゃったんで、夫としては面白くないってのもあっただろうし、那古野と東京に離れ離れになっちゃったんで、自然に離婚ってことになったんだろうと思うけど」
科警研が、東京にある警察庁科学警察研究所のことだということは、杏里も知っている。
いわば全国の科捜研の元締めみたいなところである。
「そうだったんだ」
杏里は納得した。
だから韮崎は、ヤチカに関して普段何か含んだような言い方をする割には、いざ本人に会うと妙に態度がぎこちなくなるのだ。
ヤチカが元妻の一番弟子だから、やりにくくて仕方ないのだろう。
「まあ、それはそれとして」
野球帽を脱いで長い髪をひと振りすると、ふいにヤチカが話題を変えた。
「あたしがわざわざ出向いてきたのはね、面白いことがいくつかわかったから。ニラさんがいないなら、杏里ちゃん、あなたに教えてあげる。その立派なおっぱいに免じてね」
「おっぱいおっぱいって、言わないでください」
杏里は無意識に腕で胸元をガードした。
「何言ってるのよ。そんな素敵な武器持ってるなら、使わなきゃ損じゃない」
「使うって…」
まだ母乳が出るわけじゃ、ないんだけど。
「さ、準備完了。ちょっとこれ見てくれる? ハイツ南分の1階ロビーの防犯カメラの映像なんだけどさ。4月16日午後3時から午後7時までのものを、コピーしてきたの」
ヤチカは軽口を叩きながらも、杏里のPCにいつのまにかUSBメモリをセットしていたのだった。
「ちょうど、三浦文代の死亡推定時刻ですね」
「そうそう、おりこうさんね。で、映っていた人物の中で、ひとりだけ身元不明なのがいてさ。それが、こいつなの」
早送りしていた画像をヤチカが止めたのは、画面下の表示が、
2017/4/16/16:12
を示した時のことだった。
エレベーターの前に、黒いスーツ姿の男が映っている。
細身で背が高く、手にした鞄から、訪問販売のセールスマンの類いに見える。
エレベーターの前を通り過ぎ、1階の通路へ向かって歩いて行くところだった。
画面から消える寸前、
「ここ、ここ」
ヤチカがまた画像を止めた。
防犯カメラに気づいたらしく、男がこちらを振り仰いだのだ。
そのとたん、杏里は思わず、
「ひゃあ」
と声を上げた。
卵形のつるんとした、真っ白な顔。
そこには、目も鼻も口もなかったのである。
そう。
カメラを見上げる男の顔は、見事なまでに、のっぺらぼうだったのだ。
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