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Secret Crush Moon 2
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シャワーヘッドを腰にあて、しばらく飛沫マッサージをしていたせいか、生まれたての仔牛のような、へろへろな足腰はまともになった。
よし。これならいつも通り、電車に揺られて会社にいける。
結城は、心臓発作が起きるような、滝修行よろしく冷水シャワーを浴びて、先に会社に向かった。
ひとの髪用ワックスを勝手に使用しておいて、奴が使っているものより柔らかすぎるだの匂いが女っぽいだの散々文句を言って出て行った。
そういえば結城の荷物はどうしたのだろうか。ホテルにもなかったけれど、昨日手ぶらで会社に来たのだろうか。
満月の夜は、タバコをやめるほどの気を遣ってくれる男だから、あたしが仕事中でも突然発作を起こす、そんな万が一のために、荷物が邪魔にならずに動けるよう、考えていたのかもしれない。
……よく思えば。
「……っ」
衣里からのLINEを見たら、胸がぎゅっと苦しくなった。
課長はやはり昨日、あたしが結城と抜けた後からあたしの家に居たんだ。
――ちょっと前に寄ってみたところなんで、会えてよかったです。
なんですぐ来たなんて嘘をついたの?
居ないとわかったのなら、なんで帰らなかったの?
帰ってくれていれば、結城との関係を知られずにすんだのに。
香月課長は……、もう会社にいるだろう。
昨日は結城とも和やかに談話して和気藹々としていたのに、さっきは一触即発のような緊張感があった。
きっとあたしは、結城と付き合ってもいないのに身体の関係がある、ふしだらな最悪の女になりさがっているだろう。
どんな嫌悪感を向けられるか、正直怖い。
結城は、課長が中学生の時にあたしと関係したことを知った。
課長は、あたしが付き合ってもいない結城と関係していることを知った。
その課長が直属の上司で、その結城が仲良し同期の営業課長で。
これから、すべてがなかったことのように平和的に進めるような気がしない。
まったくしてこない。
「頭痛い……」
満月が過ぎた次の日は、いつも爽快に出社できるのに、今は憂鬱で頭が重く、重い腰がなおさら重くて歩くのも億劫だ。
だが、すべてはあたしのこの特殊な性癖のせいだ。
課長も結城もその犠牲になっているだけなのだ。
「はあ……っ」
着替え終わったあたしは、テーブルの上に置かれたままのコンビニ袋の中を覗いた。
中にあったのは数種のプリン。
『俺様プリン』『殿様プリン』『王子様プリン』『何様プリン』
ふさげた名称の、知る人ぞ知る「我がまま」プリンシリーズ。
「俺様プリン」は、焦しカラメルソースが絶妙で、「殿様プリン」は、金粉入りのミルキーソースが巧妙で、「王子様プリン」は、果物がびっちり詰まっていて、「何様プリン」は、真っ白いプリンの中にランダムなソースが混入されている。
この四種は、都内では圧倒的に店舗数が少ない「バルガー」という名のコンビニの看板で、このプリンを開発したのは男性、現役モデルの大学生だとか。
スイーツを開発出来るモデルというので注目を浴びているらしいが、どんな大学生かはあたしは知らない。そんなことどうでもいいくらい、「我がまま」シリーズは美味しすぎる。
まさかこれを香月課長から貰えるなどと思わなかったが、この憂鬱な状況だからこその、神様からのエールかもしれない。
「俺様プリン」をあけ、スプーンでプリンを掬い口に運んだ。
「ん~。美味し……」
これを知ったのは、あたしがバイトしていたコンビニだった。
そのコンビニこそ「バルガー」であり、当時は「俺様」と「王子様」の二種類しかなかったが、真夜中のシフトがある時、先に帰った店長が更衣室の冷蔵庫に差し入れとして入れておいてくれたおかげで、あたしは眠くても頑張れたようなものなのだ。
そんな優しい店長だったから、あたしは辞めても満月の日にヘルプに行ったんだ。そしてその帰り、中学生だった香月課長と会った――。
「……苦っ」
あれから九年経つけれど、俺様プリンの焦しカラメルソースの苦さだけは今もなお健在のようだ。
――……ひとが信じられなくなりました。
――恋人に、なろう。
変わったものに押し潰されそうになっている中、変わらぬものがあることが嬉しくて、思わずほろりと涙してしまった。
・
・
・
・
感傷にふけながら、わがままプリンを全部食べてしまったのが祟り、気づいたら午前八時ちょっと前にまでなっている。
始業には間に合う時刻とはいえ、あたし史上初の遅刻だ。
机の掃除なんて出来る時間ではない。
しかも忘れてた。
今日金曜日は、午前八時三十分より定例の朝会議がある。
会議と言っても二階の会議室でするのではなく、秘書課を除いて、重役と共に二階から降りてきた社長に向かって、一階フロアで全社員が席で立ち、総務、営業、プログラム開発、WEBの四部の責任者が、今週した仕事と来週する予定の仕事を報告するというものだ。
つまり、始業時刻前からある、週に一回のあたしの仕事である。
午前八時四十三分――。
重い腰を動かして走り、シークレットムーンに滑り込むようにして到着した時には、社員がほぼ集まっている状況。
ぜぇはぁぜぇはぁ肩で息をする姿を見せてたまるかと、忍者のように前屈み、前傾姿勢で抜き足差し足忍び足、プログラム開発部の課長の報告を耳にしながらなんとか席に着くと、やる気なさそうに欠伸をしている社長と目が合った。
とりあえずはぺこりと頭を下げたら、社長が片目でウインクしてきた。それで終わってくれればいいのに、あたしの反応が悪かったせいか、両手で投げキスまで寄越したものだから、あたしは注目の的。
無駄に目立ってしまい、ひっそりこっそり入ってきた努力が無に還った。
「はい、次WEB。鹿沼~、お前大丈夫なのか?」
この流れで次はWEBなのか。
舌打ちしたい心地をぐっと堪えて、営業スマイル。
「はい、おかげさまで。ご迷惑おかけしました」
机の上に置いてある打ち合わせようノートを取り出し、既にまとめてあるものを読み上げ始めた時、ざわざわとした人の声が水紋のように広がっていく様を感じた。
まるで発作の前兆のようなそれは、冷やかしや侮蔑、歓喜や羨望のようなものに似て、高低ある多くのざわめきは、様々な負の感情をあたしに運んできた。
なに?
あたしに?
これ、嫌だ。
高校時代を思い出してしまう。
ざわめく教室。
揶揄するような視線。
あからさまな悪感情。
密やかなる嘲笑。
皆から敬遠され孤立してしまった、あの時のものによく似ている。
今までうまくやってきたのに、なんでこんなことになったの?
身体で感じる社員の視線、脳裏で蘇生する昔の朧な記憶。
そこに急速度で輪郭を象った線が円となり、中心に向かって金色に塗られていく。
……満月になる。
冷や汗が出てくる。唇が震え、思わず黙りこんだあたしの手から、すっとノートが抜き取られて我に返る。
「あ……」
隣に居た香月課長だった。
手に包帯を巻いている。怪我をしたのだろうか。
冷たい顔は相変わらずだったけれど、今度は課長が何事もなかったかのように、玲瓏な声であたしのノートに書いていたものを報告として読み上げた。
ざわめきが大きくなった時、突然、課長は片手で自分の机をバンと叩く。
それに驚いた社員が黙り込み、場がシーンと静まりかえると、課長は周りを見渡しながら、悠然と笑った。
「では続けます」
怖いと思った。
だけどそれ以上に、この不可解な嘲笑を鎮めてくれたことが嬉しかった。
いくら頑張って働いてOLとしての自負があろうとも、こうした、突然あたし個人に向けられたものには、対処できない。男に守って貰う弱い女にはなりたくなかったけれど、助けて貰ったことに泣き出したい弱い自分がいる。
「それと営業とタッグを組んで、効率化を目指します。軌道にのるまで皆様に色々ご迷惑おかけする部分が出てくるかもしれませんが、その時はどうぞよろしくお願いします」
頭を下げたままのあたしの隣で、課長の声がまだ続く。
「説明会は今日の十時から。WEBでの用意ができ次第お呼びしますので、二階のA会議室にお越し下さい」
「よ~し、香月。それは僕も聞いていいのかな」
「勿論です、社長。是非ともアドバイスお願いします」
「OK~。はい、じゃあ今日はそういうことで、タブレットの使い方について、WEBから説明があるから全員参加。頼むな、香月、鹿沼。では解散~」
同時に始業の音楽が鳴り始めた。
――WEBの説明があるから。頼むな、香月、鹿沼。
……待て。
なんだかそのタブレットどうの、決定事項になっているけれど、あたしには全然話が来ていない。
なにをどうしたいのか、課長の思惑すらわからないのに、それをあたしも任されちゃうの!?
――……ひとが、信じられなくなりました。
まさか、だから相談なしとか!?
「鹿沼主任、準備を手伝って頂きたいんですが」
課長の声に説明があるものだと飛んで行くと、二階の会議室に連れられた。そこには大きな段ボール箱が机の上にどんと置かれ、長い電源タップが三つほど用意されている。
「あの、これは……」
「タブレットが届きました。箱から出して充電しながら、このアドレスでアプリをダウンロードしておいて下さい」
「はあ……」
手渡された紙には、うちの会社がとっている「secret-moon.co.jp」ドメインのアドレスが書かれてある。
これが一体なんなのか。
説明を期待して顔を向けると、
「では」
課長が帰ろうとしたから、思わず手を掴んだら包帯のところだった。
ぎろりと睨まれ、慌てて謝りながら手を離して言う。
「ちょっと待って下さい! これで終わりですか!? 準備のお手伝いは!?」
「これが準備のお手伝いです。あと一時間なんでお願いします」
鉄仮面はキラリと眼鏡を光らせて踵を返すと、口を開けてぽかんとしているあたしに背を向け、スタスタと歩き出してしまった。
なによ、それ~!!
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