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第2章 謝肉祭
#1 忘れ物
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翌日の昼休み。
私たちは例によって、屋上に居を構えていた。
教室には、授業時以外、とても居られたものではなかった。
杏里を包囲する”熱”みたいなものが、日に日に高まっているのだ。
少しでも長居をすると臨界点に達してしまいそうな、そんな獣じみたムードが教室中に充満しているのだった。
誰もが杏里の一挙一動を目で追っていた。
トイレや教室の移動で杏里が席を立つたびに、全員の視線が、杏里の胸を、太腿を、スカートから覗く下着を追尾して動くのである。
ただ、不思議なことに梶井だけは別だった。
抜け駆けして杏里を襲い、返り討ちに遭ったのがよほど応えたのか、一日経ったきょうも、梶井は相変わらず虚脱状態のままだった。
そう、まるで杏里に、生のエキスと一緒に魂まで吸い取られてしまったかのように…。
青空の下に、煙ったような低い山並みが見える。
その下を銀の鱗を光らせて川を泳ぐ魚みたいに、音もなく列車が通っていく。
日本中どこにでもあるような、のどかな地方都市の風景。
そんな見慣れた景色を眺めながら、私は杏里に例の提案を話してみた。
「いいね」
と、予想通り、帰ってきたのはさわやかな笑顔だった。
「駅前のショッピングセンター、今月からリニューアルオープンしたんだよ。いろんな専門店があるし、ゲームセンターも映画館もあるんだ。私ひとりじゃ、ちょっと行く勇気なかったんだけど、杏里も一緒なら楽しいと思う」
勢い込んで私は言った。
こういう場合、週末に家族と出かけるのが普通かなのしれない。
だが、うちに限ってそうはいかないのだ。
体重150キロの母と一緒にショッピングなど、まずありえないシチュエーションだからである。
「どうやって行くの? 自転車?」
杏里が小首をかしげて訊いてくる。
「ううん。バスがいいと思う。私んちと駅の間に杏里の家があるから、時間合わせれば一緒の路線に乗れるよ。私、杏里の分も席取っておいてあげる」
きのう聞いておいた杏里の家の所在地を思い浮かべながら、私は答えた。
杏里は例の養父とふたりで、目抜き通り沿いに建つ賃貸マンションに越してきたのである。
「バスかあ」
杏里の眉間に、かすかにだが、縦皺が寄った。
「どうしたの? バスに酔いやすいとか?」
「そうじゃなくて。バスに限らず、私、ちょっと人混みが苦手なの。でも、いいよ。よどみが一緒なら」
「わあ、ほんと! ありがとう」
私は杏里の手を取ってはしゃいだ声をあげた。
自分の口からこんな明るい声が出るなんて、初めて知る思いだった。
「おいしいもの、いっぱい食べようね。こんな粗食じゃなくてさ」
私は杏里の手元にある弁当箱を顎でしゃくってみせた。
もちろん私の自家製弁当である。
「よどみのお弁当は、私にとっては十分ごちそうだけど」
杏里が真顔で言う。
「でも、おいしいデザートとかなら、ありかもね」
「でしょ? あ、それから、明日、写メたくさん撮らせてもらっていい? 私服の杏里、きっと可愛いよね。なんか、今から私、どきどきしてるんだけど」
「かまわないけど…あんまり、期待しないでよね」
杏里が苦笑した。
その笑顔に触れたとたんである。
私は、ひとついたずらを思いついて、心の中で舌を出した。
そうだ。
その手がある。
明日まで待てない。
杏里には悪いけど、あとでちょっと試してみよう。
その日は、それで終わりだった。
うちのクラスは、列ごとに掃除当番が回ってくる。
きょうは、杏里の列だった。
仕方なく、掃除当番の杏里を教室に残して、私は廊下に飛び出した。
ホームルームが長引いたせいで、太郎の散歩の時間が迫っていた。
残してきた杏里のことが少し気がかりだったけど、遅れて母の逆鱗に触れるほうが怖かった。
いったん太郎がうなり出したら、母は一気に不機嫌になるに決まっている。
そうなったら最後、いつまでも次の生贄を連れてこない私を、責めて責めて責めまくるに違いない。
が、幸い、ぜいぜい息を切らして前庭に駆け込むと、太郎は大人しく私を待ってくれていた。
「ごめんね、太郎。遅くなっちゃって」
頭をなで、水と餌を用意すると、足音を忍ばせて勝手口から家に入った。
「よどみかい? 太郎の散歩、忘れてないだろうね」
茶の間から野太い母の声。
またどうせ、ポテチでも食べながらテレビを見ているのだろう。
「うん、だから早く帰ってきた」
「感心だね。その調子でそろそろ、次のおもちゃ、頼むよ」
「わかってる」
母の後ろをそっと通り抜け、自分の部屋に入った。
ベッドのわきに荷物を置き、着替えようとしてはっと気づいた。
スマホがない。
ポケットにも、鞄の中にも。
背筋を冷たいものが伝い落ちた。
しまった。
机に仕掛けたまま、忘れてきてしまったのだ。
かばんをかけるフック。
5時限目の授業中、そこに私は、輪ゴムで縛ったスマホをひっかけておいたのだった。
隣の杏里を動画で撮るためである。
それが、ホームルームが長引いて焦ったせいで、うっかりそのままにしてきてしまったのである。
顔から音を立てて血の気が引くのが分かった。
あのスマホには、ただでさえ杏里の画像が何枚も保存してあるのだ。
杏里が梶井に犯されかけている、きのうのあのエロチックなシーンさえも。
誰かに見つかったら、と思うと気が気でなかった。
いや、それ以上に、杏里に見られでもしたら…。
制服のまま庭に飛び出すと、太郎を檻から出した。
「太郎、行こう。学校まで駆けっこだよ」
綱を引いて、私は転がるように足り出した。
私たちは例によって、屋上に居を構えていた。
教室には、授業時以外、とても居られたものではなかった。
杏里を包囲する”熱”みたいなものが、日に日に高まっているのだ。
少しでも長居をすると臨界点に達してしまいそうな、そんな獣じみたムードが教室中に充満しているのだった。
誰もが杏里の一挙一動を目で追っていた。
トイレや教室の移動で杏里が席を立つたびに、全員の視線が、杏里の胸を、太腿を、スカートから覗く下着を追尾して動くのである。
ただ、不思議なことに梶井だけは別だった。
抜け駆けして杏里を襲い、返り討ちに遭ったのがよほど応えたのか、一日経ったきょうも、梶井は相変わらず虚脱状態のままだった。
そう、まるで杏里に、生のエキスと一緒に魂まで吸い取られてしまったかのように…。
青空の下に、煙ったような低い山並みが見える。
その下を銀の鱗を光らせて川を泳ぐ魚みたいに、音もなく列車が通っていく。
日本中どこにでもあるような、のどかな地方都市の風景。
そんな見慣れた景色を眺めながら、私は杏里に例の提案を話してみた。
「いいね」
と、予想通り、帰ってきたのはさわやかな笑顔だった。
「駅前のショッピングセンター、今月からリニューアルオープンしたんだよ。いろんな専門店があるし、ゲームセンターも映画館もあるんだ。私ひとりじゃ、ちょっと行く勇気なかったんだけど、杏里も一緒なら楽しいと思う」
勢い込んで私は言った。
こういう場合、週末に家族と出かけるのが普通かなのしれない。
だが、うちに限ってそうはいかないのだ。
体重150キロの母と一緒にショッピングなど、まずありえないシチュエーションだからである。
「どうやって行くの? 自転車?」
杏里が小首をかしげて訊いてくる。
「ううん。バスがいいと思う。私んちと駅の間に杏里の家があるから、時間合わせれば一緒の路線に乗れるよ。私、杏里の分も席取っておいてあげる」
きのう聞いておいた杏里の家の所在地を思い浮かべながら、私は答えた。
杏里は例の養父とふたりで、目抜き通り沿いに建つ賃貸マンションに越してきたのである。
「バスかあ」
杏里の眉間に、かすかにだが、縦皺が寄った。
「どうしたの? バスに酔いやすいとか?」
「そうじゃなくて。バスに限らず、私、ちょっと人混みが苦手なの。でも、いいよ。よどみが一緒なら」
「わあ、ほんと! ありがとう」
私は杏里の手を取ってはしゃいだ声をあげた。
自分の口からこんな明るい声が出るなんて、初めて知る思いだった。
「おいしいもの、いっぱい食べようね。こんな粗食じゃなくてさ」
私は杏里の手元にある弁当箱を顎でしゃくってみせた。
もちろん私の自家製弁当である。
「よどみのお弁当は、私にとっては十分ごちそうだけど」
杏里が真顔で言う。
「でも、おいしいデザートとかなら、ありかもね」
「でしょ? あ、それから、明日、写メたくさん撮らせてもらっていい? 私服の杏里、きっと可愛いよね。なんか、今から私、どきどきしてるんだけど」
「かまわないけど…あんまり、期待しないでよね」
杏里が苦笑した。
その笑顔に触れたとたんである。
私は、ひとついたずらを思いついて、心の中で舌を出した。
そうだ。
その手がある。
明日まで待てない。
杏里には悪いけど、あとでちょっと試してみよう。
その日は、それで終わりだった。
うちのクラスは、列ごとに掃除当番が回ってくる。
きょうは、杏里の列だった。
仕方なく、掃除当番の杏里を教室に残して、私は廊下に飛び出した。
ホームルームが長引いたせいで、太郎の散歩の時間が迫っていた。
残してきた杏里のことが少し気がかりだったけど、遅れて母の逆鱗に触れるほうが怖かった。
いったん太郎がうなり出したら、母は一気に不機嫌になるに決まっている。
そうなったら最後、いつまでも次の生贄を連れてこない私を、責めて責めて責めまくるに違いない。
が、幸い、ぜいぜい息を切らして前庭に駆け込むと、太郎は大人しく私を待ってくれていた。
「ごめんね、太郎。遅くなっちゃって」
頭をなで、水と餌を用意すると、足音を忍ばせて勝手口から家に入った。
「よどみかい? 太郎の散歩、忘れてないだろうね」
茶の間から野太い母の声。
またどうせ、ポテチでも食べながらテレビを見ているのだろう。
「うん、だから早く帰ってきた」
「感心だね。その調子でそろそろ、次のおもちゃ、頼むよ」
「わかってる」
母の後ろをそっと通り抜け、自分の部屋に入った。
ベッドのわきに荷物を置き、着替えようとしてはっと気づいた。
スマホがない。
ポケットにも、鞄の中にも。
背筋を冷たいものが伝い落ちた。
しまった。
机に仕掛けたまま、忘れてきてしまったのだ。
かばんをかけるフック。
5時限目の授業中、そこに私は、輪ゴムで縛ったスマホをひっかけておいたのだった。
隣の杏里を動画で撮るためである。
それが、ホームルームが長引いて焦ったせいで、うっかりそのままにしてきてしまったのである。
顔から音を立てて血の気が引くのが分かった。
あのスマホには、ただでさえ杏里の画像が何枚も保存してあるのだ。
杏里が梶井に犯されかけている、きのうのあのエロチックなシーンさえも。
誰かに見つかったら、と思うと気が気でなかった。
いや、それ以上に、杏里に見られでもしたら…。
制服のまま庭に飛び出すと、太郎を檻から出した。
「太郎、行こう。学校まで駆けっこだよ」
綱を引いて、私は転がるように足り出した。
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