勿忘草は、ノスタルジアな潤愛に乱れ咲く

奏多

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2.リナリアは、この恋に気づいて欲しいと訴える

その言葉を信じられない

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 慌てて首を手で抑えた香乃は、全身から血の気を引く音を聞いた。

 牧瀬とのことがわかったのならわかったでいい――そう思っていたはずなのに、見られてはいけないひとに秘密が露見したような、緊迫した気持ちに頭の中が白くなる。

 すべてを見透かすような勿忘草の色が、欲に逃げた罪を咎めているかのようだ。
 はくはくと呼吸が引き攣れ、うまく酸素を取り込めない。

 警鐘のように、白い脳裏で赤い火花が散りながら広がって。
 耳元のピアスのごとき真紅色が勿忘草色を凌駕し、また勿忘草が見えなくなっていく。

 それに既視感を覚えた香乃は、ぼんやりとした頭の中で急ブレーキの音をきいた。

 ああ、あの怖い夢だ。
 少年が勿忘草と共に血に染まって死ぬ夢。
 自分から消したい思いが、今度は白昼夢を呼び覚ましたのか。

 ケシタイノハ、ナニ?

(逃げなきゃ)

 香乃はそう思った。
 九年前に小指を絡めた時に、恋が爆ぜて火花を見た。
 九年後は恐怖となり、やはりすべてから逃げることしか思いつかなくて。

 香乃は震えながら立ち上がった。
 だがふらついた足が、足元の花や花瓶に躓いてしまい、身体が傾いてしまう。
 真下にあるのは、赤いバラの山。
 棘の上に倒れる――血に塗れる自分の姿を思って目を瞑った香乃は、頬に風を感じた。
 そして、ぐいと腕を引かれ足が持ち上がり……勿忘草の香りに包まれた。

「危ない……。綺麗な肌に傷がつかなくてよかった」

 耳元に掠めるのは、上擦ったような深みのある声。
 真宮に横抱きにされていることに気づいた香乃は、そこから逃れようと暴れる。
 しかし香乃の身体にある真宮の二の腕がそれを許さなかった。
 逆に香乃を制するように、ぎゅっと強く抱きしめられる。

 ぶわりと、香乃の中で勿忘草が咲いた。

「やっ、離し……」
「逃げないで!」

――逃げないで。

 耳に聞こえる声は、九年前のものか、それとも現在のものなのか。
 地に足が着かない不安定な状況で、パニックとなっている香乃の意識が、過去と現在の狭間を揺蕩い始める。

 かさり、かさりと音がする。
 勿忘草と共に香るのは……古い本の匂い。

 ……ただ、ひどく懐かしく。

「いつだって俺は、あなたを怖がらせたいわけじゃない。ただ……」

――怖がらせたいわけじゃない。ただ俺は……。

 ひどく、切なくて――。

「ただ、この手からあなたを逃したくないんだ。我慢し続けるのは苦しすぎるから」

――俺は、あなたを……。

 九年前に戻ったかのように、ひどく……彼が恋しい。

 彼のすべてにドキドキしていたあの頃。
 彼の熱に自分がどうにかなってしまいそうだった。

 好きで、焦がれて……たまらなかった。
 彼と始まる明日を、心待ちにしていた。
  
「蓮見さん……」

 香乃の頬に熱いものが伝い落ちる。
 滲んだ視界の中で、こちらを見つめる勿忘草の瞳が揺れている。

「泣かないで」

 真宮の片手の指が、香乃の涙を拭う。

「あなたを苦しめたくないのに、悔しいことに、どうすればあなたが泣き止むのか俺にはわからない」

 本当に困っているように聞こえて、香乃は言った。

「下ろして下さい」
「え?」
「お姫様抱っこが恥ずかしいんです。とりあえずは下ろして下さったら、涙が止まるかと……」
「……下ろす、ですか? ……わかり、ました」

 なぜだがひどく残念そうな様子で、壁際に立った真宮は、静かに香乃を畳に立たせる。

(今こそ、逃げる好機!)

 真宮の横を走り抜けようとした香乃だったが、見越していたかのように真宮の両手が壁について、簡単に閉じ込められてしまった。

「すみませんが、逃がすつもりはありません」

 見下ろされる熱視線が、香乃に降り注ぐ。

「どんなにあなたに嫌われていようとも、もう二度と逃がさない。後悔は一生分してきましたから」

 物憂げなのに、捕食の意思を見せる碧眼は、妖しげに揺れながら香乃を捕らえようとして。

「嫌って……嫌っているのは、あなたの方……」

 魅惑的な蒼に呑み込まれつつあった香乃は、声を掠れさせてしまう。
  
「……俺が? あなたを嫌うものか。ずっと、あなたに会いたくてたまらなかったのに」

 苦しげに、そして切なげに細められたその目は、香乃の心をぎゅっと絞る。

「昨日もずっと、あなたからの電話を待っていました」

 自嘲気味に告げた真宮は、表情を隠すように俯いて続ける。

「……だからあなたを独占した牧瀬さんに、嫉妬で狂いそうになっていました。大人げない態度をとってすみませんでした」

(電話は遊びの誘いでは? え……嫉妬って……)

 香乃はなにか、自分の思考と真宮の言葉との間に齟齬を感じた。
 しかしそれを疑問に思う前に、またもや九年前の香乃の縛めが蘇ってしまう。
 
――ホズミは、全く先輩に気持ちなんてないと言っていました。

 仄かな期待すら、ちりぢりにされたのだ。

――これが、ホズミの返答です。

 それをまたくり返そうとしているのか。
 香乃にその気がないから、堕としにかかっているとか?

 心がみしみしと、悲痛な音を立てている。

(騙されてはいけない)

 ……そして香乃はまた、いつもの頑ななまでの教訓を胸に抱くのだ。

 そんな香乃にお構いなしに、真宮は言う。

「……あなたが今、誰を見ていてもいい。でも……もしも、あなたを求めすぎるあまりにあなたに嫌がられてしまった、子供すぎた俺を許してくれるのなら」

(調子のいい言葉だこと)

 真宮の言葉はどこまでも、ざらついた香乃の心に不協和音を奏でる。

「いいえ、あなたが昔を厭うならば、昔をなかったことにしてもいい。だから、今の俺を見て下さい。今度こそ俺は、あなたを離したくない」

 ああ――。
 苛立ちと悲しみと怒りとで、膨らみ続けている心が、ぱぁぁんと弾け飛びそうだ。

「蓮見さん」
「……っ」
「……そんなに唇を噛みしめないと、俺の言葉は聞けませんか?」

 加害者が、被害者のような顔をしていることに香乃は苛立って。
 同時に、彼にこんな表情をさせてしまうことに、自己嫌悪になってしまう。

「どうすれば、あなたの信用をえられますか? ……蓮見さん。俺はなにをすれば、遊び人ではないとあなたに信じて貰えますか?」

 その必死さに絆されかかってしまったけれど、香乃に蘇るのはあの声だ。

――これが、ホズミの返答です。

「嘘つき……」

 香乃から出て来たのは、怒りの言葉だった。

「嘘嘘嘘嘘! 嘘ばっかり!」
「え?」
「ええ、九年前。確かにわたしは……恋人がいるあなたが好きでした」
「恋人って……」
「しらばっくれずとも結構です。わたしは知っていますので。わたしは世間知らずでしたので、あなたの手管に堕ちました。あなたが望まぬ心の交流を求めてしまったために、目の前で勿忘草の手紙を破られました。それがあなたの意思だということもすべてわかっています」
「な……」

 驚いたような表情を見せる真宮が、恨めしくて仕方がない。

 そこまで自分が傷ついているとは思っていなかったのか。
 それとも、記憶にすら残っていなかったのだろうか。

「九年後も……わたしを馬鹿にしているんですか? 誘えば尻尾をふって、喜んであなたの性処理になる、そんな女に見えているんですか? すみませんが、私はそこまで暇な女じゃないんです」
「蓮見さん、誤解だ。俺は――」

 悲壮な表情をした真宮が、香乃の肩を鷲掴む。
 それを渾身の力で振り払い、香乃は激高して叫んだ。

「誤解だと言うのなら、わたしに返して! ちりぢりになったわたしの勿忘草を返してよ!!」

 ただ頭に浮かぶのだ。

 勿忘草が。
 古本が。
 図書館が。
 散った火花が。
 千切られた勿忘草の手紙が。

 様々な思い出が断片となり、交差する。

「俺じゃない。そんなこと初めて……」
「はははは。それをわたしが信じるとでも? そこまでわたし、ちょろい女ですか?」

 香乃は笑う。
 泣きながら、声をたてて笑う。

 身体の中に火花が見える。
 ……限界を迎えて、ショートしているのだ。

「あなたへの恋心は、勿忘草の手紙と共に散りました。二度と、わたしの中で勿忘草は咲くことはない」

 今も尚、恋の残滓が忘れないで欲しいと叫んでいる。
 それを無視して、香乃は強制終了をする。

「真宮総支配人。九年前、甘くて……思い出したくもないほど、苦い恋を教えていただき、ありが……」

 しかし真宮は最後まで言わせなかった。

「違うと言っているだろう!? 俺は、俺はずっとあなたを――!!」

――俺は、あなたを……。

 苦しげに目を細めた真宮が、香乃の唇を奪おうとする。

――……嫌なら、俺を殴って。……俺を止めて下さい。

「やっ!」

 香乃は両手の手のひらを差し込んで、真宮を拒んだ。

「遊ぶなら、他のひとにして!」
「遊びじゃない!」
「もう、わたしは傷つきたくない!」

 香乃からぽろぽろと涙が零れ、とまらない。
 真宮はびくりと肩を震わせ、震える息を吐いた。

「……泣きたいのは、俺の方だ」

 ガンッと拳で、香乃の上方の壁を叩く。
 ガン、ガン、ガンと……拳から血が出るまで強く。

「……蓮見さん」

 香乃の視界に、蒼い瞳と真紅色が滲んだ。
 ぐにゃりと、なにかが歪んだ気がした。

 凄惨な顔をした真宮が、痛々しく微笑む。

「あなたを泣かせたくはない。けれど、はいそうですかと、俺は引けないところにまで来てしまっているんです」

 彼は香乃に耳打ちするように顔を近づけ、すり、と……、香乃の頬に自分の頬を摺り合わせた。

 不意打ちの接触。
 瞬間、香乃の身体の深層で、ショートゆえの火花が激しくなった。

「必ず誤解は解きます。だけどこれだけは言っておきます。俺は遊び人ではない。俺は……一途に、あなたのことを想っています」

 バチバチと爆ぜる火花が、なにかの映像をちらつかせながら、香乃の核に迫ってくる。
 
「だからそういうのが……」

 欲しかった言葉なのに、貰った今はただひたすら悲しくて。

「信じてください」
「信じられない」
「それでも信じて下さい。信じようと努力して下さい。最初からダメだと切り捨てないで、昔のように俺に心を下さい!」

 牧瀬の言葉をなぞるようにして、悲鳴のように真宮の声が荒げられた。

 香乃を見据える蒼い瞳。
 透き通るような瞳の奥で、勿忘草が大きく揺れている。
 
 あれは――。
 
 皮肉気な口元。
 黒髪から覗く、蔑むような蒼い瞳。
 ちぎり取られる、哀れな勿忘草。

「俺は――蓮見さんが好きです」

――嘘だと思う?

 誰かが嘲笑っている。
 その声は真宮の声にも似て。

 ああ、これはなんの記憶なのか。
 自分は、いつから勿忘草を好きだった?

――嘘だと信じるも真実だと信じるも、すべてはきみ次第だ。

 ……火花が、香乃の核で爆発した。

「もう騙されないわ! あなたはわたしを嫌いなのよ」
「蓮見……」
「あの時、くせに!」

 どこかでキキーッと急ブレーキの音が聞こえる。

「だけどわたしが助かったから、わたしに罪悪感を植え付けるために、勿忘草を血に染めて死んだんでしょう!? だけどわたしが忘れてしまったから、今度は生き返って、その気があるように見せて、わたしを笑いものにしたいんでしょう!? あなたは……きーくんは!」

 碧眼が見開かれる。

「なにを言っているんだ、蓮見さん、あなたは錯乱しているんだ。落ち着いて、落ち着くんだ」
「嫌嫌嫌! 離して、離してよ! もう嫌だ。傷つきたくない、わたしももうなにも見たくない!」
「蓮見さん……蓮……!」

――きみの……、そう香乃次第。

 名前が呼ばれた瞬間、急激に薄れていく意識の中で牧瀬の怒鳴り声を聞いた気がした。

 
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