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Crazy Moon 12
しおりを挟む~Wataru Side~
沙紀への前戯をたっぷり時間をかけ、至福の内にふたり弾ける予定を邪魔しやがったカバに、なんと男がいるらしい。
もしかすると朱羽がうちのシステム課に居た時に、窓からあいつが泣きそうな顔で見ていた……カバと連れ立つ後ろ姿の男かもしれねぇな。
あの男は八年を持ち出していたが、八年がなんだと言うんだ。そんなの朱羽が聞けば鼻で笑うだろう。
どうするつもりだ、朱羽?
てっきり俺も沙紀と同様、お前がカバに告ったか抱いてしまったのか、なにか既成事実を作ったのかと思ったが、お前なにカバをあっさり離してるんだよ。カバ、別の男とデートしてるんだぞ?
……俺さ、朱羽が可愛いんだわ。
お前があんなに荒れて大変でも、それでもお前は家に戻って、男を拾っては家に連れ込むあの色情狂のアバズレを見捨てず、お前が稼いだアルバイト代を生活費として与えていた。あんなアバズレを息子だという理由で面倒みながら、お前心臓発作を頻繁に起こすまで黙って我慢してたじゃねぇか。
あんな陰鬱な顔をして、すぐキレていた中学時代のお前を、俺がその前から知っていたのなら、守ってやれたのに。
俺がNY支店から一時帰国して、あの馬鹿臭い初顔合わせをした時に、お前が倒れたのを助けて話を聞き出してから、ようやく俺は事情を呑み込めて、アバズレを精神病院に入れて引き離し、朱羽をアメリカの病院で入院させ、あっちでお前の面倒をみた。
そうしなければならないほど、朱羽の心も体もぼろぼろだった。
だけど俺に懐かないし、感情が壊れているかのように無表情で。
……人間というもの自体を、信じていなさそうで。言うなれば、人間に虐待され、ぼろぼろの毛並みとなった捨て猫のような。
そんな朱羽が夜になると泣く。チサって誰だよ。お前がうなされる度に切なく呼ぶ名前は。お前のお袋、そんな名前じゃないぞ?
気力がないから身体も回復しねぇ。
これからどうすればいいのか俺が頭を抱えていた時、アメリカで陰鬱な表情のままネットをしていた朱羽は、ある時を境に突然変わりだした。
自暴自棄になっていたあいつが少しずつ身体を鍛えようとしたり勉強をしたりし始めた。生きようとする表情が出てきた。だけどまあ、俺以外には懐こうとしていなかったけれど。
変貌できるくらいのどんなWEBを見たんだろうと、ある日こっそりとそのパソコンでただひとつお気に入り登録をしているものを開くと、そこは日本の大学だった。難関大とはいえないけれど、そこそこ有名な大学のキャンパス説明のような頁で、大学生の写真で飾られていた。
その写真を一日何回もパソコンで見たり、挙げ句の果てにスマホにまで入れていたのを俺は知っている。
その大学に行きたいのかと思ったが、朱羽はこう答えた。
――無理。俺の年齢では絶対追いつかない。
朱羽は心臓の手術が成功して状態が落ち着くと、急速に知力を高めた。もともと頭はよかったけれど、あっという間に飛び級だ。
――渉さん。どうすれば俺、もっと大人になれる? 必要だって思われる? 年の差を埋めるために最短で大人になるためには!?
早く大人になりたいと焦っているように。
誰かと同じところに行き着きたいと願っていたかのように。
――……渉さん、お願いがある。向こうで調べて貰いたいひとがいる。名前はわからないんだけど……。
俺が日本に戻る辞令を受けた時、朱羽からすべてを聞いた上で頼まれた俺は、朱羽にひとつ提案をした。
そう、生きる希望を見いだした朱羽が、世間から一目置かれるような大人にすぐなれるための苦肉な策。
あまりに理不尽過ぎる選択肢を朱羽に突きつけた。
――朱羽、すぐに大人になるために捨てねばならないのが、今か未来かしか方法がなかったとしたら、どっちを捨てる?
――未来。俺が大人になりたいのは今なんだ。未来まで待てない。
そして俺も、ひと肌脱いだんだ――。
おいこら朱羽。
たかが八年の男に許すのか?
お前、時間がねぇんだぞ?
さっさとものにしろと言ったじゃねぇか。
俺はフロントに預けたスマホを受け取り、通話ボタンを押した。
『はい、朱羽です』
聞き慣れたすました声に、俺は言った。
「お前なにのんびりとしてるんだよ。カバとは一体どうなったんだよ。泊めたんだろう?」
『なんですか、藪から棒に』
「お前カバにキスマークつけただろ」
『……っ。なんで知っているのか聞いていい?』
素に戻る声が、えらく低い。
おお怖っ!!
氷の課長様かよ。
「その前にひとつ聞く。お前うなじも大きなキスマークつけたか?」
『……』
「つい最近できたみたいなんだが」
『……どこだよ、今いるところ』
「なんでカバを離した。なんで結城だかにつけいる隙を与えた? お前カバに言わなかったのか!? それとも言ってても他の男と遊んでるのか!?」
『……四週間、待つと約束した。だからあと三週間後に話すつもりだ。もうこんなことはさせない』
静かなる声に、朱羽の怒りと苛立ちを感じた。
「三週間!? おいおい、だったらあと僅かし残ってかねぇじゃねぇか! どうするんだよ、お前!」
『仕方がない。俺は恋をしたくないというあのひとの心が欲しいんだ。飢えた心に結城さんが入っているのなら、あのひとの意志で彼と俺を同じにしないで欲しいんだ。あのひとの意思で俺を特別に思って欲しい。……結城さんをけしかけたのは俺だ。それでも結城さんは、公私混同を避けて今日まで待っていた』
「なんでまた……」
『フェアに行きたいんだよ。それじゃなくても年の差がある。一緒に過ごした時間が短すぎる。信頼度が違いすぎる。それでも俺を選んで貰うためには、結城さんと同じ土俵に立たないとためだから』
「おいおい。同じところに立ったとして、カバがあいつ選んだらどうするんだよ。せっかくお前、今の位置にいるんだぞ。なにも得られないまま、あのジジイの言うとおりに生きるのか?」
『……その時はね。渉さんには迷惑かけない。俺だけでいい。俺のマンションも車も沙紀さんにあげてよ。俺には必要なくなるものだろうし』
「朱羽!」
『だけどさ、俺もただ指を咥えて待つつもりはないよ。だから教えて? あのひとがいる場所』
「そこからだったらかなり時間が……」
『言え』
この威圧は誰に似たんだか。
ははは、カバ。
怒り狂った朱羽が来るってさ!
両腕を引かれてどちらに転ぶ?
なんで朱羽に電話かけたかって?
そりゃあ呼び出すためだろうが。
俺はただ面白いことが好きなんだ。
予想外の展開で、なにか化学変化が起きるかもしれないだろう?
これを悪だくみというのなら、そうさせた自分を恨め。
あいつは帰国しても、お前しか見ていなかった。
お前がムーンに居た時、あいつがこっそりと見に行ってたのを知ってるか?
同じビルに居て、他の男と消えるお前を、どんな想いで見ていたと思う?
下に行けばお前に会えるのに、なんでなにも言わずにいたと思う?
なんであそこまでフェア精神にこだわり、四週間もお前を待つと思ってるよ。
……朱羽をナメるなよ。
***
「よし、ここだな。聞いたのは」
結城があたしを肩に担いだまま、あるアトラクションにやってきた。
近くにある看板を見ると、岩場を模したこの大きなプールは、時間によって流れるプールと波のプール、或いはふたつ同時に来るものに切り替わるらしい。
今水面は落ち着いてはいるが、いずれきっと大きな動きが出るのだろう。
子供とか老人がそんなことになるプールとは知らずにここに居たら、きっと大変なことになると思う。
「え、ここで泳ぐの!? あたし泳ぎまったく自信ないんだけれど。浮き輪欲しいくらいなんだけれど」
「誰が泳ぐかよ。ちょっと捕まってろよ」
結城はそのままプールの中に入る。
背が高い男だから、肩に居るあたしは水面に浸かることがない。水の上に宙に浮いてるような変な気分だ。
結城はそのままじゃぶじゃぶと水を掻き分けて、奥に広がる岩みたいなものが沢山ある場所に移動する。
その岩はひとつひとつが高く、階段のように平らな上面が積み重なっているのは、恐らく波打つ水面からの避難所として用意されているんだろう。
「聞いた話によると、ここには河童が出るらしい」
結城は突然、神妙な声でそんなことを言い始めた。
「河童!? 河童って、頭にお皿がついてるあれ!?」
「ああ。水に潜りながら頭だけ出して睨み付けているのを、夏あたり目撃されていたそうだ。なんでも皿が女みたいな長い髪の毛で隠されていたみたいで、ハゲ頭のようだったとか」
「髪生えた河童!? ああでも、確かに清酒○桜の河童絵も髪生えているか」
「お前古いの思い出すな、何歳だよ」
「結城と同い年よ! だって河童といったらキザ○ラカッパでしょ、むしろそれ以外に河童があるのなら教えて貰いたいわ」
「水木し○るも書いてるかも」
「ああ、なんか昔昔に古本屋で見たかも。髪ありそうだね、確かに。あるんだ、河童に髪の毛」
意外なところで感心してしまった。
「ここからは海や川に出られないだろうから、そこの岩間にまだいるかもしれないぞ、気をつけろよ?」
「気をつけろって、なんでレジャーパークに河童が出るのよ!! どこから紛れたのよ!!」
結城は声をたてて笑う。
「さあな。川獺(カワウソ)と河童は、川に住む仲間みたいだから、お前挨拶されるかもしれないぞ?」
「いらないわよ、挨拶なんて。河童と知り合いになりたくないから! あたしカワウソじゃないってば!」
ギャーギャー言うあたしを結城は笑いながら、岩め高めのところに押し上げた。
「落ち着いた?」
結城の方が低い位置にいて、飛び出た岩に腕を置き身を乗り出すようにしてあたしを見上げている。
「……うん」
結城の優しげな顔に、河童の話は、結城流の落ち着かせ方だとわかった。
「これからは笑い飛ばしては貰いたくねぇけど、だけどそんなに緊張もするな。俺はお前を怖がらせたくねぇんだ。満月のセックスだけで恋愛したくないと八年ブレずにいたお前に、最初にした満月に関する約束取り消させるようにして切り込むけど、俺は俺だ。八年、お前の傍に居た俺だから、安心して」
「うん」
あたしはこくりと頷いた。ちょっと顔が強ばってるのを見て、結城はくすりと笑ってあたしの手を取ると、ぎゅっと握った。
……結城の手が震えていた。
驚くあたしから手を離し、結城は柔らかく笑う。
「な? 河童ほど、怖くねぇだろ?」
言葉と彼の手は裏腹だ。多分それは、結城と向き合うと決めたのに怖くも思うあたしと同じで。
「後ろ見てみな」
「え、河童だったら嫌だよ!?」
「河童なんているわけねぇだろう。いいから後ろ」
「えー」
ドキドキしながら後ろを振り返ると、
「すっごぉぉぉぉい!!」
一面の窓。
そこには海が広がっていて、今丁度太陽が西に傾いて、茜色の夕陽となったところだった。
海に沈むような夕陽を反射した海が、赤く染まりゆく。
それは圧巻な光景で、思わず涙が出るくらいだ。
「苦労して聞き出した甲斐あったよな。穴場なんだって」
それは更衣室から出た時、結城を取り囲んだ女達から聞いたのだろう。
広大な自然のパノラマ。
薄闇に移りゆく茜色が目に鮮やかで、だけど生彩が失われていくのがなにか物寂しくて、見つめていたのは数分なのか数時間なのか。
何回か水のうねるような音が聞こえた気がする。
「陽菜、こっち見て」
結城が堅い声を出して、あたしは振り向く。
結城の黒い瞳が、炎のような赤い光を混ぜて、窓に映る海のように揺らいでいた。
「好きだ」
空気に乗せるように、微かに震えた唇。
だけど視線は痛いくらいまっすぐで、微動だにしない。
「お前と友達で終わりたくない。お前を他の男にやりたくない。俺がお前の望み通り友達のポジションを崩さないできたのは、お前にとって俺だけが一番近くに居る男だったからだ。だけど今、本気で焦ってる。……その意味、お前はわかっているだろう?」
「……っ」
心臓に直撃を食らったように、言葉が出ない。
結城はあたしの中の課長を見ている。
まだ好きかどうかもわからないし、踏み出してもいないあたしの中で、確かに息づいている課長を。
あと三週間後に抱かれたいと思った課長を――。
「いつか俺を見てくれると思った。いつか友達としてではなく、男として……恋人として必要とされると。お前が恋愛が怖いというのなら、俺だけがお前を安心させてやれる男だと。お前が俺となら恋愛をしてもいいと思えるまで、待てばいいと思ってたんだ……」
結城の切なげな眼差しが心に突き刺さる。
痛いと思うのはどちらの心か。
結城の目と言葉から、そらしちゃ駄目だ。
「大学時代、お前が他の男に抱かれている現場を見て、俺……気が狂うかと思った。なんで抱いているのが俺じゃないんだと。なんでこんなになる状態を俺は知らなかったのかと」
泣いていた結城を思い出す。
「あの時、俺は決めたんだ。満月に苦しむお前を守ろうと。長い目で思ってたから、大学卒業して俺達が同期になれたのは凄く嬉しかった。よかった、また一緒に居られるって。俺が女作らないのは、満月のお前を気遣って…とか前に言ってたけど、そうじゃないから。俺が他の女に目がいかないから、作っていなかったんだ。月に一回、惚れた女を目一杯抱けるし、困ることはなかったわ」
結城は笑う。
「でもね、結城。あたしがいたから彼女と別れたんでしょう。あたしが結城を寝取った形になったから」
――この売女! 睦月を返して、あんたが来たから睦月は変わった!
あたしにそう泣いて叫んだ、土橋千里……結城の元カノを思い出す。
あれを思い出す度に、胸が切り裂かれるように痛い。
「陽菜。お前と知り合った時、千里とはもう別れ話をしていたんだ。あいつから告られて付き合ったけど、あまりに束縛が激しくて疲れてしまって。だけどあいつがあと一ヶ月だけ恋人のフリをすれば別れると言われた状況で、お前と会った」
結城が辛そうに笑う。
「……お前の満月の状態を知った時には、まだ一ヶ月になっていない状況だったけど、お前を抱き始めた時は既に別れていた。お前がどう千里から聞いてるかわからないけれど、千里よりお前を優先したと言われているのは、千里が復縁を迫るのを聞き入れずにお前のとこに走った時のこと。陽菜はなにも壊していない。元々なかったんだから」
「初めて……聞いたよ、そんなこと。だってあたし、千里ちゃんから結城は彼氏だって聞いてたし、彼氏を奪った女って言われたよ?」
「俺、千里が彼女だとか付き合ってるとか、俺からお前に言ったことあったか? 俺はとっくに別れてる気でいた」
考えてみれば結城からそう言われたことはない。すべて千里ちゃんから聞いたことだ。結城はシャイだからそんなことは言わないと。
「お前が勘違いしているのがわかったのは、お前に謝られてこれから満月の相手をしなくてもいいからと言われた時だ。あの時"今までありがとう"とお前に言われて、これで終わるのかと思ったら身震いした。だから俺はお前のその罪悪感を利用して、お前を俺に縛りつけた。そうしたら見事に高みに上げられちまったけど、……言ったろう? 俺、お前が思ってるような善人じゃねぇんだよ」
結城はあたしの手とり、親指の腹で手の甲を撫でた。
「……満月の相手をしているのに後悔はしたことないぞ。何度も言うけど、嫌々してねぇから。満月が毎日来ればいい……そう本気で思ってる」
優しげだけど苦しげな声で、結城は無理矢理に笑う。
「なんで満月の関するあんな約束しちまったかなとは思ってる。なんで一ヶ月に一回しかこない満月の日しかお前を独占出来ないんだろうって。なんで自由に昼間から抱き合えないのかって」
「結城……」
「それでも満月だけでも、お前は俺のものになるのなら。他の男に抱かれないのならと、お前のあの"今までありがとう"を聞きたくなくて、お前にこうやって言えなかった。女々しいんだ。俺……ヘタレさ」
結城は、満月の次の日の朝、付き合おうとか言っていたんだ。
それを、満月限定の関係を解消しようと言ってその話を終わらせたのはあたし。知らないふりをしていた。
「友情や同情じゃなくて、本当に恋愛感情なの?」
……今まで、そうやって乗って返すことすらしてこなかった。
簡単に、流してきたんだ。
「ああ、恋愛感情。男としてお前が欲しい。恋人になりたい」
結城ははっきりと言った。
「でも恋愛は終わっちゃうよ? 千里ちゃんとも終わったじゃない」
「ああ、そこも言われると思った。いくら俺が終わらないと言っても、過去は終わっているから。……だけど、お前だけは失いたくない。八年かけて俺はお前に惚れてる。満月の時のお前をひっくるめて、俺はお前がいい」
「……満月の時も……」
「ああ、俺を全力で求めるお前が可愛いよ。俺の名前を呼ぶお前が愛おしいよ。満月の夜のお前を、誰にも見せたくねぇと思う。その役目は、絶対降りたくない。たとえ満月以外のお前の心が、俺になかったとしても」
結城の心が苦しいほど熱い。
「あたしは……結城を都合いい男にしたくないの」
「最悪、それでもいい」
「結城……」
「勘違いしないでくれ。お前の身体が欲しいからじゃない。身体だけでも欲しいからだ。友達とはこんなことはしないって、ひとりで悦に入れるから」
「……っ」
「だけどそういうのを押しつけたくねぇんだよ。それでいいならとっくにしてる。だから今お前に願うのは、恋愛対象に俺も入れてくれということだ」
縋るような黒い瞳。赤く揺れていたものが少しずつ闇色で蠢く。
「男はあいつだけじゃねぇぞ。俺も男だ。お前に惚れてる男だということを自覚して欲しい」
「結城……」
「今すぐどうこうしろとは言わない。八年も待ったんだ、今さら急ぐ気はないけど、さっきも言ったように俺は焦ってる。お前にはそんな姿見せたくなくて余裕ぶってはいたいけど、めちゃくちゃ焦ってる。お前が、あいつにだけは違う態度を見せるから。八年で初めての反応だから。俺とはまた違う特別性があいつにもある気がして」
結城はあたしの手をぎゅっと握った。
「一度寝たことがその引き金になるのなら、俺と何度も寝ていることを思い出せ。満月だからと記憶が鮮明に蘇生しなくても、俺はお前の身体に深く刻んでいる。快楽からでもいい、俺だって男だということを意識して」
結城がここまで想っていてくれたことに、泣きそうだ。
すぐにYESと言えない自分が、どうしても課長がちらつく自分が、嫌でたまらない。なんで結城に染まらないんだろう。こんなに好きで大切なのに。
どうして心にブレーキがかかるんだろう。
どうして……。
――また来てよ。あなたの手料理、食べたいんだ。
どうして課長の声と笑顔が思い浮かぶんだろう。
どうしてあたしを悩ませるのが結城ではないのだろう――。
結城は大切だ。恋愛としても大切に思えると言えないのが辛い。
ここまで言ってくれたのに、なにも返せないのが苦しい――。
「こら、顔を背けるな。おい、なに泣いてるんだよ」
結城が上がってきて隣に座り、あたしの目から落ちた涙を指で掬う。
「俺一生懸命告っているのに、涙を武器するなんて卑怯だぞ」
「……ね」
「ん?」
「ごめんね」
「それはどういう?」
「結城を利用していてごめん。友達と思っていてごめん。結城の優しさに甘えすぎていた。……だからこそ」
結城がたてたひとさし指をあたしの唇に押しつけた。
「……もっと考えろって。YES・NOをすぐ出そうとするのお前の悪い癖。もっと時間かけてゆっくり真剣に考えろ。お前はどうしたいのか」
「でも」
「俺はここからがスタートなの。ゴールじゃねぇよ、そのために告ったんじゃねぇし。俺はこれからお前に恋愛対象として欲しいの、わかった?」
「……ん」
「もう一度」
「……わかった。大切な友達にプラスαを考える」
「友達の方がプラスαだろうが!」
「あ、ごめん!」
結城がぶちぶち言い始めた。
「俺が住んでるところはお前のところに負けず劣らずのボロアパートだし」
「悪かったわね」
「俺が持っている車はフェラーリじゃねぇけど」
「別にあたしフェラーリ好きなわけじゃないから!」
「俺インテリじゃねぇし筋肉馬鹿に近いし、あいつも来た時から課長だし、あいつの経歴に勝るものはないけど」
「あ、社長の息子っていうのは勝ってるかも」
「それは俺の努力じゃねぇだろうが! それはなし、忘れろ!」
「あはははは」
「俺、王子様タイプじゃねぇし」
「あ、どちらかと言えば従者タイプ?」
「お前な! ……くっそ、言い返せねぇ」
笑うあたしを優しく見ながら、結城はあたしの頭を手で撫でる。
「お前、俺のところで笑えるだろ?」
「ん、そうだね。結城といれば安心出来るし、すごく信頼してる」
「だろ? そういうところをよぉく見ていけよ? めっちゃ加点していけよ?」
「あはははは、了解!」
もっと、キツい話になると思った。
こんなに笑い声が出るのは、結城のおかげなのだ。
あたしが気まずくならないように、結城はかなり努力してくれたと思うから。
……あと三週間、考えてみなきゃ。
結城に対するものが課長に対するドキドキに勝るものか。
三週間後にそれでも課長に抱かれたいと思うのか。
友情以上の大切さは、恋愛になることがあるのかどうか。
結城とは終わらないと思えるものか。
結城の真剣さに、あたしも真剣に応えなきゃ。
応援ありがとうございます!
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