真冬の逃げ水 Mirage d'hiver

つこさん。

文字の大きさ
15 / 38
第三章 内なる葛藤

第15話 愛情 affection

しおりを挟む
 おでこにひんやりとした心地よいなにかを感じて目を開いたとき、その感触が消えていくのも感じた。遠ざかる指に金色の指輪が光る。追いかけそうになって、寝ぼけていると気づいてやめた。僕は寮の自分の部屋のベッドへ横になっていて、傍らにはレヴィ氏がいる。

「起こしちゃったわね。気分はどう?」

 深呼吸をして、一度目を閉じて、ゆっくりと起き上がる。そして座ったまま少しの間前傾姿勢でいた。制服じゃなくて、寝間着を穿いているのに気づいた。レヴィ氏はなにも言わなくて、僕もなにを言っていいかわからなくて、静かな時間がただ過ぎた。べつに嫌な気がするものではなかったから、いいんだけど。
 僕は「だいじょうぶです」と言った。自分の声なのにちょっと遠くから聞こえたように感じる。

「ごめんね、寝てる間に着替えさせちゃったわよ。ズボンだけ。汚れていたから、洗いに出したわ」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして! いちおう拭ったけど、手は洗ってちょうだいね」
「はい」

 僕は立ち上がって部屋にある小さな洗面台へ行った。左手はまだクラヴァット・リボンを握っていて、僕はなにもなかったと自分へ言い聞かせながら手といっしょにそれも洗った。オリヴィエ兄さんがくれた、清潔な香りの高級石けんで。僕は無言で、レヴィ氏はやっぱりなにも言わなくて、握って搾ったリボンは頼りなく思えた。蛇口にかけて干そうとしたけれど、垂れ下がるそれを見て、どきりとしてやめる。……なにかを吊るすみたいで。文机の上に広げて置いておこうとタオルで手を拭ったら、手紙があるのを見つけた。

「緊急通信よ。さっき届いたの。ご両親から」

 驚いて、僕はベッドに腰掛けたレヴィ氏を見る。手紙じゃなく、国有会社で運営している腕木通信での緊急連絡なんて、本当に火急の用事のときだけだ。僕がマディア公爵領にいたとき、内戦を停めるためにひんぱんに用いられていたことをよく知っている。なにかあったんだ。あわてて開封して内容を確認する。

『すぐにそちらへ向かう。心安らかに。』

 ……それだけだった。宛名は間違いなく僕で、本当にそれだけ。でも、状況から今の僕を心配しての文面なのはよくわかった。だから、振り向いてレヴィ氏を睨み「報せたんですか」と僕は聞いた。自分でも驚くくらい棘のある声だった。

「んーん、僕はなにも! お兄さんからなにか行ったんじゃないかしら」
「兄さんには? 今日のことを?」
「ぜんぜん! レオンくんに呼ばれてから、ずっとここにいたもの」

 レヴィ氏はおどけた表情で右手の拳を心臓あたりに当て、誓いのしぐさをする。なに伝えたんだよ、オリヴィエ兄さん。たしかに、剣の講師を呼んでほしいとはお願いしたけれど。
 少しうなだれて僕は首を振った。心臓がうるさく跳ねている。こんな、自分で自分が不安定だとわかる状態で親に会いたくなかった。弱い人間だと思われたくなかった。……ちゃんと笑顔を作れるか不安だった。

「――心配されているんでしょう? 親御さん」

 とても優しい声だったから、僕はレヴィ氏の方を向けなかった。下を向いたまま「たぶん」とつぶやくと、レヴィ氏は「愛されているわね」と同じ声で言った。やけに現実感のない響きを持ってその言葉が迫ってくる。

「あなたは、とても多くの人に愛されているわよ、テオフィルくん。ご両親に、お兄さんに、ソノコちゃん。家族みんなから。それにレオンくん」

 なんでレオンがそこに入るんだよ。僕は通信をノートに挟んで、文机に立てかけた。レヴィ氏は「もちろん僕もよお!」と言う。無視した。
 こんな状況で、こんな状態の、僕が愛されているなんてあり得ない。
 愛されてるってなんだよ。僕だって、ブリアック兄さんを愛していた。それとどう違うんだよ。
 違うのか? だから僕は苦しいの? どうしたらいいんだ。意味がわからない。

 僕は今朝のことを考えた。あまり考えない方がいいというのはわかる。でも考えてしまうんだ。数時間経った今、思い出せるのは棺の中のブリアック兄さんだけではない。ちゃんと笑顔の兄さんだって。――けれど、意識しないでいると、クラヴァットの緑があざやかに目の前に広がる。
 今さら、自分のことを偽るつもりはない。レヴィ氏の論文の内容は、概要を空で言えるし、理解もした。僕は、傷ついている。

 でも、泣けないんだ。オリヴィエ兄さんみたいに、ブリアック兄さんを思い出しても泣けないんだ。泣きたいはずなのに。僕も泣きたいはずなのに。まぶたの裏にはきっと僕にだって、ブリアック兄さんのための涙があるはずなのに。
 母さんは少しの時間、部屋へひとりでこもって歌劇の円盤を蓄音機でかけた。父さんは半日、山登りへ行った。ちゃんとみんな、ブリアック兄さんのために泣いたんだ。僕だけがそれをできない。いまだに。出てもいない涙が枯れてしまったの?

 愛されてるってなんだよ。愛ってなんだよ。よくわかんないよ。必要ないんじゃないか? だからわからないんじゃないか? じゃあなんで苦しいんだ? 僕はどうしたらいいんだ。
 ブリアック兄さんを愛していないから、僕は泣けないんだろうか。

 みんなはきっと、僕も泣いたと思っている。僕だけが出来損ないだ。悲しいはずなのに、悲しいって表現できない。愛してるって思い込みながら愛がわからない。バカみたいだ。きっと僕はどこか欠けている。だからよくわかんないんだろう。
 僕は、あの家の中でひとりだ。僕だけが、泣くことさえできない。出来損ないだ。

「――みんな、心配しているのよ。あなたのことを」

 レヴィ氏がもう一度、僕をじっとみつめて言った。僕は心が冷えて、小さな声で「出来損ないだから?」と言った。即座に茶化さない真面目な早口で「なんてことを言うの。だれもそんなこと思ってないわよ」と返って来た。そのとき僕は、レヴィ氏を見れなかった。
 ふさわしい言葉も思いつかなくて、目を泳がせたら、本棚に置いた借りっぱなしの論文の本が目に入った。そろそろ返さなきゃと思う。なので、その場をごまかすみたいに「本、ありがとうございました。返します」と歩み寄り手を伸ばしたら、レヴィ氏が「あらあ、いやだ!」と言う。

「そんな重たい本、僕、持ち歩けないわあ。テオくんが部屋まで持ってきてよ」

 それはさっきとは違ういつもの彼の声で、ほっとする。息が楽になった。一拍後に僕は「……自分が気色悪いこと言ってる自覚あります?」といつもの調子で返した。

「ひどーい! 年長者を労ってくれたっていいじゃない! じゃあお部屋で待ってるねー。ちなみに、今午前二授業が始まったばっかり」

 今移動すれば、だれとも会わないって言いたいんだろう。レヴィ氏は、あのいつもの苦いお茶の甘い香りをかすかに残して、さっさと部屋を出て行ってしまった。
 僕は盛大にため息をついて、もう一度ベッドに沈む。心は疲れ切っているのに体に眠気はまるでなくて、布団は僕の意識を持って行ってくれない。

 洗った手から、清潔なオリヴィエ兄さんの匂いがする。要領のいい立ち回りを真似て来たつもりだけれど、外付けの香りくらいしか身につかなかった。背伸びしたところでまだ、あの丈の高さに届かない。――僕には、遠い。伸ばした手が、まだ届かない。
 いつか、届くことがあるんだろうか。それは途方もなかった。

 レヴィ氏の茶が飲みたいな、と思う。しばらくそのままぼーっとして、いろいろ考えて、でもなにもまとまらなかった。まぶたの裏にあの緑色がちらつくから、目を閉じるのが怖い。愛ってなんだろう。どうして泣けないんだろう。
 ――親が来る前に、この状況をどうにかしなければならないと思う。ため息の数ばかりが増えて行く。
 起き上がって着替えてから、僕は分厚い本を手に取った。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

思いを込めてあなたに贈る

あんど もあ
ファンタジー
ファナの母が亡くなった二ヶ月後に、父は新しい妻とその妻との間に生まれた赤ん坊を家に連れて来た。義母は、お前はもうこの家の後継者では無いと母から受け継いだ家宝のネックレスを奪うが、そのネックレスは……。

はじめまして、私の知らない婚約者様

有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。 見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。 けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。 ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。 けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。 この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。 悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに? ※他サイトにも掲載しています。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

処理中です...