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王都ルミエラ編
26話 興味深い女性だった
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「明日、宰相殿の講演聴きに行くらしいっす」
スパイ容疑のある異国人女性に張りつかせていた諜報員が、実に面白くなさそうに報告した。どういうことか。説明を求めると、どうやら交通局員として経団連フォーラムに一般参加するらしい。その上、どうやら目的は私の講演のようだ。
「なぜ?」
「さぁ? 宰相殿のファンなんじゃないっすか。以上です。じゃあ風呂借りますねー」
以前はそんなことはなかったのだが、彼女につけてからというもの、この諜報員は私の私室の風呂を使っていくようになった。
減るものではないし特に問題はないのだが、以前理由を尋ねたら「ソノコ、あんた並みに綺麗好きなんですよ。暇さえあれば風呂に入りに行く」とぼやいた。ターゲットに自分を合わせているのだろう。仕事熱心で良いことだ。
経団連フォーラムへ来ることにどういう意図があるのかまるで読めないが、現段階では当該女性自身について危険な要素はないという情報しか上がってこない。頭に入っている講演内容にも機密事項はなんら含まれていないため、諜報員をつけたまま泳がせることにした。
当日、彼女は群衆に紛れ込もうとすることもなく、実に堂々と最前列に姿を表した。私が見ても泰然としたもので、ずっとこちらを見たまま、ただノートになにかを書き付けている。講演中折々に視線の端で確認しても、その姿勢は一切ぶれることなくそのままであった。その上、私の話の内容に呼応するかのように何度もうなずいている。その様子に、面には出さずただ困惑した。
その上、講演が終わるころには泣いていた。その事実にも驚いたが、彼女に対する見方が一変したのは、フォーラムの終盤だった。
私の友人でもあり、アウスリゼにおいて並ぶもののない商社である『リュクレース』のオーナー、シリル・フォール氏が述べた「もしかして外国の方かい?」という問い。「はい、そうです」と響いた、高すぎない澄んだ変声期前の少年のような声。
それに続いた「あなたにとって、アウスリゼとはどんな国?」という漠然としながら内面を探る質問へ、彼女は拙い言葉を繰りつつも懸命に答えた。
「――美しい国です。とても。それぞれの人が、それぞれの立場で、必死に生きていて。富んでいる人も、貧しい人もいます」
必死に告げられるそれらの言葉は、私の中に幾重もの層になっていた警戒心をいくらか……いや、その大部分を融かした。本心から出た言葉であろうことは、その場に居た者すべてが感じたことだろう。これが演技だと言うならば、彼女に突然質問したフォール氏のことも疑わなければならない。そんな疑問は湧かなかった。少し震える声は、確信を持って我が心アウスリゼへの愛を語っていて、私はそれを信じるに足る、と感じたのだ。
昼餐の席でも、彼女は自らのことよりも赤の他人の心配をして、それらの福祉が満たされることを望んでいた。この女性はなんなのだろう。一体何者で、異国の人でありながらなぜここまで深くアウスリゼを愛しているのだろう。
私の講演内容を、私が込めた願いを、あそこまで深く感じ入って聴いてくれた者が他にあっただろうか。いや、演壇上から見えたのは、早く終わってほしいと願っていそうな顔ばかりだった。眠っている者が視界に入らなかったのは僥倖で、真剣に聴いている者など新聞社の速記者くらいのものだったと思う。
講演が失敗だったとも無駄だったとも思わないが、それでもこの度の私の言葉は、異国の女性がその全身で受け止めてくれた以上に、自国の民に届いたという手応えはなかったというのが実情だった。
午後からの交流会では、彼女がアウスリゼへ向ける情愛以上の熱はなかった。私欲や自分の益のため私に取り入りたい者ばかりで、辟易する。これまではそういうもの、と特段疑問にも思わなかったのに、彼女の言葉にあてられた私は愚かだ。
早々に引きあげて、私は通常業務に戻った。若年労働者の現状を把握するように秘書に申し付けて。
「オリヴィエ、素敵な講演会だったらしいじゃないか」
リシャール殿下が夕方に内務省内の私の執務室へといらした。諜報員から報告が行ったのだろう。その瞳はどこか楽しげだ。
「思わぬ状況ではありましたが、つつがなく終わりましたよ」
「で、君の見立てでは、『ソノコ・ミタ』は真っ白な人間なんだ? ――こんな書類作っちゃうくらいに」
私の手元の書類束に指を走らせておっしゃる。可否を仰ぎに行くところであったからちょうどいい。
「移民査証ねえ……まあ落とし所としてはいいんじゃないかな」
「我が国には大使館がない遠方の小国なのでしょう。どこに預けるわけにもいかないので、私が法務省へ提出します」
「おお、宰相自ら。入れ込んだねえ。君ああいう感じが好きなんだ? 女っ気ないと思ったら、そうか、そうか」
「誤解されませんよう。あなたの『友人』としてふさわしい待遇にしようというだけです」
「あー、心配しなくていい。たしかにお人形みたいにかわいいけどね。僕はもうちょっと凹凸ある方がいいんだ」
「そのような話ではありませんよ」
ため息をつくとリシャール殿下は笑った。
「わかってる。君が私情でそんなことをするわけがない」
興味を失ったようにふらりと戸口へ向かうと、振り返り「ジルはどうする? 引き揚げる?」と思い出したように述べる。
「そうですね――そのままで」
得体の知れない、注意人物であることには変わりない。
スパイ容疑のある異国人女性に張りつかせていた諜報員が、実に面白くなさそうに報告した。どういうことか。説明を求めると、どうやら交通局員として経団連フォーラムに一般参加するらしい。その上、どうやら目的は私の講演のようだ。
「なぜ?」
「さぁ? 宰相殿のファンなんじゃないっすか。以上です。じゃあ風呂借りますねー」
以前はそんなことはなかったのだが、彼女につけてからというもの、この諜報員は私の私室の風呂を使っていくようになった。
減るものではないし特に問題はないのだが、以前理由を尋ねたら「ソノコ、あんた並みに綺麗好きなんですよ。暇さえあれば風呂に入りに行く」とぼやいた。ターゲットに自分を合わせているのだろう。仕事熱心で良いことだ。
経団連フォーラムへ来ることにどういう意図があるのかまるで読めないが、現段階では当該女性自身について危険な要素はないという情報しか上がってこない。頭に入っている講演内容にも機密事項はなんら含まれていないため、諜報員をつけたまま泳がせることにした。
当日、彼女は群衆に紛れ込もうとすることもなく、実に堂々と最前列に姿を表した。私が見ても泰然としたもので、ずっとこちらを見たまま、ただノートになにかを書き付けている。講演中折々に視線の端で確認しても、その姿勢は一切ぶれることなくそのままであった。その上、私の話の内容に呼応するかのように何度もうなずいている。その様子に、面には出さずただ困惑した。
その上、講演が終わるころには泣いていた。その事実にも驚いたが、彼女に対する見方が一変したのは、フォーラムの終盤だった。
私の友人でもあり、アウスリゼにおいて並ぶもののない商社である『リュクレース』のオーナー、シリル・フォール氏が述べた「もしかして外国の方かい?」という問い。「はい、そうです」と響いた、高すぎない澄んだ変声期前の少年のような声。
それに続いた「あなたにとって、アウスリゼとはどんな国?」という漠然としながら内面を探る質問へ、彼女は拙い言葉を繰りつつも懸命に答えた。
「――美しい国です。とても。それぞれの人が、それぞれの立場で、必死に生きていて。富んでいる人も、貧しい人もいます」
必死に告げられるそれらの言葉は、私の中に幾重もの層になっていた警戒心をいくらか……いや、その大部分を融かした。本心から出た言葉であろうことは、その場に居た者すべてが感じたことだろう。これが演技だと言うならば、彼女に突然質問したフォール氏のことも疑わなければならない。そんな疑問は湧かなかった。少し震える声は、確信を持って我が心アウスリゼへの愛を語っていて、私はそれを信じるに足る、と感じたのだ。
昼餐の席でも、彼女は自らのことよりも赤の他人の心配をして、それらの福祉が満たされることを望んでいた。この女性はなんなのだろう。一体何者で、異国の人でありながらなぜここまで深くアウスリゼを愛しているのだろう。
私の講演内容を、私が込めた願いを、あそこまで深く感じ入って聴いてくれた者が他にあっただろうか。いや、演壇上から見えたのは、早く終わってほしいと願っていそうな顔ばかりだった。眠っている者が視界に入らなかったのは僥倖で、真剣に聴いている者など新聞社の速記者くらいのものだったと思う。
講演が失敗だったとも無駄だったとも思わないが、それでもこの度の私の言葉は、異国の女性がその全身で受け止めてくれた以上に、自国の民に届いたという手応えはなかったというのが実情だった。
午後からの交流会では、彼女がアウスリゼへ向ける情愛以上の熱はなかった。私欲や自分の益のため私に取り入りたい者ばかりで、辟易する。これまではそういうもの、と特段疑問にも思わなかったのに、彼女の言葉にあてられた私は愚かだ。
早々に引きあげて、私は通常業務に戻った。若年労働者の現状を把握するように秘書に申し付けて。
「オリヴィエ、素敵な講演会だったらしいじゃないか」
リシャール殿下が夕方に内務省内の私の執務室へといらした。諜報員から報告が行ったのだろう。その瞳はどこか楽しげだ。
「思わぬ状況ではありましたが、つつがなく終わりましたよ」
「で、君の見立てでは、『ソノコ・ミタ』は真っ白な人間なんだ? ――こんな書類作っちゃうくらいに」
私の手元の書類束に指を走らせておっしゃる。可否を仰ぎに行くところであったからちょうどいい。
「移民査証ねえ……まあ落とし所としてはいいんじゃないかな」
「我が国には大使館がない遠方の小国なのでしょう。どこに預けるわけにもいかないので、私が法務省へ提出します」
「おお、宰相自ら。入れ込んだねえ。君ああいう感じが好きなんだ? 女っ気ないと思ったら、そうか、そうか」
「誤解されませんよう。あなたの『友人』としてふさわしい待遇にしようというだけです」
「あー、心配しなくていい。たしかにお人形みたいにかわいいけどね。僕はもうちょっと凹凸ある方がいいんだ」
「そのような話ではありませんよ」
ため息をつくとリシャール殿下は笑った。
「わかってる。君が私情でそんなことをするわけがない」
興味を失ったようにふらりと戸口へ向かうと、振り返り「ジルはどうする? 引き揚げる?」と思い出したように述べる。
「そうですね――そのままで」
得体の知れない、注意人物であることには変わりない。
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