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2.リナリアは、この恋に気づいて欲しいと訴える
視線の先にあるものは
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真宮は自分から持ちかけた仕事であるのに、話を河原崎に任せていた。
時折話を振られて話すことがあっても、香乃には素っ気なく視線を外す。
香乃が真宮に尋ねてみても、あからさまな無視にならない程度にすっと目を背けるのだ。
傍目には控え目で物静かにもみえるその仕草は、昨日まっすぐに目を合わせてきた真宮を思えば、故意的なものだと香乃に感じさせた。
あまりにも強烈な思い出を残す、真宮の蒼い双眸は、香乃は正直、苦手だ。
だから視線が合わないのならやりやすいはずなのに、真宮と視線が合わないことにショックを受ける。そしてそんな風に思う自分がいることに、さらにショックを受けてしまう。
(どうして……)
別に視線を交わしたいわけではない。
声をかけてもらいたいわけでもない。
できるなら関わり合いたくないと、拒んできた。
それなのに、彼から背けられる視線に、こんなに泣きそうになってしまうとは。
自分の世界には彼の残像があるのに、彼の世界からは自分が消えている――九年前が現在進行形で進んでいるかのように苦しくて。
――蓮見さん。
意味ありげにされた態度は、やはり彼にとっては気まぐれで。
一夜経てば興味を失う程度のものだった。
電話をかけようかななどと迷うこともなく、番号を書かれた紙を捨ててしまったけれど。
もしかすると電話がかかってこなかったから、彼は遊びを諦めたのかもしれない。
……きっとそうなのだろう。
誘いにのってこない女に、興味などないのだ。
これこそが、本来あるべき姿の……彼と自分の関係――。
――あなたにとって俺は、そういう男に見えているんですか?
わかっているのに、どうしてここまで被害者意識が募るのか。
どうして、自分だけ過去に置き去りにされた感覚が抜けきらないのか。
「……さん?」
――覚えているんでしょう? 俺とのこと……。
(過去を否定したのは、わたしの方なのに)
頭がぐちゃぐちゃになる。
自分はなにに対して傷つき、なにをどう望んでいるのか。
それは、勿忘草の咲かない世界で強く生きることだと思うのに――こうしてまだぐだぐだと出口のない答えを求めている理由はなんなのか。
(わたしには牧瀬がいる。なにひとつショックを受ける筋合いはないのに)
「蓮見さん?」
「おい、蓮見?」
目を瞑って心を落ち着かせた香乃は、突然肩を揺さぶられて目を開いた。
すると訝しげに覗き込んでくる河原崎と牧瀬の眼差しに驚く。
「な、なにか……?」
「なにかじゃないだろう? さっきからあさっての方向を見て突っ立ったままのお前を心配して、支配人が声をかけてくださっていたのに」
「も、申し訳ありません」
香乃は慌てて河原崎に頭を下げた。
物思いに耽って、クライアントに心配されるなんて社会人失格だ。
(わたしは、なんのためにここに来たの!)
一行は既に幾つもの事務員がひしめく部屋を見終わった後であり、今は客室が並ぶ宿泊棟のエレベーターの中だった。仕事は既に、花のコンサルタントの方へと移り変わっていたようだ。
(やばい。まるでなにひとつ記憶にない。あとで牧瀬に聞いて、土台の案を練らなきゃ)
……真宮はなにも言わず、先にエレベーターを降りると、扉を手で抑えて香乃達を外に出した。
紳士的に振る舞う彼の表情は、香乃からは窺い知ることは出来なかった。
「随分とお疲れのようですね」
河原崎が労うというよりは揶揄めいて、眼鏡の奥の目を細めた。
「いえ、そんな……」
まるで蛇のような眼差しだ。
僅かにぞっとしながらも、香乃は愛想笑いで答える。
「徹夜で励んでいらっしゃったのですか? 牧瀬さんと」
「え……」
牧瀬とのセックスを見透かされたと、香乃はぎくっとした。
それは、顔を見合わせた牧瀬も同様だったようで、引き攣った顔を河原崎に見せるが――。
「大変ですね、MINOWAさんの営業は。徹夜するほどお仕事がお忙しいなんて」
「え……お仕事……」
牧瀬らしくもない裏返った声を出す。
その気持ちは香乃もよくわかる。
「はい。お仕事以外に、おふたりのスーツが昨日と同じ理由は、なにかありますでしょうか?」
河原崎の問いに、ふたりは乾いた笑いを響かせた。
「いやいやいや。そうです、お仕事です! な?」
「そうです、そうです! お仕事を徹夜して頑張ってました!」
支配人の慧眼恐るべし。
同じスーツだということを見破られてしまっていたらしい。
(気づいてるの? いやいやここはぼろを出さないように話を変えよう)
「ええと、ここには……」
真宮はひとり……エレベーターホールに飾ってある花瓶を撫でているようだった。
その背中は寂しげにも思えて、心がぎゅっとなる気持ちを抑え込む。
河原崎の際どい言葉を、彼は聞いていたのだろうか。
(だから寂しげなんて、自惚れるなわたし!)
聞こえていないのだろうと思うことにした。
仮に聞こえていたのだとしても、牧瀬との仲がわかったのならわかったでいい。
真宮の誘いには乗らず、自分の意思で牧瀬と一夜を共にしたのだ。
そこから香乃の気持ちを汲み取ってくれればいい。
そこまで考えて、香乃は自分自身に苛立ってしまった。
(ああ、もう! いちいち彼を気にして言い訳しているわたしって最悪!)
仕事中の自分は、せめて係長らしくきりりと。
肩書きをもった以上は、私情抜きに仕事をとれるように最善をつくしたい。
自分に活を入れた香乃は、ふと真宮が触る花瓶に生けられているのが、ドライフラワーだということに気づく。
香乃の訝しげな視線に気づいたのは、河原崎だった。
彼もまた、なぜか香乃の動向に目敏い。
「ドライフラワーは生け替えることがないので、今春から各階において重宝しています」
河原崎がそう説明した。
「あ、あの……こちらのホテルでは、縁起を担いだりすることはないのでしょうか」
元々昨日の入り口近くの花瓶に生けていた花々も、場にそぐわないような不吉なものもあった。
真宮の口ぶりを思い出せば、それはホテルの方針ではないらしいが。
河原崎は答えた。
「ブライダルは勿論、色々と吉兆を考えてプランをたてたり、風水なども取り入れたりと気にしてますが……もしかして縁起が悪いんですか、ドライフラワーって。花担当はそんなこと一言も言わなかったので」
(昨日の花を生けたのと、同じ担当さんなのかしら……)
「ドライフラワーは枯れた花。風水的には『死んだ花』とされているので。特にお客様をお出迎えするような場所に置いておくのは控えた方がいいかなと。生きた状態の瑞々しいまま半永久的に加工したプリザードとはまた違いますし」
「え……」
真宮も顔を上げたが、香乃ではなく河原崎に向けられた。
美しい顔が、渋いものになっている。
「ただドライフラワーにも味があります。アクセントに使ったり、たとえばリースとか小物とかはいいとしても、お客様用に大々的に枯れた花を飾ることがどうもひっかかります。しかも通気性が悪そうな花瓶なので、衛生的な面も心配です」
「衛生的……」
河原崎は、思ってもいなかったというような反応をしている。
「今春から放置状態だったんですよね。梅雨時期に、乾燥剤とか防虫剤とかなにか特別な手当は?」
「いえ、特になにも……」
「お花担当さんはなにか保存の方法についてとか、なにか散布したとか仰られていましたか?」
「特には聞いておりませんが……」
香乃はつかつかと真宮の隣に立つと、大輪のバラのドライフラワーを一本引き抜いた。
すると茎のところどころに白いカビが生えており、さらには小さな虫も動いている。
衛生的という言葉を使った香乃の意図するところを知り、真宮も河原崎も絶句したようだ。
風水云々はさておき、衛生に気をつけないといけないホテルで、カビや虫の発生は避けたい。
……というのはわかる。だから香乃は指摘した。
これらのドライフラワーは早めに取り払って、活き活きとした生花か、せめてプリザードフラワーでお客様をお迎えした方がいい――と香乃が提案したところで、本日の予定時間終了。
ぼうっとしていてコンサルタントの仕事は出来なかったが、花についてはそれっぽい仕事が出来て終われたと、内心満足していたはずだった。
それがなぜ自分は、和室で合計二十個の花瓶に取り囲まれながら、花を生けることになったのだろうか。
遡ること一時間前――。
――総支配人、大変です。今日は担当だけではなく花屋自体が定休日。今から大量の花を揃えるのも無理です。
そう河原崎が騒ぎ立て、ならば明日にすればいいのではと思わず声をかけそうになった。だが険しい顔をした真宮が、香乃の実家を脅かす……東京で至るところにあるフラワーショップなら無休の看板を掲げているから、そこに頼もうかと口にして……牧瀬が待ったをかけた。
――すみません、私にツテがあります。蓮見、支配人の手伝いをしてろ。
河原崎限定の手伝いを言いつけて、真宮も河原崎の了承も得ていないのに牧瀬は、香乃を置き去りにした。
当然後のフォローは香乃に託されたため、香乃ひとり会社に戻るわけはいかない。
相方が花屋から帰ってくるまで出来る仕事として、真宮や河原崎と協力して花瓶をひとつの部屋に集めた。ドライフラワーはカビが生えてしまえば再利用できない。そのため心で詫びながらゴミ袋に入れていく。
そして三十分ほどで、牧瀬は大量の花を抱えて戻ってきた。
……香乃の実家の、花屋名が記載された小型トラックを借りて。
(なぜに、どちらも娘に話を通さぬ……)
牧瀬なりに実家の利益やコネになるように動いてくれているのだろうが、満面の笑みで戻ってくる姿を見ると、もしかして彼は、実娘よりも家族に愛されているかもしれないとすら思う。
――蓮見さん、これから生けていただけますでしょうか。こちらとしましては蓮見さんが頼り。牧瀬さん、蓮見さんの上司として、お忙しい蓮見さんを拘束してしまうことをお許し願えませんか。
言葉ほどには申し訳なさそうな顔をしていない、河原崎に懇願された。
――なにより真宮総支配人が困っているんです。蓮見さん。真宮が!
河原崎は真宮の名を強調すると、真宮は仕方がないというようにため息をついた。
そしてどこか気怠そうな真宮は姿勢を正して、香乃に頭を下げると、牧瀬ではなく香乃にすっと目を合わせた。
――蓮見さん。お願いします。
ようやく、香乃に向けられた勿忘草の瞳。
冴え冴えしい色合いの碧眼に、相反した炎のような赤が揺らめいていた。
どくり。
香乃の心臓が大きく脈打った……ところまで覚えている。
そして気づけば、花を生けている現在に至る。
(そもそも、なんで今日じゃないといけないのかしら)
そう思いながら、葉を間引いた茎を、バケツに溜めた水の中で、ハサミで斜めに切り落としていく。
斜めに切るのは水切りといい、水を吸い込む断面の面積を広げるのだ。
ハサミはホテルの事務用ハサミを借りたため、切れ味をよくして雑菌をおさえるために、河原崎から借りたライターの火で炙っている。優等生のように思える河原崎が、タバコを吸うとは意外だったが。
ドアは開いてはいるが、コンコンと後方でノックの音がして誰かが入ってくる。
「蓮見、水! あとは?」
水を入れた花瓶を運んできた牧瀬である。
牧瀬の他に、真宮と河原崎が順次花瓶を運んできていたが、体力に自信がある牧瀬は客の手を煩わせないようにと、力仕事を一手に引き受けているようだ。
「ありがとう。じゃあ出来上がった花瓶を、総支配人か支配人に聞いて戻してきて貰える?」
「了解!」
本来ならば下っ端の仕事だ。真宮も河原崎も自分達で動かず、ホテルの従業員に指示すればいい。もしくは上のふたりが動いているのなら、従業員の誰かがすっ飛んで来て、ここは自分達が手伝うのでと申し出ることはないのだろうか。
(よくわからないホテルよね。上司と部下とが分断しているみたい)
シートを敷いた和室の中、借りたバケツで水揚げをしている花を、感覚に任せて一本一本花瓶に挿していく。
(うわ、この赤いダリア可愛い。こっちも蕾が咲くといいなあ)
花を生けている瞬間が、一番好きだ。
もやもやしているものすべてを忘れて、綺麗な心にリセット出来るから。
「あ、リナリアだ……。季節外れたのに扱っているんだ……」
香乃が手にしたのは、白く小さな可憐な花だ。
金魚のような花を咲かせるキンギョソウよりも小さく、姫金魚草とも呼ばれる。
花言葉は――。
「〝この恋に気づいて〟、か……」
恋をしている花。
恋を忘れようとして、恋をしようとしている自分は、どうしたってこの花にはなれやしない。
(こんな感傷、わたしには不必要!)
香乃はバッグから赤い髪ゴムを取り出すと、ひとつに束ね、気持ちを新たにする。
コンコン。
やがてまたノックの音がした。
牧瀬だと思った香乃はリナリアを花瓶に挿しながら、振り返らずに言った。
「ありがとう。疲れたでしょう、ちょっと休憩してて。どんなに牧瀬が体力あっても、あんまり寝ていないのはキツいから」
しかし、いつものような応答がなく。
香乃は訝って、後ろを振り向いた。
そこにいたのは牧瀬ではなかった。
壁に身体を凭れさせて、気怠そうにこちらを見る――真宮が立っていた。
香乃の心が軋む。
「……っ、お疲れ様です、総支配人。もう少しで終わりますので」
真宮は微動だにしない。
ただじっと香乃を見つめている。
ずっと合わせなかった、勿忘草の瞳で。
「ええと、なにか御用でしょうか」
その眼差しには、悲しみや怒りが渦巻いているように思えた。
言うなれば、今にも雷でも落ちそうな危殆さを孕んだもので。
(なにか、怖い)
まるで監視しているかのように居座る真宮に、恐る恐る香乃はもう一度尋ねた。
「総支配人。どんな御用でしょうか?」
真宮は、重々しく口を開いた。
「……昨夜は、牧瀬さんといたんですか」
「え?」
河原崎との会話を聞いていて、それをぶり返してきたのだろうか。
静かに、真宮のひとさし指が持ち上げられ、香乃の首に向けられる。
「キスマーク、ついてます。うなじに」
……否、ぶり返したわけではない。
彼の目は、不埒な自分を見抜いているのだ。
どくりと、香乃の心臓が不穏な音をたてた。
時折話を振られて話すことがあっても、香乃には素っ気なく視線を外す。
香乃が真宮に尋ねてみても、あからさまな無視にならない程度にすっと目を背けるのだ。
傍目には控え目で物静かにもみえるその仕草は、昨日まっすぐに目を合わせてきた真宮を思えば、故意的なものだと香乃に感じさせた。
あまりにも強烈な思い出を残す、真宮の蒼い双眸は、香乃は正直、苦手だ。
だから視線が合わないのならやりやすいはずなのに、真宮と視線が合わないことにショックを受ける。そしてそんな風に思う自分がいることに、さらにショックを受けてしまう。
(どうして……)
別に視線を交わしたいわけではない。
声をかけてもらいたいわけでもない。
できるなら関わり合いたくないと、拒んできた。
それなのに、彼から背けられる視線に、こんなに泣きそうになってしまうとは。
自分の世界には彼の残像があるのに、彼の世界からは自分が消えている――九年前が現在進行形で進んでいるかのように苦しくて。
――蓮見さん。
意味ありげにされた態度は、やはり彼にとっては気まぐれで。
一夜経てば興味を失う程度のものだった。
電話をかけようかななどと迷うこともなく、番号を書かれた紙を捨ててしまったけれど。
もしかすると電話がかかってこなかったから、彼は遊びを諦めたのかもしれない。
……きっとそうなのだろう。
誘いにのってこない女に、興味などないのだ。
これこそが、本来あるべき姿の……彼と自分の関係――。
――あなたにとって俺は、そういう男に見えているんですか?
わかっているのに、どうしてここまで被害者意識が募るのか。
どうして、自分だけ過去に置き去りにされた感覚が抜けきらないのか。
「……さん?」
――覚えているんでしょう? 俺とのこと……。
(過去を否定したのは、わたしの方なのに)
頭がぐちゃぐちゃになる。
自分はなにに対して傷つき、なにをどう望んでいるのか。
それは、勿忘草の咲かない世界で強く生きることだと思うのに――こうしてまだぐだぐだと出口のない答えを求めている理由はなんなのか。
(わたしには牧瀬がいる。なにひとつショックを受ける筋合いはないのに)
「蓮見さん?」
「おい、蓮見?」
目を瞑って心を落ち着かせた香乃は、突然肩を揺さぶられて目を開いた。
すると訝しげに覗き込んでくる河原崎と牧瀬の眼差しに驚く。
「な、なにか……?」
「なにかじゃないだろう? さっきからあさっての方向を見て突っ立ったままのお前を心配して、支配人が声をかけてくださっていたのに」
「も、申し訳ありません」
香乃は慌てて河原崎に頭を下げた。
物思いに耽って、クライアントに心配されるなんて社会人失格だ。
(わたしは、なんのためにここに来たの!)
一行は既に幾つもの事務員がひしめく部屋を見終わった後であり、今は客室が並ぶ宿泊棟のエレベーターの中だった。仕事は既に、花のコンサルタントの方へと移り変わっていたようだ。
(やばい。まるでなにひとつ記憶にない。あとで牧瀬に聞いて、土台の案を練らなきゃ)
……真宮はなにも言わず、先にエレベーターを降りると、扉を手で抑えて香乃達を外に出した。
紳士的に振る舞う彼の表情は、香乃からは窺い知ることは出来なかった。
「随分とお疲れのようですね」
河原崎が労うというよりは揶揄めいて、眼鏡の奥の目を細めた。
「いえ、そんな……」
まるで蛇のような眼差しだ。
僅かにぞっとしながらも、香乃は愛想笑いで答える。
「徹夜で励んでいらっしゃったのですか? 牧瀬さんと」
「え……」
牧瀬とのセックスを見透かされたと、香乃はぎくっとした。
それは、顔を見合わせた牧瀬も同様だったようで、引き攣った顔を河原崎に見せるが――。
「大変ですね、MINOWAさんの営業は。徹夜するほどお仕事がお忙しいなんて」
「え……お仕事……」
牧瀬らしくもない裏返った声を出す。
その気持ちは香乃もよくわかる。
「はい。お仕事以外に、おふたりのスーツが昨日と同じ理由は、なにかありますでしょうか?」
河原崎の問いに、ふたりは乾いた笑いを響かせた。
「いやいやいや。そうです、お仕事です! な?」
「そうです、そうです! お仕事を徹夜して頑張ってました!」
支配人の慧眼恐るべし。
同じスーツだということを見破られてしまっていたらしい。
(気づいてるの? いやいやここはぼろを出さないように話を変えよう)
「ええと、ここには……」
真宮はひとり……エレベーターホールに飾ってある花瓶を撫でているようだった。
その背中は寂しげにも思えて、心がぎゅっとなる気持ちを抑え込む。
河原崎の際どい言葉を、彼は聞いていたのだろうか。
(だから寂しげなんて、自惚れるなわたし!)
聞こえていないのだろうと思うことにした。
仮に聞こえていたのだとしても、牧瀬との仲がわかったのならわかったでいい。
真宮の誘いには乗らず、自分の意思で牧瀬と一夜を共にしたのだ。
そこから香乃の気持ちを汲み取ってくれればいい。
そこまで考えて、香乃は自分自身に苛立ってしまった。
(ああ、もう! いちいち彼を気にして言い訳しているわたしって最悪!)
仕事中の自分は、せめて係長らしくきりりと。
肩書きをもった以上は、私情抜きに仕事をとれるように最善をつくしたい。
自分に活を入れた香乃は、ふと真宮が触る花瓶に生けられているのが、ドライフラワーだということに気づく。
香乃の訝しげな視線に気づいたのは、河原崎だった。
彼もまた、なぜか香乃の動向に目敏い。
「ドライフラワーは生け替えることがないので、今春から各階において重宝しています」
河原崎がそう説明した。
「あ、あの……こちらのホテルでは、縁起を担いだりすることはないのでしょうか」
元々昨日の入り口近くの花瓶に生けていた花々も、場にそぐわないような不吉なものもあった。
真宮の口ぶりを思い出せば、それはホテルの方針ではないらしいが。
河原崎は答えた。
「ブライダルは勿論、色々と吉兆を考えてプランをたてたり、風水なども取り入れたりと気にしてますが……もしかして縁起が悪いんですか、ドライフラワーって。花担当はそんなこと一言も言わなかったので」
(昨日の花を生けたのと、同じ担当さんなのかしら……)
「ドライフラワーは枯れた花。風水的には『死んだ花』とされているので。特にお客様をお出迎えするような場所に置いておくのは控えた方がいいかなと。生きた状態の瑞々しいまま半永久的に加工したプリザードとはまた違いますし」
「え……」
真宮も顔を上げたが、香乃ではなく河原崎に向けられた。
美しい顔が、渋いものになっている。
「ただドライフラワーにも味があります。アクセントに使ったり、たとえばリースとか小物とかはいいとしても、お客様用に大々的に枯れた花を飾ることがどうもひっかかります。しかも通気性が悪そうな花瓶なので、衛生的な面も心配です」
「衛生的……」
河原崎は、思ってもいなかったというような反応をしている。
「今春から放置状態だったんですよね。梅雨時期に、乾燥剤とか防虫剤とかなにか特別な手当は?」
「いえ、特になにも……」
「お花担当さんはなにか保存の方法についてとか、なにか散布したとか仰られていましたか?」
「特には聞いておりませんが……」
香乃はつかつかと真宮の隣に立つと、大輪のバラのドライフラワーを一本引き抜いた。
すると茎のところどころに白いカビが生えており、さらには小さな虫も動いている。
衛生的という言葉を使った香乃の意図するところを知り、真宮も河原崎も絶句したようだ。
風水云々はさておき、衛生に気をつけないといけないホテルで、カビや虫の発生は避けたい。
……というのはわかる。だから香乃は指摘した。
これらのドライフラワーは早めに取り払って、活き活きとした生花か、せめてプリザードフラワーでお客様をお迎えした方がいい――と香乃が提案したところで、本日の予定時間終了。
ぼうっとしていてコンサルタントの仕事は出来なかったが、花についてはそれっぽい仕事が出来て終われたと、内心満足していたはずだった。
それがなぜ自分は、和室で合計二十個の花瓶に取り囲まれながら、花を生けることになったのだろうか。
遡ること一時間前――。
――総支配人、大変です。今日は担当だけではなく花屋自体が定休日。今から大量の花を揃えるのも無理です。
そう河原崎が騒ぎ立て、ならば明日にすればいいのではと思わず声をかけそうになった。だが険しい顔をした真宮が、香乃の実家を脅かす……東京で至るところにあるフラワーショップなら無休の看板を掲げているから、そこに頼もうかと口にして……牧瀬が待ったをかけた。
――すみません、私にツテがあります。蓮見、支配人の手伝いをしてろ。
河原崎限定の手伝いを言いつけて、真宮も河原崎の了承も得ていないのに牧瀬は、香乃を置き去りにした。
当然後のフォローは香乃に託されたため、香乃ひとり会社に戻るわけはいかない。
相方が花屋から帰ってくるまで出来る仕事として、真宮や河原崎と協力して花瓶をひとつの部屋に集めた。ドライフラワーはカビが生えてしまえば再利用できない。そのため心で詫びながらゴミ袋に入れていく。
そして三十分ほどで、牧瀬は大量の花を抱えて戻ってきた。
……香乃の実家の、花屋名が記載された小型トラックを借りて。
(なぜに、どちらも娘に話を通さぬ……)
牧瀬なりに実家の利益やコネになるように動いてくれているのだろうが、満面の笑みで戻ってくる姿を見ると、もしかして彼は、実娘よりも家族に愛されているかもしれないとすら思う。
――蓮見さん、これから生けていただけますでしょうか。こちらとしましては蓮見さんが頼り。牧瀬さん、蓮見さんの上司として、お忙しい蓮見さんを拘束してしまうことをお許し願えませんか。
言葉ほどには申し訳なさそうな顔をしていない、河原崎に懇願された。
――なにより真宮総支配人が困っているんです。蓮見さん。真宮が!
河原崎は真宮の名を強調すると、真宮は仕方がないというようにため息をついた。
そしてどこか気怠そうな真宮は姿勢を正して、香乃に頭を下げると、牧瀬ではなく香乃にすっと目を合わせた。
――蓮見さん。お願いします。
ようやく、香乃に向けられた勿忘草の瞳。
冴え冴えしい色合いの碧眼に、相反した炎のような赤が揺らめいていた。
どくり。
香乃の心臓が大きく脈打った……ところまで覚えている。
そして気づけば、花を生けている現在に至る。
(そもそも、なんで今日じゃないといけないのかしら)
そう思いながら、葉を間引いた茎を、バケツに溜めた水の中で、ハサミで斜めに切り落としていく。
斜めに切るのは水切りといい、水を吸い込む断面の面積を広げるのだ。
ハサミはホテルの事務用ハサミを借りたため、切れ味をよくして雑菌をおさえるために、河原崎から借りたライターの火で炙っている。優等生のように思える河原崎が、タバコを吸うとは意外だったが。
ドアは開いてはいるが、コンコンと後方でノックの音がして誰かが入ってくる。
「蓮見、水! あとは?」
水を入れた花瓶を運んできた牧瀬である。
牧瀬の他に、真宮と河原崎が順次花瓶を運んできていたが、体力に自信がある牧瀬は客の手を煩わせないようにと、力仕事を一手に引き受けているようだ。
「ありがとう。じゃあ出来上がった花瓶を、総支配人か支配人に聞いて戻してきて貰える?」
「了解!」
本来ならば下っ端の仕事だ。真宮も河原崎も自分達で動かず、ホテルの従業員に指示すればいい。もしくは上のふたりが動いているのなら、従業員の誰かがすっ飛んで来て、ここは自分達が手伝うのでと申し出ることはないのだろうか。
(よくわからないホテルよね。上司と部下とが分断しているみたい)
シートを敷いた和室の中、借りたバケツで水揚げをしている花を、感覚に任せて一本一本花瓶に挿していく。
(うわ、この赤いダリア可愛い。こっちも蕾が咲くといいなあ)
花を生けている瞬間が、一番好きだ。
もやもやしているものすべてを忘れて、綺麗な心にリセット出来るから。
「あ、リナリアだ……。季節外れたのに扱っているんだ……」
香乃が手にしたのは、白く小さな可憐な花だ。
金魚のような花を咲かせるキンギョソウよりも小さく、姫金魚草とも呼ばれる。
花言葉は――。
「〝この恋に気づいて〟、か……」
恋をしている花。
恋を忘れようとして、恋をしようとしている自分は、どうしたってこの花にはなれやしない。
(こんな感傷、わたしには不必要!)
香乃はバッグから赤い髪ゴムを取り出すと、ひとつに束ね、気持ちを新たにする。
コンコン。
やがてまたノックの音がした。
牧瀬だと思った香乃はリナリアを花瓶に挿しながら、振り返らずに言った。
「ありがとう。疲れたでしょう、ちょっと休憩してて。どんなに牧瀬が体力あっても、あんまり寝ていないのはキツいから」
しかし、いつものような応答がなく。
香乃は訝って、後ろを振り向いた。
そこにいたのは牧瀬ではなかった。
壁に身体を凭れさせて、気怠そうにこちらを見る――真宮が立っていた。
香乃の心が軋む。
「……っ、お疲れ様です、総支配人。もう少しで終わりますので」
真宮は微動だにしない。
ただじっと香乃を見つめている。
ずっと合わせなかった、勿忘草の瞳で。
「ええと、なにか御用でしょうか」
その眼差しには、悲しみや怒りが渦巻いているように思えた。
言うなれば、今にも雷でも落ちそうな危殆さを孕んだもので。
(なにか、怖い)
まるで監視しているかのように居座る真宮に、恐る恐る香乃はもう一度尋ねた。
「総支配人。どんな御用でしょうか?」
真宮は、重々しく口を開いた。
「……昨夜は、牧瀬さんといたんですか」
「え?」
河原崎との会話を聞いていて、それをぶり返してきたのだろうか。
静かに、真宮のひとさし指が持ち上げられ、香乃の首に向けられる。
「キスマーク、ついてます。うなじに」
……否、ぶり返したわけではない。
彼の目は、不埒な自分を見抜いているのだ。
どくりと、香乃の心臓が不穏な音をたてた。
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隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
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