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Fighting Moon 6
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見合いの前夜、あたしは朱羽といたかった。
だけど、力になってくれるという名取川文乃の言葉を信じ、名取川家で朝を迎えたが、ろくに眠ることが出来なかったのは、朱羽も同じだったようだ。
寝ている杏奈を残して洗面に出ると、丁度朱羽が顔を洗い終わった時だった。
おはようよりもまず朱羽は言う。
「……約束。今晩、うちに来て」
まるで迷い子が母親を探しているかのように、朱羽の顔は、彼が隠そうとしても隠しきれぬ不安があった。
「そのことだけを考えて俺、やりきるから」
「うん……」
言葉数が少なく、絡む視線は強く長く。
「陽菜……」
朱羽が切ない顔で手を伸ばし、あたしの頬を触ろうとした。
だが、朱羽はその手を丸め、触れるのをやめた。
「……願掛けにする。今日が終わって、あなたに触れるために」
茶色い瞳が揺れて、静かに細められた。
「あなたを永遠に傍におくために」
それは苦しげながら強い語気で放たれ、思わずあたしが泣きそうになった時、複数の給仕さん達の声が聞こえてあたし達は離れた。
すれ違いざま、微かに触れた小指と小指。
それが偶然なのか故意的なのかわからずして、朱羽の温もりが消えた。
彼の温もりを長く感じるために、戦おう。
なにがあっても、たとえ蔑まれてもあたしは朱羽を取り返す。
……そんな決意と、感傷的な気分を吹き飛ばしたのは、朝食のマナーから始まった、名取川文乃の猛レッスン。
昨晩の夕食は洋食、今朝は和食。
なにも気にしたことがなかった箸が難問だった。
「忍月当主は、箸でひとを判断するところがあるの。箸の持ち上げ方から、見られています。木島さん、がっと上から鷲づかみにしてはいけません! 三上さん一本ずつでもいけません。鹿沼さん、下からそんなに箸先を掴まないの!」
OH、お腹がすいているから普通の癖が出てしまったよ。
「右手で箸の中央あたりを上から摘まむように少し取り上げ、次に左手を下から添えて、右手を右端に滑らせ箸の下に添え、そして持つ。置くときは、それを逆に。はい、やって見て下さい」
逆、逆……。
頭がこんがらがってくる。
アメリカ帰りの朱羽の方が、お箸歴が長いあたしよりも、所作が自然で上品だ。
まさかハンバーガーを、お箸で食べていたとか?
「はい、では箸置きに箸を置いて。その状態でお椀をお箸で頂いて下さい」
ええと、お箸は両手から持って……、そうするとお椀のふたは左手で開けないといけないの? 汁もので重いお椀を左手で持ち上げるのも、なにか苦しいぞ。
ふたがついたお椀、どうやって飲むんだ!?
あれ、どちらの手が箸? お椀?
誰もがパニックになり、お椀を持てない。
朱羽は?
「はい、香月さん合格。そう、臨機応変よ」
なにをやったのか見ていなかったあたし達に、名取川文乃は実演してくれた。
両手でお椀の蓋を取り、そのまま両手で持ち上げた。箸を右手だけで掴むとお椀を持つ左手の指に挟んで箸を持ち上げ、右手を下から滑らせ箸をを持つ。鮮やかなるその所作、あっぱれだ。
お椀を持つ時、持たない時と何度もやり直しをされて、なんとか指が攣りそうになりながら出来るようになった時、食べてみなさいと言われる。
見られていると箸がうまく動かず、ばってんになる。
お豆が取れない。煮っ転がしが掴めない。
ぐさりとさしてしまうと、名取川文乃の目がつり上がり、慌てて箸を抜いた。
ひぃぃぃっ、ごめんなさい!!
木島くんがお椀に箸を入れてずずっと飲むと、そちらを見た彼女の頬がひくひくと動く。
やはり取れないにっころがしを、杏奈が箸を揃えて掬って食べれば、さらに反対側の頬がひくひくと動いた。
なにか怖くて、箸先を噛んでしまえば、さらにぎろっと怖い目が寄越された。
なにをやっても怒られてしまう身の上は、どうやって箸を使って朝食が食べられるのかがわからない。
木島くんから空腹を知らせる音が鳴り響く。彼も迂闊には食べられなくなってしまったらしい。
その中で朱羽が食べている。
黙々とお腹に入れている。
……彼女に注意されない。
「課長、お箸の使い方も習っていたっすか?」
木島くんの問いに、朱羽は頭を横に振る。
「渉さんが、昔教えてくれて。今、普段通りにしていたんだけど……」
ああ、さすがは本家育ちの宮坂専務。
彼が朱羽に仕込めるということは、彼もまた本家でそう教育されていたのだろう。つまり、当主も箸さばきを注視するんだ。
「ふぅ……。そんな彼に引き替え、あなた達はやってはいけない食べ方を、すべて網羅してしまっているとは」
名取川文乃が頭を抱えて、ふらりとよろけた。
「いいですか。食べ物を突き刺してはいけません。お箸についたご飯を口でとってはいけません。料理に箸を伸ばしてとりかけてやめて、他の料理に移ってはいけません。汁を垂らして食べてはいけません。箸を持った手で器をとってはいけません。おかずばかりを食べてはいけません。器に口をつけてかき込んではいけません……」
その他たくさん言われたが、これ以外の食べ方ってどんなものがあるのか、逆にわからなくなってしまう。
「鹿沼さん!! せめてあなただけでも、頭に叩き込みなさい!!」
……朝ご飯が食べれたのは、それから三十分後のことだった。
いかに庶民は、自由にがっついて食べられるか、それを思い知りながら、そういえば衣里姫は食べ方が綺麗だったことを思い出す。
やはり生まれや育ちが、箸の使い方に出てしまうのなら、もっと頑張って上品に食べれるようになりたい。
当主対策というより、あたしのなけなしの女子力がそう訴えた。
あたしは、女子力も知識もなさすぎるようだ。
ご飯が食べ終えれば、茶室に行き昨日のおさらいが始まる。
お茶だけではなく、お花もひと通り習った。
あたしが活けるお花のセンスだけは、なんとか及第点を貰っている。
色や配置のセンスを求められるWEB部での経験値が、ようやく役だってくれたようだ。
……なぜ、朱羽を財閥から遠ざけようとしているあたしが、財閥に近づくための猛特訓をしているのか。
それは昨日の、心頭滅却からの話に隠されていると思う。
忍月財閥当主や、朱羽の義理の母親(美幸さんというらしい)の懐に入るためには、彼らと同化しないといけない。そこで初めて、話が出来る土俵に上がれる。
作法だけではなく、最低限持たねばならないといけない知識も習った。
現代日本に居座る、忍月や向島などを含めた五大財閥の成り立ち、財界・政界・経済界の誰が誰と手を組んで、それらが過去の歴史においてどういう力を持つものか。
朱羽が足を踏み入れている世界は、本当に頭が痛いものだ。
人間がひとり生きていくのに、そんな知識は要らないが、話の場につくための試験として、わからないことを前提で聞いてくるのが当主だと教えられれば、ムーン入社時の月代会長を思い出してしまう。
実際はそこまで必要としない知識でも、それを選考の基準とされたことに、なにかやりきれない理不尽なものを感じながら、あの時もなんとか必死で覚えて乗り越えた。今は朱羽以外にも杏奈も木島くんも、あたしにクイズを出す形、或いはわからないことを積極的に名取川文乃に質問する形で、あたしに覚えさせようと協力してくれるから、その思いに応えるためにもあたしは頑張った。
根性だけは誰にも負けない。
「人間が一番力が発揮出来るのは、一夜漬。とにかくも鹿沼さんは、記憶が薄れる前の今日、恐らくはテストをされるはず」
「て、テストですか!?」
「さあ、一夜漬のお嬢様を作り上げるわよ!」
青ざめて慌てるあたしとは対照的に、なにやら名取川文乃は興奮したように嬉しそうだった。
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