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12:旅の終わり

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 マルチェロは船室で木の桶を抱えて、おえぇっと胃液を吐き出した。船に乗って2日。船酔いが酷くて、何も食べられず、胃液ばかりを吐いている。ビオンダが、げぇげぇ吐いているマルチェロの背中を優しく擦ってくれる。護衛として雇った男が船室に入って来て、マルチェロにライムを絞った水が入った瓶を持ってきてくれた。ビオンダがお礼を言って護衛の男から瓶を受け取り、ぐったりしているマルチェロに、少しずつ飲ませてくれる。ライムの爽やかな香りと微かな酸味で口の中がスッキリするが、それは一瞬で消え去り、込み上げてくる吐き気に抗えず、マルチェロはまた木の桶の中に胃液混じりの水を吐き出した。
 護衛に雇った人の好さそうな穏やかな顔立ちの巨漢が、困ったようにビオンダに声をかけた。


「旦那。弟さん、明日まで大丈夫かね」

「3日くらい食わなくても死なない。少しずつだが、一応水は飲んでるし、大丈夫……だと信じたい……」

「まさかここまで船に弱いとはな。旦那は平気か?」

「俺は少し気持ち悪いだけだ。飯が食える程度だから問題ない」

「ならいいが。船医に船酔いの薬をもう一度貰ってこよう。また吐くかもしれんが、気休めくらいにはなるだろ」

「すまん。助かる」

「いいさ。あと少しの付き合いだしな」


 護衛の男がニカッと笑って、船室から出ていった。マルチェロは船に乗った時からずっと続いている吐き気に、うんざりとした溜め息を吐いた。


「胃を取り出して丸洗いしてぇ」

「あと少しの辛抱だ」

「……うん」


 ビオンダが、マルチェロの髪が肩近くまで伸びた頭を優しく撫でてくれた。ビオンダに撫でられると、少しだけ気分がよくなる。吐き気は続いているが、ビオンダに励ましてもらえれば、あと少し頑張れそうな気がする。目的のカリム島まで、あと少しだ。

 夜逃げのように王都を出たマルチェロ達は、乗合馬車に乗って、王都から三つ離れた大きな街で、護衛を雇うことにした。乗合馬車で一緒になった行商をしている男から、カリム島まで行くのなら護衛を雇った方がいいと勧められたからだ。カリム島までは、王都からなら半年はかかる。途中、治安が悪い領地を通らなくてはいけないらしい。それでなくても、旅なんかしたことがない2人だ。旅慣れた冒険者を雇って、カリム島まで護衛してもらう方が、より安全だ。

 マルチェロ達は街にあった冒険者ギルドに行き、タイミングよく、故郷に帰るというカリム島出身の巨漢、ダラスを雇うことができた。ダラスは今年で35になるそうで、冒険者を引退して、故郷で家業を継ぐことにしたらしい。ダラスは、身体は大きくて筋骨隆々としているが、顔立ちは穏やかで優しい感じである。背が高い方のマルチェロよりも頭半分くらい背が高いが、雰囲気が冒険者とは思えない程柔らかいからか、威圧感はない。腕っぷしは確かで、16からずっと冒険者として旅暮らしをしているから、経験豊富である。マルチェロ達はダラスに大いに助けられながら、半年ちょっとかけて、カリム島へ向かう船が出る港がある小さな町に辿り着いた。

 ダラスを雇った頃には、ちょうど夫人が王都の屋敷に戻る頃合いになっていた。単なる情夫の1人に過ぎないマルチェロはともかく、お気に入りの絵師だったビオンダがいなくなっていて、さぞお怒りのことだろう。マルチェロは、劇団長や変態貴族からの追手と、夫人からの追手の両方に怯えながら、慣れない旅を頑張っていた。マルチェロがずっと怯えているのが分かったのか、寝る時はいつも、ビオンダが一緒に寝てくれた。手を繋いでくれて、マルチェロの背中を優しく擦って、寝る前に小さく『大丈夫だ』と言ってくれた。ビオンダの機転のお陰で、マルチェロは目立たずに済んでいる。基本的には顔を薄布で隠して、顔を見られたとしても、毎日ビオンダが描いてくれる火傷の痕のお陰で、同情されるだけで済んでいる。ダラスには、一緒に旅に出てから、簡単に事情は話してある。寝食を共にする以上、ある程度の事情を話しておかないと、色々と不都合があるからだ。ダラスはマルチェロに同情して、『島に着くまでは俺に任せとけ』と胸を叩いてくれた。ダラスは、腕は立つが、とても優しい男だった。人の縁の巡り合わせに感謝するしかない。ダラスのお陰で、なんとか無事にカリム島に着けそうである。

 酷い船酔いに辟易しながら船に揺られること3日。夕方頃に、漸く船がカリム島に到着した。マルチェロは、ぐったりとダラスに背負われて船を降りた。


「俺の家は冒険者向けの宿屋をやってんだ。冒険者以外も泊まれるから、うちに泊まるか?」

「そうさせてもらえるとありがたい。数日は、マルチェロを休ませたい」

「そうした方がいいぜ。船に乗ってから、ろくに水も食い物も口にできなかったからな」

「最後の最後まで、本当に助かる。報酬はアンタの家の宿に着いてから渡す」

「おう。こっちとしても、帰りに稼げて助かったわ。素直に言う事聞いてくれる護衛対象だったしな。お陰で楽だったわ」


 ビオンダとダラスが話しているのを聞きながら、マルチェロはダラスに背負われたまま、ダラスの家の宿屋へと向かった。金は、マルチェロもビオンダもそれなりに貯め込んでいた。特に夫人から貰えるお小遣いが、いつも破格の値段だったので、結構な額が貯まっていた。ビオンダもそうだったようで、お陰で護衛も雇えたし、旅費もなんとか足りた。護衛の報酬を払ったら、できるだけ急いで仕事を見つけなければいけないくらい懐が寂しくなるが、無事にカリム島まで辿り着けたのだから何よりである。ビオンダには感謝してもしきれない。ずっとマルチェロと一緒にいてくれて、怯えるマルチェロを励ましてくれていた。ビオンダがいなかったらと考えるだけで、怖くて動けなくなる程、マルチェロはビオンダに依存している自分に気づいている。

 マルチェロは逞しいダラスの背中に身体を預けたまま、ダラスの家の宿屋に入り、部屋に連れて行ってもらって、ベッドに寝かせてもらうなり、意識を飛ばした。

 マルチェロが目覚めると、すぐ隣にビオンダがいて、小さく鼾をかきながら、ぐっすり寝ていた。ベッドの近くにある窓を見れば、カーテンの隙間の向こうはうっすら明るくなっていた。どうやら自分は、ほぼ一晩寝ていたらしい。船酔いで3日もろくに何も食べていない。目的地のカリム島に無事到着して気が抜けたのか、なんだか、酷く身体が疲れて重い感じがする。それでも、気分は晴れやかだ。今はもう夏の真っ盛りだ。流石に、劇団長達も諦めたことだろう。これから、ビオンダとの新しい生活が始まるのかと思うと、ちょっとワクワクしてきた。ここでなら、ずっと憧れていた真っ当な仕事をして、ありふれた普通の生活ができそうだ。自分に何ができるのかは分からない。金は残り少ないし、まだ不安もあるのだが、ビオンダが一緒だから、きっとなんとかなる。
 マルチェロはこちらを向いて間抜けに涎を垂らして寝ているビオンダの顔をじっと見つめてから、ビオンダを起こさないように、ビオンダの唇にそっと触れるだけのキスをした。

 ビオンダは逞しくて強い。物理的な強さではなく、精神的な強さだ。多分、『精霊の悪戯』として生まれてきて、苦労を重ねてきたからかもしれない。ビオンダに比べたら、マルチェロなんて情けない程弱い。劇団長から、変態貴族に売ったと聞かされ、なんとか隙をみて逃げ出した時、頭の中に真っ先に思い浮かんだのは、ビオンダの顔だった。ビオンダなら助けてくれる。何故かは分からないが、マルチェロはそう思って、ビオンダの家に走った。実際、ビオンダはマルチェロを助けてくれた。変態貴族からも、不安しかなかった生活からも、マルチェロを救ってくれた。

 マルチェロは、温かいビオンダの身体をゆるく抱きしめて、慣れたビオンダの匂いを深く吸いこんで、小さく溜め息を吐いた。

 ビオンダが側にいてくれるのなら大丈夫だ。きっとなんとかなる。マルチェロはビオンダが自然と目覚めるまで、ずっと眠るビオンダの身体を抱きしめていた。


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