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第2章 誘惑は根性の先に待ち受ける
拒むしか出来ない
しおりを挟む――お姉ちゃん。
――アズ。
――姉貴ぶるんじゃねぇよ!!
……時間が、逆戻りをしたような気がした。
ふらふらと時間の流れに身を任せたくもなったけれど、時間は決して元には戻らない。それは、太陽が西から昇るように、ありえないことなのだ。どんなに請い願おうとも。
わたしは唇を噛みしめて、誘惑じみたその言葉に抗する。
巽はなにを企んでいるの?
わたしと怜二さんだけではなく、自分の婚約者も踏みつけて、わたし達の禁忌である過去にまで遡って、一体なにをしたいの?
「あ……」
乱れて何度も繰り返す息が、次第に荒くなる。
猜疑心と胸の痛みが拡がり続け、不安のように胸に膨張するものが苦しくて、呼吸が追いついていかない。
「……う……あ、が……っ」
息苦しさに身体が痺れて、目がちかちかする。
「アズ!?」
わたしは喉を手で抑えて、その場で崩れ落ちる。
サイドテーブルの角に背中をぶつける寸前、巽が抱きしめるようにして体勢を変え、代わりに彼が上腕をテーブルの角でワイシャツを赤く裂きながら言う。
「おい、ゆっくり息をしろ!」
そう言われてそれが出来れば苦労しない。薄れそうな意識の中、苦しくてじんわりと涙が目に滲むと、ぼやけた視界の中で巽が上げた片手を躊躇させ、そしてわたしの頭を両手で荒く挟んだ。
「これは治療だ」
そして、わたしは――熱く柔らかいものに口を塞がれる。
逃れようとしても執拗に追ってくるそれは、何度も角度を変えてわたしの唇を甘く食むようにして唇を蹂躙する。
やがてぬるりとしたものが口の中に忍んできて、わたしの強張った舌に触れて絡みついた瞬間、わたしの腰から頭上にかけて、快楽とはまた違う電流のようなものが駆け上った。
それはわたしの砦たる防御本能からの警告だとわかった時には、わたしは巽を突き飛ばすようにして、げほげほと咳をしながら思いきり大量の酸素を吸い込んだ。
「な、なにを……っ」
キス?
わたし、巽とキスをしたの?
「大丈夫か!? 気分悪いないか!?」
巽の真剣なその顔に、不覚にもわたしは……トクトクと心臓が早く打ち始めるのを知った。
……詰りたい。しかし彼の救助でわたしの呼吸は楽になることが出来た。
怒ることも出来ず、かと言ってキスをしてありがとうとも言えずにただ戸惑っていると、巽はふっと笑ったようで、わたしの頭を撫でる。
「アズ」
「……その呼び方は辞めて下さい」
「杏咲」
「専務。わたしのことは苗字で……」
わたしは――見遣った巽の黒い瞳に、吸い込まれてしまった。
彼の瞳の奥に、苛立っているのとまた違う、なにかの燻った火がちらちらと揺れているのが見える。
「俺はもうお前の弟でもない。今は専務でもない」
ああ、巽の目の中にわたしが映っている。
わたしだけを瞳に入れてくれている――そう思ったら、歓喜で胸が押し潰されそうになる。
「今、俺の前にいる藤城杏咲は、ただの女だ」
「……っ」
「お前にとって俺はまだ、弟なのか? 専務なのか?」
巽の手が躊躇いがちに、わたしの手を取る。
そして戯れるようにして触っていた後、指を絡ませて手を握った。
「……呼べよ。俺の名前、忘れたわけじゃねぇんだろ?」
そして握ったままのその手を持ち上げると、わたしの手の甲にゆっくりと熱い唇を押し当て、挑発的な妖艶な眼差しを向けてくる。
ぞくりとして、唇が戦慄いた。
……既に巽は、わたしの中では弟ではない。
ずっとずっと、ひとりの男として好きだった男で、忘れられるはずのない初めての男だ。
だけど。
「……由奈さんへの苛立ちを、わたしにぶつけないで、巽」
わたしは拒むしか出来ないのだ。
「杏咲……っ、それとは違……」
「同じよ。あなたには由奈さんがいる。わたしには怜二さんがいる。仮に由奈さんと怜二さんが関係があったとしても、だからといってわたしとあなたがなにかあっていいはずがない。それは道理よ」
巽は悲痛な表情をした。
わたしには巽の心が見えない。
彼はわたしを憎々しく思っているはずなのだ。
「あなたの勘違いか真実なのかわからないけれど、わたしをあなたの復讐と寂しさを共有する相手にしないで。欲求不満で誰かを抱きたいのなら、よそをあたってくれる? あなただったら、女は選り取り見取りでしょう。もしもわたしを哀れんでいるのならお門違い。他に……」
わたしの身体がぐいと引かれて、巽の身体に包まれていた。
「ちょっ、離し……」
「離さねぇよ」
「巽!」
「……あいつを好きになるなよ。あんな男と会社で乳繰り合うなよ!」
やっぱり見られてた!
「あ、あれは……っ」
離れない巽の手は、わたしの手の甲の骨を折ってしまいそうなほどに、強く力を入れた。
「アズ、あんな男と結婚するな」
熱に浮かされたような痛々しい巽の声が耳に響き、身体がカッと熱くなる。
「お前の初めての男を、記憶から抹殺してるんじゃねぇよ!!」
巽が手を握られていない方の手で後頭部を固定して、噛みつくようなキスをしてきた。
今度は救助ではない。
怜二さんに言い逃れが出来ない、男と女のキスだった。
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