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3_side H

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 初めて熱田の店に行ってから、早くも二ヶ月が経った。もう夏も近い。蒸し暑さで頭が茹だりそうな日々が続いていた。

「お疲れ様です」
「お疲れー」

 やれるところまでやって、納期さえ間に合えばうちの会社は何もいわない。タイムカードは一律で押すのである意味の不平等は多少生まれるけれど、このシステムは今日の俺にとってとてもありがたいものとなっていた。
 あれから毎日連絡して、週に一度くらい電話して、月に一度くらい二人で飲みに行く。そんなペースが安定してきた。そして、今日も灯ちゃんと待ち合わせだ。この日のために、灯ちゃんは熱田にシフトの希望を出してくれたらしい。それをメッセージで読んだ時は、幸せで倒れるかと思った。
 ……きっと、嫌われてはいないはず。何故かそんな自信だけはあった。
 灯ちゃんは今日休みで、俺があがる時間に合わせて街に出てくれると言っていた。申し訳なさ過ぎて何が何でも残業は回避しようとしたら焦り過ぎてまた左手をミシンで縫ったけれど、手当てする時間すら惜しい程だった。お陰で何とか間に合ったわけだけれど。
 待ち合わせ場所は、駅前の大きな時計台の下。待ち合わせ場所としては人気で、人が何人か落ち着きなく辺りを見渡している。俺もその中に混ざった。待ち合わせまであと30分はある。気持ちを落ち着けなければ。手からの流血も何とか止まっていて安心した。
 ……未だ慣れないし落ち着く事もない。会話はスムーズに出来るようにはなってきたし、熱田がいなくてもどうにかなってきた。流石に会って……好きになって三ヶ月も経てば、多少は落ち着くと思ったのに。むしろ、どんどんこの気持ちは強くなる。

「響くん」

 はっとした。顔を正面に向けると、灯ちゃんがいた。それも、俺の一番好きな服で。

「ごめんね、遅くなっちゃった」
「いや、全然。そもそもまだ5分前とかだしさ」

 灯ちゃんが待ち合わせに遅れた事なんて、一度も無い。俺も楽しみ過ぎていつも30分は前に到着してしまう。でもそんな事がばれてしまえば引かれる気がして、絶対言えなかった。

「今日、その服なんだね」
「うん、この間褒めてくれてたし」

 ……こういうところなのだ。可愛くてたまらない。にやけそうで必死に我慢する。マスクが必須の世の中でよかった、と心底思った。灯ちゃんは申し訳なさそうに「ごめんね」と呟いた。

「仕事帰りなのに、私の行きたいところに付き合わせて」
「全然。どこでも行くよ」

 灯ちゃんについていく形で、街を進む。人が多くて、やはり華金といった街の姿だった。きっとこうやってデートしている人もたくさんいるのだろう。俺たちの、この何も進展していない状況でデートなんて呼んでいいのかは分からないけれど。進展させたくないわけなんて勿論全然無いんだけれど、……こんな時、意気地無しの自分が嫌になる。もしこの子に振られたりなんてしたら、俺はいよいよ首を括って死ぬしかないんじゃないかとすら思えてしまう。
 徒歩で辿り着いたのは、水族館だった。この県で一番大きくて……今日は夜間開放日だ。月に一度あるこのイベントに、灯ちゃんは俺を誘ってくれた。事前にチケットを取ってくれていたらしくて、熱意の程が伺える。財布を出そうとしたら「私が誘ってるから」と固く断られた。

「水族館好きなの?」

 入館のための長いエスカレーターを登りながら、聞いてみる。灯ちゃんは頷いた。

「うん、本当は毎週来たいくらい」

 灯ちゃんと毎週過ごせるなら時間作ってでも来るよ、なんて言いたかったけどやめた。何だか引かれそうな発想ばかりしている気がして歯噛みする。
 最初に現れたのは、鮫の水槽だった。それを目の当たりにした瞬間、灯ちゃんは「わあ」と声をあげる。その目は輝いていた。

「鮫好きなの?」
「うん。鮫というか、海の生き物が好き」

 水槽に張り付くようにして鮫を眺める灯ちゃんを抱き締めたくなる。後ろから優しくぎゅっとして、あの綺麗な髪の中に顔を埋めたい。何だか変態みたいだ、俺。
 ふと目に入った看板に、スケジュールのようなものが書かれていた。近付いて見てみる。

「灯ちゃん、19時半からイルカショーだって」
「うん、行くつもりだった……って、大丈夫?嫌じゃない?」
「勿論。というか嫌な人なんてそうそういないでしょ」

 とはいえ、あと十分しかない。鮫の水槽を名残惜しそうに見つめながら、灯ちゃんは歩き出した。その足取りに迷いはない。何度も来ているのだろうか。
 ……誰と?

「響くん?」
「あ、ごめん」

 慌てて追いかける。灯ちゃんはこちらをじっと見ていたけれど、何となく目を合わせられなかった。
 ……今はいないって言ってた。でも、もしかしたら。今現在において俺以外にも灯ちゃんとこうやってデートしたりしている男がいるのかもしれない。そしてその男と灯ちゃんが付き合う可能性だってあるんだ。そう考えると、急に心臓が痛くなってきた。
 席についた頃合で、イルカショーは始まった。夜のイルカショーなんて確かに新鮮だったし、素直に感動した。けれどやはり、集中出来なくて。

「可愛い……」

 そう呟く灯ちゃんの横顔すら、まともに見れなかった。この顔を、もうすでに他の男が見てるって思うと……何故か泣きそうな気すらしてきた。
 そこから他のコーナーを見て歩いた。チンアナゴ、熱帯魚、くらげ……どれだけ可愛い魚達見ても、何も思えないほどにまでなっていた。

「……具合悪い?」

 水族館を出て、急にそんなことを言われてしまった。はっとして灯ちゃんを見ると、苦笑しているのが見えた。

「やっぱりつまらなかったかな」
「ち、違う!違うんだよ、そのっ」

 でも、どうする?言う?他の男を想像してたって……被害妄想甚だしい、あの気持ちを。駄目だ。絶対に引かれる。
 唇を噛んで、耐える。そして。

「……なんでもないよ」

 そうとしか、言えなかった。灯ちゃんは少し笑みを消して「そっか」と呟く。
 ……やってしまったかもしれない。内心でだらだらと、粘度の高い冷や汗が流れてくる。そんな時、何か音がした。灯ちゃんの携帯らしく、鞄から携帯を取り出して画面を見ていた。そして、こちらを向く。その顔は硬かった。

「……ごめん、今日は帰るね」
「えっ」

 追うよりも早く、灯ちゃんは早足で歩きだした。俺はそれを追う事も出来ず、立ち尽くすしかなかった。
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