真冬の逃げ水 Mirage d'hiver

つこさん。

文字の大きさ
16 / 38
第四章 家族の絆

第16話 打鍵 jouer

しおりを挟む
 ラスタラン連峰の山影が朝日に染まって扇状地や平野を飾る。僕の故郷、アウスリゼの北東部にあるグラス侯爵領は、そんな自然に囲まれた土地だ。今僕がいる首都ルミエラから領都ディルゼーへは、蒸気機関車で約五日の道のりの場所だった。
 確かに美しい場所なんだ。でも、僕にとっては自分の置かれた状況を思い出させる地でもある。地位も名誉もある評判の良い両親。それに大きすぎる手本である兄たち。小さなころはその重みを理解していなかった。でも今は違う。僕の姓がボーヴォワールであることを、窮屈に感じ始めている。僕がその名にふさわしいか、つい考えてしまう。
 僕は僕のことが嫌いなんだと思う。これまで考えたこともなかったけれど。考えずに済んでいたのが不思議なくらい、今はそれを強烈に感じている。両親の期待を背負う自分。兄たちの足跡に追いつけない自分。そして、それでも自分を変えられない。それらが、きっと嫌なんだ。そのことに愛だとか劣等感だとか、難しい名前をつける必要なんかなくて、ただ、僕は僕が嫌い。それだけ。
 明解なのに割り切れない気持ちでいるのにも理由があるんだろう。でもそれを追求する気力がなくてすべて宙ぶらりんだった。破れかぶれな気分で、それでいいやって思っている。
 両親が来るのだと言う。庭師と剣の講師を派遣してくれって頼んだだけだと思ったのに、いったいオリヴィエ兄さんはなにを伝えたんだろう。どんなに急いでも週末になるけれど、それまでに僕は、何事もなかったふりの笑顔を思い出さなければならない。

 表面を作るのは、わりと簡単だった。すぐに慣れた。日常に戻れた錯覚。なるべく教室でもそうするようにしていたら、あいさつをしてくるヤツが増えた。

「テオ、最近調子がいいのかい?」

 レオンが探るような目で僕を見た。僕は笑顔で「そうかもね」と言った。

 音楽の授業もあった。あの女性教師ではなく中年の男性教師になっていた。興味がなくて、どういう経緯なのかはだれにも尋ねなかった。彼は僕に目もくれなかったし、周囲がどう思っていようが、僕は僕のままだ。

 以前約束したように、レヴィ氏の、この学校での実績作りのために毎日顔を合わせている。午後、ただあの部屋に行って、他愛のない話をしたりしなかったり、いっしょに時を過ごしているだけなんだけど。ときどきキリッとした顔で「心理相談していい?」って言われるから、そのときはちょっとだけ真面目に受け答えするくらいかな。
 僕はオルガンを弾くようになった。レヴィ氏の鼻歌の曲とか、猫を踏んでしまった曲とか。あるとき、オルガンの椅子に座った僕へ、レヴィ氏が言った。

「好きなように弾いてみたら?」

 部屋の中は静けさと、苦い茶の甘い香りで満ちていた。風が強くて、時々思い出したように窓を叩く。僕は「好きなようにって、どう?」と尋ねた。

「曲にならなくてもいいのよ。好きな鍵盤を押して、いいなと思う音を出してみればいいの。気分転換になるわよ」

 そう言われて、僕はオルガンの鍵盤を見下ろした。窓がガタンと大きく鳴った。特別なにかを考えていたわけではないけれど、少しの時間沈黙が部屋に落ちて、僕は左手の人差し指で白い部分を押した。低いラだった。
 何度か、同じところを押す。
 指先が鍵盤へ触れるたびに、響く音が部屋に広がる。低いラの音が空間を揺らし、風が窓を叩く音と混ざり合った。その音の中で、僕の中のなにかが、少しずつ、解けていく。
 左手で低いラを押し、右手でそれに続けた。ラ、#ソ、ラ、#ソ。重いけれど、ピアノとは違うどこか愛嬌のある音。レヴィ氏みたいだなって思った。
 低いラの音は、初冬の夕に響く鐘のようだった。それが部屋の中を包み込み、次第に他の音が重なり合って、小さな世界を作り上げる。
 なにか考えがあって弾いたわけではない。もちろんりっぱな曲になんかならない。それでも僕は不思議な気持ちで、僕によって鳴らされる鍵盤を見ていた。しばらくそうしていた。窓がガタガタと鳴って、それに合わせて押したりもした。強弱をつけて。抑揚をつけて。韻律をつけて。
 なんとなく、コツをつかめた気がして、音楽みたいのを弾いてみようと思った。オルガンの楽譜なんか見たことがないし、ちゃんと弾けるのは二曲だけ。でもどの鍵盤がどの音を出すのかはわかるから。
 名前のない曲を作った。もう二度と弾けないけれど。低く静かに始まって、単純な音の連なり。ときどき高い音を入れる。ゆっくりと。少しずつ大きく。またゆっくり。そして連弾。強く。強く。強く。音が部屋に広がり、風の音と混ざり合う。
 手を離した。何拍かのち、もう一度鍵盤へ両手を添える。指でなぞった鍵盤は軽くて、力を入れなくても音を鳴らす。弱く。弱く。弱く。とても弱く。弱く。弱く。
 そして、最後に強く、ひとつ。

 終わり。弾いている間、僕はなにも考えていなかったように思う。ただ手が動いた。体が音を迎え入れて反応した。それが少し驚きで、なぜかほっとする。レヴィ氏が背後で拍手した。

「すごいわねえ。即興でこんな風に弾けるなんて。作曲の才能あるかもね?」

 感心した口ぶりで、本当にそう思っていそうだった。レヴィ氏は「沸かし直すわ。もう一度お茶しましょう?」と言った。オルガンのふたを閉じて、ソファへ移動した。止まっていた風がまた突然窓を叩きつける。アルコールランプで沸き上がる湯が、こぽこぽと小さな音を立てた。

「きっとねえ、さっきの曲は、テオくんの心の中を表現したものじゃない?」

 茶を淹れながらレヴィ氏が言う。僕はその横顔を見上げた。その表情は穏やかで、茶化すつもりで言っているわけじゃないと理解できた。

「――強い部分、弱い部分、穏やかな部分、そして急いている部分に悲しげな部分。テオくんの曲には、いろんな感情が詰まっている。喜びも、悲しみも、強さも弱さもね」

 カップを差し出されて、僕は受け取った。甘い香りが鼻腔をくすぐる。口に含むと苦い味がする。
 僕は自分がどんな音を作ったかを思い出す。ラ、#ソ、ラ、#ソ、それに両手で。また片手で。

「でも、そういういろいろな感情があるからこそ、人間らしくて素敵だと思うわ」

 その言葉に、びっくりした。たくさんの鍵盤を押した。そのすべてが、ふさわしいと僕が感じた音だった。それが僕の感情の表現だとしたら、僕の中は本当に色づいた音にあふれている。
 混乱していて、ちょっとよくわからなかったんだ。僕はどんなヤツか。ただ、僕は僕のことが嫌いだというどうしようもない気持ちの自覚だけが強くて、それがなぜかとか、どこがとか考えられもしなかった。
 あの音すべてが僕なのだとしたら、僕は、僕のなにが嫌なんだろう。
 強いところかな。弱いところかな。それとも、緩やかに消えていく#ファの音かな。

「明日も、オルガン弾いてもいい?」

 気づいたら、そうレヴィ氏へ尋ねていた。レヴィ氏は茶を飲みながら「もちろんよお」と、のんびりと言った。

「自分で刻む音楽は、心をそのまま映し出すものだと思うわ。弾いて、どんな気持ちだったか少しでも振り返られるなら、それはすばらしいことよ」

 レヴィ氏が医者っぽいことを言った。ときどきこうやって自己主張するんだ。そして、またいつもの鼻歌を歌った。

 僕が嫌いな僕は、身勝手な思い込みについてかもしれない。あるいは、僕の中の弱さかもしれない。でも、鍵盤を押すたびに、その弱さがひとつの音になるなら、少しだけ自分を許せる気がしたんだ。
 嫌いな僕は、どの音だろう。両親が来るまでに、僕はその音を受け入れられるだろうか。オルガンをじっとみつめ、僕が次に紡ぐ音はなにかを想像する。
 レヴィ氏が鼻歌のまま、机の上の書類に向かう。僕の弾いた音が僕の心だとするならば、その歌はレヴィ氏の心を映し出しているんだろうか。独身であるはずの、彼の左手の人差し指に光る指輪が、たえず僕へなにかを訴えかけている。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました

佐倉穂波
恋愛
 転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。  確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。 (そんな……死にたくないっ!)  乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。 2023.9.3 投稿分の改稿終了。 2023.9.4 表紙を作ってみました。 2023.9.15 完結。 2023.9.23 後日談を投稿しました。

40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです

カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
部長に傷つけられ続けた私 とうとうキレてしまいました なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが 飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした…… スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

黒騎士団の娼婦

イシュタル
恋愛
夫を亡くし、義弟に家から追い出された元男爵夫人・ヨシノ。 異邦から迷い込んだ彼女に残されたのは、幼い息子への想いと、泥にまみれた誇りだけだった。 頼るあてもなく辿り着いたのは──「気味が悪い」と忌まれる黒騎士団の屯所。 煤けた鎧、無骨な団長、そして人との距離を忘れた男たち。 誰も寄りつかぬ彼らに、ヨシノは微笑み、こう言った。 「部屋が汚すぎて眠れませんでした。私を雇ってください」 ※本作はAIとの共同制作作品です。 ※史実・実在団体・宗教などとは一切関係ありません。戦闘シーンがあります。

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さくら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

冷徹公爵の誤解された花嫁

柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。 冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。 一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。

【本編完結】転生したら第6皇子冷遇されながらも力をつける

そう
ファンタジー
転生したら帝国の第6皇子だったけど周りの人たちに冷遇されながらも生きて行く話です

処理中です...