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2.リナリアは、この恋に気づいて欲しいと訴える
最後の良心が抱える怖さ
しおりを挟む◇◇◇
香乃はホテルの一室にて、昨日やり残した仕事をしていた。
水揚げしたままで保存してくれていたおかげもあり、花は活き活きとしている。
働くことを許さない頑固な真宮から、無理矢理つかみ取った仕事は最低限自分がするべき当然のものであったが、それが終わったらすることは未定。
今後の予定を決める前に生け花をしているのは、直前までの空気が居たたまれなかったからだ。
「なんだろう、この罪悪感……」
牧瀬とのことを語る真宮の顔を思い出すと、胃がきりきりしてくる。
――あなたは牧瀬さんの恋人だと――、昨日、彼から聞きましたから。
牧瀬と付き合ったのは事実だし、真宮と個人的に親密にならないという決意表明をしようと思ったのだが、彼に言ってはいけない禁忌の言葉だったような錯覚にさえ囚われてしまう。
そして冷静になって考えてみれば、「あなたがどんなわたしに気があろうとも、わたしは彼氏がいるのよ」と宣言しているように聞こえて、自分のしでかしたことに、頭がズキズキと痛くなってしまった。
九年前のことはそれなりに自分ですっきりしたくせに、ちょっと彼と打ち解けたような雰囲気になると、すぐ彼からなにかがあると期待してしまうのだろうか、自分は。
もういい加減、自惚れたこの身勝手な感情を捨て去りたいのに。
マタ、キラワレテシマウ……。
真宮にとって、自分と交わった九年前がどんな意味があったのか、自分に向ける彼の本意はどこにあるのか――それを訊けない香乃には、真宮という人物像が掴めない。
遊び人のようで真面目な面もあり、冷淡にも思える強引な手を使うのに、温和に笑い従順な姿勢も見せる。とにかく香乃の目には、真宮は両極端のものを持っていて、真宮はこういう男だから、この部分は信じられる……という判断の拠り所がないのだ。
だから九年前に教えられた真宮の像と、自分で見る真宮の像に齟齬が出来、余計に真宮の輪郭が陽炎のようにぶれてしまい、どうしていいのかわからなくなってしまう。
わからないなら、わかるまで踏み込めばいいものを、下手に動こうものならば、九年前の苦痛をぶり返すのではないかという恐れと共に、防衛本能が極度に高まってしまい、彼を知りたいという気持ちが後退してしまうのだ。
――あなたを苦しめさせた誤解の元を解くまでは……そう、思うようにして。
誤解もなにも――彼が、九年前のマミヤと名乗った女性に、香乃の手紙を渡し、破らせた。
それがすべてだ。
そこにちらちらと愛があるような言葉を挟まれたところで、信憑性など出るはずがない。
あの事実が覆ることがない限りは、幾ら捨てられた子犬のような目をされたところで、彼を信じられない。とにかくは、馴れ合って翻弄しないで欲しい。
ココロヲカキミダサナイデホシイ……。
「はぁ……」
いつもは花に触れていると憂い事も忘れられたというのに、なぜか今日は心が落ち着かない。そのためか、生け方に納得いかず、何度もやり直す羽目に陥っている。
しばらく花と格闘し、なんとか最後の七つ目の花を生け終えた。
真宮は、後でくるから終わったらそのままにしておくようにと言っていたが、総支配人に力仕事を任せられない。香乃は水がたっぷりと入った大きな花瓶を抱えてよろよろと廊下を歩く。
「しまった……。何階に置くのか、先に聞いておくべきだった……」
客室は三階から二十三階までの合計二十階。
うち今日生けた七個の花瓶以外の二十三個の花瓶は、既に配置されている。
「とりあえずこの三階は、来た時にはもう飾られていたから、上の階よね。仕方がない。ひとつひとつエレベーターで確認するか」
エレベーターを待っていると、扉が開いて水色の制服姿の従業員の女性が下りてきた。
軽く会釈して香乃がエレベーターに乗り込もうとすると、従業員は戻ってきて言った。
「あの……、先日お花を生け替えて下さった方ですよね」
帽子を被り、黒髪をまとめ上げている。
楚々としながらも意思の通った眼差しをある若くて可憐な女性だ。
「正面玄関に飾るのは不吉な花言葉だけれど、可愛い花だから捨てないで、裏で生けてくれと男性の方がフロントに持って来て下さって」
「あ、はい、そうです。うちの実家が花屋なもので、それでちょっと気になってしまいまして」
「そうなんですか。私気になってあれから花言葉を調べたんです。そうしたら、確かに悲しみというか別離の花言葉ばかりで。これは出会いを提供するホテルには相応しくないって」
(ああ、なんだか嬉しい。まるでそういうの、無頓着な従業員ばかりだと思っていたから)
肌の艶々具合からすれば、きっと二十代前半あたりだろう。
気が回る従業員こそ、香乃が思い描いていたホテルの従業員だった。
(その上に若くて可愛いなんて、もうこの子、お嫁さんにしたいかも)
「あ、その花瓶、お持ちします」
「いえいえ、大丈夫です。わたし利用客ではなく、事務機メーカーの者なので、そういうお気遣いはお客様の方に……」
このホテルで、そんな気遣いをしてくれる従業員がいるとは思わなかったため、ついつい意固地になって花瓶を渡すまいと、従業員を突っぱねてしまった。
「いえ、当ホテルをご利用下さる方々は、すべては等しく私のお客様です。『ファゲトミナート』のスタッフとして、どうぞお力にならせて下さい」
神々しく思える笑み。香乃はじーんと感動してしまった。
(これよ、これ! わたしはホテルに、これを求めていたの!)
腐敗している集団の中での輝ける者、それは最後の良心だ。
あまりにも他の従業員がひどいため、彼女の背から純白の翼が生えている気すらしてくる。
香乃は花瓶を渡すことにした。
ずっしりと重い花瓶だったが、小柄ながら彼女は軽々と持ち上げた。
「実は総支配人に頼まれて、宿泊棟の各階の花瓶を生け替えたのですが、それを入れて残り七つ。どの階に戻したらいいのかわからなくて。ちょっと総支配人に聞いてきても……」
「あ、それなら、二十階、十九階、十七階、十五階、十四階、九階、七階です」
彼女は難なく答える。
「ちょうど今、上から客室を見回って下りてきて、ここ三階が最後でした。七つ分、花瓶がなくて不思議に思って支配人にご相談しようと思っていたんです。ああ、すっきりしました」
女性は笑いながらも迷いなく答え、まずは二十階に向かいましょうと香乃と共にエレベーターに乗った。
「総支配人が花瓶の生け替えをご存知なら、きっとその七フロアを後回しにされたのは、そのフロアに宿泊客が少なかったからでしょうね。実は私も、随分と花瓶のドライフラワーが、埃っぽいというか、カビ臭いというか、嫌な感じをしていて。こんな綺麗なお花にして貰えて嬉しいです。お花も花瓶も喜んでます」
(なぜその階の花瓶を後にしたのかの正確な理由はわからないけれど、……もうやだ、この子、笑顔も考え方も可愛い~)
「……お客様、一昨日から見えられてましたよね。総支配人のお客様で」
「は、はい。お、お世話になっております……」
「いえいえこちらこそ!」
客の顔を記憶するのが接客業の基本ではあるが、それでもお喋りをしたりマイペースに時間を潰しているかばかりに思えた従業員の中で、真面目な従業員がいることはこのホテルの光明だ。
(エンジェル~!)
「……当ホテルに、驚かれませんでしたか?」
唐突に深刻そうに質問され、香乃は言葉を濁した。
「私は前ホテルから働かせて貰って二年目ですが、私が求めるホテル像と違うって思いました。特に前総支配人は金遣いが荒くて、どうでもいいところにお金をかけて、サービスの精神を後回しにしてきて。実際、新しい総支配人がいらっしゃる時、人員削減のための早期退職に乗ろうかなって一瞬思ってしまったほどなんですが、この前身のホテル……実は私の思い出が詰まっていて」
「思い出?」
「はい。うちは貧乏家族で、双子の弟と、三つ年上の姉がいるんですが、父が奮発して唯一家族で贅沢をしたホテルがここでして。あ、素泊まりで、コンビニのおにぎりでしたけれどね。もう十五年以上になりますが」
香乃は、彼女が笑顔で語る思い出話を微笑ましく聞いていた。
「その時スタッフにとてもよくして貰って。私もお客様に笑顔になって頂けるようなスタッフになりたくて、ここに入社しました。総支配人によってホテルの色も変わってくるのはよくわかりますが、それでも新米ながら、スタッフとしての心構えも重要だと思っています」
「……それは、ホテル業だけではなく、他の会社でも言えることですよ。経営者と社員が一丸となって顧客のために奔走できる……そんな会社が理想ですもの」
「そうですよね。だからこの新生『ファゲトミナート』で、私は頑張りたいんです。折角、いい総支配人が来てくれたのだから。だから私も総支配人の真似をして、少しでもお役に立ちたくて」
チンと音が鳴りドアが開く。
香乃が開のボタンを押すと、恐縮しながら彼女はエレベーターを降りて、空きスペースに花瓶を置いた。彼女の記憶力は間違っていなかったらしい。
(従業員達の怠慢を見て見ぬふりをしている彼が、いい総支配人と思える根拠ってなに?)
花瓶を正面に戻し、形を整えた香乃が、思い切って彼女に訊いてみた。
「……総支配人は、どんな方なんですか?」
「一言で言うと……怖いです」
それは香乃が予想していなかった答えだった。
「怖い? 総支配人は皆さんに叱ったりするので?」
「ご存知のことと思いますが、総支配人は私共になにも言いません。しかしそれは総支配人が無能だからでも、ホテルがどうでもいいと見下しているからでもない。総支配人は、非常に有能で聡明な方です。現に徐々にですが、利用客も増えてきましたし、体制も変わってきました。前総支配人でガタガタになったホテルをたて直すために、その腕を見込まれて総支配人としてやってきた……私はそう思っています」
聡明だと語る彼女の目こそ、怜悧な輝きを放って。
「私共になにも言わないのは、意味があるのだと私は思っています。それに私共にそうでも、総支配人はお客様には、物腰柔らかそうな態度をとります。他のスタッフは総支配人や支配人ら上役が、接客をしていればいいやというような怠慢さを出しておりますが、あまりそういう表面的なものを先入観のように信じすぎると、しっぺ返しに合うような気がして。それが一番に怖い」
確かにそうだ。
思いきり香乃もしっぺ返しにあったのだから。
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