いじっぱりなシークレットムーン

奏多

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  Secret Crush Moon 7

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 ***


 午後二時半――。

 比較的静かなのは、皆がこちらを意識しているせいなのかもしれない。

 カタカタカタ。
 バチバチバチ。

 カタカタカタ。
 バチバチバチ。

 WEB部、隣り合わせた席からは、キーボードを打つ音の応酬。

 言葉はない。

 カタカタカタ。
 バチバチバチ。

 カタカタカタ。
 バチバチバチ。

「……主任。そのバチバチなんとかなりませんかね? 気が散るんですが。あなた素人ではないんでしょう?」

 眼鏡のレンズがキラーンと光る。

 カッチーン。

「それは失礼致しました、課長。いつぞやの課長の真似をしてしまったもので。気をつけますわ」

 カタカタカタ、カタカタカタカタ。

 手を伸ばせば、課長は届く距離に居る。

 そのせいか、会社に戻ってからもずっと繋がれていた手が熱い。

 さすがに会社に入る時は手を離したけれど、昨日もぎゅっと握られた感触、手のひらに熱い唇を押しつけられた感触、熱い舌が這う感覚――。

 思い出す度に身体が熱くなってくる。

 そんな風にいまだひきずっているあたしとは対照的に、課長は何事もなかったかのように平然と、隣でカタカタを始めたのが「お前馬鹿? 色ぼけしてないで仕事をやれよ、この雌豚!」と罵られている気がして、意固地になったのだ。

 負けてたまるかと。

「主任、これちょっと和訳してわかりやすくまとめて貰えますか?」

 プリンタで打ち出したのは、英語と数字だらけでチカチカする紙。それをどっさりとあたしに渡した課長は、にっこりと笑う。

「どうせ、今までのあなたの仕事はタブレットが代用してくれるでしょうからお暇でしょう? まさか国文科卒業だから、和訳や表計算は出来ませんとかは言いませんよね? 28歳にもなって。はい、どうぞ」

 あたしにキスしたくせに!
 あたしの手を握って、手のひらを舐めたくせに。

 そうですね、意識してたのはあたしだけですよね!
 どうせあなたは経験豊富な化け猫ですものね!

 オンオフ激しいよ。どこにスイッチあるんだろう。

「貸して下さい。こんなのすぐ出来ますから!」

 うう~、バイリンガルなら自分でやればいいじゃないか。

 絶対あたしが英語と表計算苦手だと見抜いて言ってるんだ。

 原文どこからもって来たのよ、今までカタカタしてたのはまさかこの英文を打ってたからかとも思ったが、プリントされたのはどこかのWEB頁のものがほとんどだった。

 一体なにをカタカタしていたのかはわからないけれど、今はネットで翻訳出来る時代なんだから!
 さあ、翻訳画面開いて、和訳したい英字を入力して……。

 バチバチバチバチ。

 あ、スペル間違えた。ああもう目がチカチカする。なんで英字になると、こんなに行数多くて小さくプリントされるのよ。どこまで打ってたの、あたし!

 これならWEB頁探して、マウスでコピペした方が早いじゃん!!

「これ画像の印刷ですから、コピーは無理ですね」

 あたしの心の声はただ漏れだったのか。 
 聞いていないふりをして、画面を睨み付けるようにしてバチバチしているとおかしな声が聞こえた。

「ぶはっ」

「!! 今、笑いました!?」

「いいえ?」

 課長は再び眼鏡をキラリと光らせ、いつも通りの冷ややかな表情だ。
 笑われたと思ったけれど、また気のせいだった。





「思うように進んでいかない……。なんか英語に拒否反応で、蕁麻疹出てきそう」

 休憩室の椅子に座り、きゅっとなる酸っぱいレモンジュースを飲んでいたのだが、クエン酸はあたしの元気に繋がらない。

「はぁ……。ってなに!?」

 突然あたしの首に巻き付いた腕に驚いて見上げれば、


「よぉ、鹿沼」


 結城だった。

「お前、随分ガード堅くなったよな?」

「へ? あれ外回りから帰ってきたの? お疲れ~」

「なにが"お疲れ~"だ! 俺は二時半には帰ってきた」

 柱の時計は、四時半だ。

「おお~、二時間前には居たのか、しらなかった……うげっ!」

 きゅっと強く腕に力を込められ、あたしはギブギブと結城の腕を手で叩いた。

「俺、LINE送ったんだけど。シカトすんじゃねぇよ」

「え? LINE?」

 スカートのポケットからスマホを取り出せば、結城からのLINE通知が沢山来ていた。

「あ、悪い。全然気づかなかったわ。で、なにかあった?」

「お前な~」

 今度はあたしにおぶさるようにして後ろから抱きついてきた。
 朝まで馴染んでいたはずの、結城の匂いが鼻に充満する。

「ちょっと! 誰かに見られたら……」

「いいよ、見られたって。俺達仲のいい同期なんだろ?」

「結城!!」

「……陽菜って呼びたいんだけど」

「結城! あれは満月の夜だけよ」

「満月以外でも呼びたい。満月以外でも抱きたい」

「こんなとこで一体なにを……ひゃっ」

 結城が耳を甘噛みしてきたのだ。
 肘打ちしたら、結城が耳から離れた。

「いい声。この声とお前の感じてる顔知っているの俺だけだと思ってたのに……、あいつも……、ああ、くそっ」

 結城が突然離れたから振り返ってみると、結城は顔を右の手のひらで覆うと、そのまま前髪を掻き上げた。

 そして――。

「お前さ、俺を庇うためなら、俺はそんなもん必要ねぇから。はっきりあの課長と付き合ってないと、皆の前で言えよ。いいじゃねぇか、俺とホテルからの帰り、課長と会ったで。別に俺は、ホテルでお前を看病してたでもいいからさ」
 
 ぎゅっと細められた、苛立つようなその瞳が、

「俺は、あんなぽっと出の年下のガキに、お前はやらねぇぞ。それくらいなら、俺は壊す」

 あたしを貫いて。
 
「壊す?」

「ああ。お前との秘密の約束も関係もぶち壊して、表に出る。知ってるか、陽菜」

 あたしを呼び捨てにした結城は言った。

「秘密という意味の"Secret"、壊すという意味の"Crash"。ふたつが合わさった意味を」

「知らない」

「じゃあ調べろ。そして、それが俺の――」

 そう言った時だった。

 突然周りの光が消えたのは。

 そしてざわめく声が聞こえてくる。


「停電!?」


 あたしは慌てて休憩室から出た。

 情報を機械で管理しているIT会社にとって停電は命取りになることがある。瞬電ですら多くの情報が漏洩したり死んでしまうこともありえるのだ。

 ここには、他企業のネットを仲介するプロバイダとしてのサーバーや、WEBデータを置いたサーバなど多種のものがあるから、これらが機能しなくなれば、この間にまた他企業にとっても利益損害が出る可能性もある。

 もうあんな損害賠償問題にはしたくない。

 今回の停電は長いようで、車内を見渡す限りは復旧の兆しは見えない。

 窓を見ると、外は薄闇だが晴れており、落雷による被害でもなさそうだ。だとしたら、このビル全体の停電なのかもしれない。

「UPS(無停電電源装置)大丈夫か!?」

 結城とサーバ室に駆け込んで聞くと、杏奈が既に中に居てキーボードをカタカタと弄って、白黒の画面を見ていた。

 よかった。
 UPSから電力を供給して、サーバーは動いている。
 だったら他のも大丈夫だ。

「よかった。大事にならずにすんだ」

「……鹿沼ちゃん、UPSは起動しているけれど、なんかウイルス攻撃っぽい。それで電力に異常に負荷かかって飛んだような気がする。UPSがバッテリーから電源を供給していても、サーバーがダウンするのは、時間の問題となるかも」

 杏奈の口調が、いつになくまともで堅い。
 よほどの事態だということは想像出来た。

「ウイルス攻撃?」

「うん。このウイルス、……いやウイルスじゃないね、自己増殖型のワームで、うちのサーバーのシステム領域の空き容量に増え続けるから、このままだとサーバが壊れちゃう。あ、LANは切ったから、ネットやネットワークサーバはつなげれないよ」

「なんでこうなったんだ? 誰かのパソコンから社内LAN感染したのか!?」

 結城が聞くと、杏奈は首を横に振る。

「これはサーバに直接っぽい。ログ見ているけど、サーバーでメルアド追加した午前八時のログインで、なにか消してなにか入れてる。プログラムみたいなもの」

 午前八時――。

「まさか江川くんが!?」

 今ここにはいない――課長を騙った新しいメルアドを作り、中傷メールを送ったあの彼が?

 プログラム開発部の社員は、選りすぐりのプログラマーだと聞いたことがある。江川くんだって、優秀なプログラマーだったのだ。

 一体なぜ、そんなことまで!
 
 その時課長が、ガラガラと台車を押して走ってきた。

 台車の上は、UPSと思われるものと、パソコンと、サーバー室にあるものと同じ型の機械が置かれてある。ケースの中にある横長のHDDが三つ重なっているもの…RAIDというものだ。

 一体どこから持って来たのだろう。

「電話が止まっているから、上下階に行ってきました。ここの階だけの停電のようです。一応は管理に連絡してきましたが、あまり効果は期待できないかもしれません」

 そう言いながら、課長が入ってきた。

「三上さん、うちのサーバに入れてる"BB-wall"はまったく起動してないんですか!? あれはL7ファイアウォールだから、RAID対応で未知の攻撃を関知して防御するはずだ」

「うん……香月ちゃん。入れてたはずなのに、今探したらないの。丸々消えちゃってるの。多分、江川ちゃんにやられた」

「ちょっと貸して下さい」

 課長が杏奈の横に行き、前屈みになりながらバチバチとキーボードを叩いて画面を見れば、眼鏡のレンズが青白く光った。

 画面には黒字に白い英字や数字が並び、残念ながらあたしはこうしたLinux画面までは読み取る能力はない。

「ワームの増殖率が高い。この調子でいけば、このサーバーも動かなくなる。RAIDはどうです?」

「うん、まだ切り替わっていないけれど、ワームが覆い尽くされれば、RAIDも無事かわからない。まずはRAID1、ミラーリングが駄目になる」

 RAIDとは、本体から同時にデータを書き込んだものを保存する複数のHDDで、このサーバ室においては杏奈が立っている下の方に、ケースの中に横向きで上下に三つ並べられているものだ。つまり、香月課長が運んできたのと同じタイプの。

 故障時には違うRAIDに自動的に切り替わって、何事もなかったかのようにサーバーが動き続けるらしいが、あたしは今まで故障したところは見たことがない。

 理屈的には、切り替わったら、故障したRAIDを引き抜いてきちんとしたものを入れればいいが、サーバーがワームに侵されて動かないのものをコピーされても、RAIDもまたワームに侵されて話は終わらない気がする。

「バックアップは!?」

「一日一回、朝六時」

 RAIDでつくるものはバックアップではない。ファイルを削除してしまったら、RAIDもまたそのファイルは消えてしまうが、バックアップは過去のある時点でのデータを複製するものであり、そのファイルは消えることはない。

「朝六時……、万が一の場合考えれば、ないよりはましか」

 サーバがパンクしたらどうなるか。

 社内ネットワークで管理されている情報は消えるだけではなく、WEBサイトなどうちのサーバを利用している企業にも損失が出る。

 これはうちだけの問題ではなく、信用が失墜する――。

 そう思っていたら社長が現れた。

「どうだ、香月」

 状況を聞かないところ、既に課長は社長にも話を通していたのか。

「今日中がリミットだと思います」

「どうする?」

「BIOSも書き換えられ、"BB-wall"のインストールCDも認識しません。なので、"BB-wall"をここで作成し、ワームを払ってから、安全を確認して別サーバーに移行し、元通り"BB-wall"をインストールします」

「おいおい、"BB-wall"は百万近くもするファイアーウォールソフトだぞ!? そう簡単に作れは……」

 結城が驚いた声を出すと、社長が笑った。

「あれを作ったのは香月本人さ」

 驚愕する一同の前で、さして課長は気にすることもなく、キーボードを打ったり、杏奈になにか指示をしたりして、残るふたりのプログラマーを呼んで指示をし、彼らはタブレットを取り出してふたりにつき、なにやら作業をした。

「念のため上から、Linuxサーバーと使っていないRAIDを貰ってきたので、その設定をお願いします。結城さん、RAIDお願い出来ますか?」

「ああ、それくらいは……。って、上ってどこだよ」

「古巣です」

「はああ!?」

「それと社長」

「おいおい、僕まで使うのか?」

「渉さんの上司、システム開発の長だったんでしょう? UPSを接続して、Linuxの設定、お願いします」

 渉って、忍月コーポレーションの専務よね?
 社長、あそこに居たの!?

「ったく、あいつ余計な入れ知恵を。わかった。今Linux、思い出すから」

 頼りない言葉だけど、社長がトラブル時にこういう好戦的な顔をしていると、負ける気がまったくしないのは、社員一同皆同じ。

 結城が佇んでいる連中に叫ぶ。

「営業、総務から江川と三橋の電話聞いて、電話かけまくれ。とんずらさせるなよ」

「了解!」

 衣里が営業四人の尻を叩いた。電話が止まっているため、自分たちのスマホでかける気らしい。
 あたしだってやるわよ。ただ見ているもんですか。

「デザイン課、システム開発課! 万が一サーバーが止まることに備えて、取引先へ事前にフォローして。急いで!!」

 だったらあたし達も、スマホから。

 パソコンがないために資料室から持ち出したファイルは、香月課長に見せたもので、思わず笑みがこぼれてしまった。


 午後七時、電気点灯。

 
 そして。

 あたし達は、サーバーの危機を乗り切ったのだった。

 香月課長がいなかったらサーバーは壊れていた。

 杏奈も驚愕するほどのプログラマー技術を見せつけ、即席とは思えないほどのワーム駆除のプログラムを完成させたらしい。

「三上さんやプログラム開発部の方々のお力です」

 やばいね、自分のおかげと言わないの格好いいね。

 サーバーがワームの呪縛から解放され、別サーバーが元からあったような顔で起動したのは、午後11時50分。


「リミット前、お疲れさん」


 社長の言葉で、あたし達は床に座り込んだ。

 万歳三唱の皆から離れて、課長がふらふらと休憩室の方にいく。
 あたしは後を追いかけて、自販機でペットボトルのお茶を買っている課長に頭を下げた。

「お疲れ様でした」

「いえ、別に私は」

「課長がいなければ、会社の危機でした。本当にあたしなにも出来ないんだなあと、つくづく思いました」

「………」

「技術はないですが、それ以外のことは頑張ります。なんでも仰って下さいね」

 課長はペットボトルに口をつけてから言った。

「それは今日のご褒美ってこと?」

「褒美……と考えてもいいですが、なんだか偉そうだな」

「だったらひとつ」

「はい?」

 ちょいちょいと指を振られて呼ばれ、あたしは課長に近づいた。
 
 その時までは、褒め称えたい誇らしい気分であたしは胸一杯だったんだ。
 たとえ年下だろうが、さすが飛び級コロンビア大! しかもあの天下の忍月コーポレーションに早期入社の意味がわかったと。

 課長はあたしの耳に囁いた。


「今夜、俺の家に来て」


 ちょっと熱に掠れたような、艶っぽい声で。

「課長。その手の冗談、いい加減にして下さい」

――セックスしましょう。

 頭の中に直球の誘惑がぐるぐる回る。
 まさかこんな時間に課長の家に行って、トランプして遊ぶとかそういうわけではないだろう。

 大人の女にそんなことを持ちかけるのは、身体の関係を作りましょうということだと、幾らなんでもあたしでもわかる。

「……本気だと言ったら?」

 笑ってすませばいいものを、やけに色っぽい流し目を、斜め上から落としてくる。

 上気した顔。
 少し汗ばんで乱れた髪。
 飲み物を飲んで濡れた、やけに赤い唇。

 ……なんなのこのエロい上司。

 だけどね。

「あたし、誘われたらついて行くような、そんなに安っぽい女ではないんです。そういう相手が欲しいなら、他の子にして下さい。課長くらいレベルが高い男性から誘われれば、きっと皆喜んでついてくるでしょう」

「あなたがいい」

 そんな熱っぽい目で見ないでよ。

「課長。だから……」

「なんで結城さんと寝たんですか? 昨日だけのことではないんでしょう? 私はこのビルに勤め始めて、あなたと結城さんがホテルに入るところを何度も目にしていた」

 課長のまたもや直球に、思わず怯んでしまう。

「それは……っ」

 見ていた?
 そうか、あたし達が気をつけていたのはシークレットムーンの社員で、あたしをよく知る社外の人間が見ているなど、露にも思わなかった。さらに言えば、香月朱羽という存在はあたしの心からは抹消していたのだ。

 やだ……。

 言い逃れできない。
 だけど言いたくないよ、直属の上司に満月のこと。

――気持ち悪いよ、お前。

 満月限定セックス中毒。
 だからあたしは、九年前あなたとセックスしたんです、とは。

――ありえねぇだろ、月が関係するなんてホラーかよ! この嘘つき女!

 怖い。
 ひとに言うのは怖い。
 結城のようにわかってくれる気がしない。

「あなたは男に誘われるとついていくような安っぽい女ではないという。結城さんには恋愛感情がないという。じゃあ結城さんと寝ているのはどんな意味? セフレ? それとも脅されているとか?」

「違う……」

「結城さんとはセックス出来て、私を拒むのはなぜ」

「やめて……」

「九年前、誘ってきたのはあなただ。自分からならいいとか?」

「やめてよ……」

「じゃあ結城さんには、あなたが自分から……」

「やめてって言ってるでしょ!!」

 あたしは怒鳴った。

「あたしにとっての結城を詮索しないで下さい。あたしは結城に救われている。それを恋愛とかセフレとかで片付けないで下さい!」

 課長の目が細められた。

「九年前のことは忘れて下さい。あれはあたしの過ちでした。課長を傷つけてしまい、本当に申し訳ありません。このお詫びは、プライベートではなく、仕事で返します。だからそれで……」

 がしっと上腕を握られた。
 熱くて、力強い手が。

「嫌だ」

 熱く潤んだような瞳が、苛立たしげにぎゅっと細められた。
 
「過ちで終わりにするな」

 絞り出すような声が響いた瞬間、静かな結城の声がした。


「……帰るぞ」

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