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第3章 突然の熱海と拗れる現実
突然の傍迷惑な提案
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翌日、アムネシア本社専務室――。
レッスンと称してなにをされるのかと心臓をバクバクさせて専務室に赴くと、その場に怜二さんも呼ばれていたことを知り、ぎょっとする。
まさか――怜二さんに、由奈さんとのことを問い詰める気なのだろうか。
それとも、昨日あったことや過去のことを、暴露する気なのだろうか。
それはまだ、心の準備が出来ていない。
いや、準備が出来ていたとしても、今そんな地雷を踏んで飛び散りたくない。
ハラハラドキドキ、顔色を変えるわたし。
それを一瞥し、ふんと鼻で笑った巽は、にこやかな専務の仮面を作ると、怜二さんにこう言った。
「実は藤城さんと今、〝溺愛〟という名前の口紅を開発しようとしています」
企画のことは口にするなと、巽自らが箝口令を出したはず。
巽であれば、もしくは課長職の怜二さん相手なら、いいのだろうか。
さらに、なぜ〝溺恋〟ではなく〝溺愛〟なのか。
単純に、巽が言い間違えただけなのだろうか。
色々と思うところはあるものの、巽の目が「口を差し挟んだら、命令権を執行する」とばかりに胡乱なため、わたしはおとなしくしている羽目になる。
説明を聞いていると、わたしが提案したものとは微妙に相違している。
だがそれは、わたしの素案に足りない部分を巽が加味したのだろうと、わたしは黙秘を貫き続けた。
「――と言う次第でして」
巽の説明を受けて、怜二さんは了承したというように頷いて返答する。
「では、〝溺愛〟の主軸の発色の持続感の方法は、ルミナスの研究所の方から専務に電話させます」
発色の持続感?
ルミナスの技術を引き込むのは、ベトベトにならないグロスの方じゃなかったか。
だが巽はなにも言わず、怜二さんに笑みを見せた。
「よろしくお願いします、広瀬課長」
……我が〝溺恋〟は、翌る日には全く別の〝溺愛〟へと豹変してしまったらしい。
変更するならするで、先に企画のパートナーに、なにかひと言あってもいいと思うけれど。
それとも〝溺恋〟の保険や、姉妹バージョンを作る気なのだろうか。
怜二さんは考え込むわたしに、いつものふわりとした笑みを見せて、わたしの頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「凄い企画を練ったじゃないか。きみにそんな力があったとは」
「あ、ありがとうございます」
巽が内容を変えてしまい、最早わたしの案ではないけれど、話を合わせろと強要する威圧的な巽の目が怖くて、ぎこちなく怜二さんに礼を言う。
……昨夜は、電話なりLINEなり、怜二さんと連絡をとらなかった。
そういえば、怜二さんが由奈さんを送った夜はいつも、彼からの連絡はなかったような気がする……など思いながら、改めて見る怜二さんは、とても溌剌とした生気に満ちていた。
それはどうしてなのかなど、恐ろしくて聞きたくも考えたくもない。
「広瀬さん。あなたの企画も楽しみにしています」
巽がにっこりと笑って、怜二さんに言った。
「営業から畑違いの企画へ移り、若くして課長にまでなったその能力を生かして下さい。それと、山本さんには別途僕の方に直接企画を提出するように言っています。昨日の飲み会の時に」
……無礼講の場なのに、ただ教えられるだけではすませない鬼畜専務め。
「山本に? そうですか。わかりました」
香代子の上司である怜二さんを通さず、香代子を直接指揮下に置こうとした巽が、面白くなかったのだろう。
怜二さんは、笑みを浮かべながらも、その声色を固くさせた。
「では話は以上です。藤城さんはこの後、もう少し詰めて打ち合わせをしたいので、お借りします」
「はい、どうぞ。藤城は根性はありますが、自分から意見を言うのは慣れていない環境にいたので、そこのところはよろしくご指導下さい」
さらりとフォローを入れる怜二さんは、いつも通りの声色に戻っていた。
お日様のような穏やかな横顔。
……大好きだと思っていた、怜二さんの顔。
しかし、今は見るのが辛い。
「……それとここからはプライベートで。昨日は由奈を送って介抱してくださり、ありがとうございました」
頭を下げる巽に、心がきゅっと痛くなる。
なんだかんだ言って、巽は由奈さんのことを大切にしているじゃないか。
「いえいえ。専務の方はお加減は大丈夫ですか?」
「ええ。藤城さんのおかげで助かりました」
巽は意味ありげにちらりとわたしを見る。
酔っていない巽に、あんなことこんなことをされてしまったわたしは、僅かに目を泳がせた。
「それでですね、お詫びを兼ねて……おふたり、熱海に泊まりに行きませんか?」
巽は突然にそんなことを提案してきた。
「アムネシアが出資しているホテルがあり、そこを保養所として食事がついて一泊三千円で安く借りられるんです。わたしの名前を出せば、特別室をその値段で使えるのですが」
突然の申し出とその破格値に、怜二さんだけではなくわたしも驚いた。
熱海に三千円!
しかも特別室とは!
いやいや、そんなものに惑わされてはいけない。
大体、今日は――。
「いいんですか? 実は私達もゆっくり旅行に行きたいねと、杏咲と話をしていまして」
え、そんな話をしていたことあったっけ?
記憶は定かではないが、怜二さんが嬉しそうに微笑みかけてくる。
そんな怜二さんに、笑顔のままで巽が問うた。
「僕と由奈も同行してもいいですか?」
心臓が、あまりの驚愕に大きな音をたてた。
「え……」
そのまま絶句している怜二さんは、わたし以上に動揺している気がする。
そんなわたし達にお構いなしに、巽は実ににこにこと話す。
「僕達もちょうど、旅行に行きたいと話をしていましてね。結婚する前に熱海でゆったりとしたいなと思うんです。それにあなた達は由奈が心許す友達でもあるし、楽しい旅の思い出になるかと」
いやいやいや。
楽しいどころか、最低最悪な思い出したくもない旅になるって。
怜二さんと由奈さんがセフレだと言ったのは巽なのに、そのふたりと一緒に宿泊をしようだなんて、一体なにを考えているの?
「勿論寝所は別々で隣です。部屋の中にも露天風呂があるんですよ」
巽への気持ちは気づかなくてもいいから、断固反対したいわたしの気持ちは、今ここで早急に察して欲しい。
大体隣室から、セックスの物音でも聞こえてしまったら、平常心ではいられる自信がない。
巽が香水をつけて帰ってきた昔より、絶対に受ける傷は深い気がする。
「それは……いいですね」
「れ……課長!?」
こんな悪趣味な提案に乗るなんて、怜二さんも一体なにを考えているのだろう。
どう考えても、波乱含みは必至。
焦るわたしの抗議は、口にする前に巽に遮られた。
「では、今夜から……二泊でもよろしいですか? 藤城さんも」
「こ、今夜から? しかも二泊もですか!?」
「ええ。今夜は花火大会があるんです。由奈が行きたいと言っていまして」
由奈、由奈、由奈。
やはり巽の中心は由奈さんなんだ。
わたしや怜二さんに、見せつけたいのだろうか。
由奈さんは自分のものだと。
昨夜のわたしとのことは、酒気を帯びていたがゆえの戯れだったと、片付ける気なのか。
……或いは、怜二さんに由奈さんをとられた腹いせに。
悲しいな、そんな男でも……好きだと気づいてしまうなんて。
好きでたまらないと恋心に咽び泣き、色々と考えて、ほぼ四徹を敢行してしまったとは。
もやもやとしたものが心を覆い、わたしは密かに唇を噛みしめた。
「ここを五時に出て、東京駅から電車に乗れば約一時間。七時からの花火には十分間に合う」
決定になりそうで、わたしは慌てて反論を試みた。
「しかし専務、連泊となれば準備というものが……。由奈さんだってそうです。女性には色々と……」
だがそれすら見越しているかのように、巽はゆったりと笑う。
「藤城さん。向こうに化粧品もなにもかもすべて揃ってます。だから手ぶらで大丈夫です」
有無を言わせぬような、独裁者の如き眼差しを向けてくる巽。
なにがなんでも強行する気だ。
「ら、来週では……」
どうか取り下げて欲しい。
だって今日は――。
しかし巽は、わたしの必死な念波を容易く却下した。
「来週は花火がないんですよ。しかも今日は浴衣の貸し出しもしていて、こういうのは女性なら喜ぶと思うんですよね」
花火くらい熱海ではなくても、隅田川にでも行って見てくればいいじゃない。
そんなに由奈さんを喜ばせたくて仕方がないの?
そのためなら、わたしがどんなに傷ついても、構わないと?
喉奥にまで出かかっている言葉を必死に呑み込んでいると、怜二さんは巽に同調してしまった。
「わかりました。今日から温泉に泊まろう、な?」
嫌だ。
絶対行きたくない。
だけど、怜二さんが乗り気なら、二対一の勢いに負けてしまう。
わたしは、渋々頷くしか出来なかった。
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