勿忘草は、ノスタルジアな潤愛に乱れ咲く

奏多

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2.リナリアは、この恋に気づいて欲しいと訴える

天使と悪魔がいるエレベーターホール

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「ならば、総支配人はわざと皆さんを見て見ぬふりをしていると? そしてそれがホテルの再建につながると?」
「はい。一見矛盾しているようにも思えますが、そうとしか思えない。私には総支配人が、愚かなただの道楽には思えなくて。すべて必然だからしているのだと。もしかすると、なにも言わずに見て見ぬふりをすることで、見極めているのではと」
「見極めている?」
「はい。この先傍におくべきか、捨てるべきか。耐久性があるように見せかけて、ある日突然、裁きの雷を落としそうな、そんな気すらします」

 〝捨てるべき〟

 ズキッと香乃の心が痛む。

「もしも傍におくと決めれば、なにがあろうとも守り続けるかもしれませんが、敵や用済みだとみなせば非情なまでに徹底的に排除する。支配者として純粋培養されたような感じと言えばいいのか。だから私、その日が来るのを戦々恐々としながら、私に出来る限りの仕事をしています」
「……っ」
「総支配人の素の顔は、私もスタッフの誰も見たことがない。なににも動じず、なににも心を許さず、まるで氷です。冷淡にも思える時はあります」

 確かに、仕事の時の真宮は支配者の顔を見せた。
 しかし彼は、そこまで氷のような無感情さを出していただろうか。

 自分が翻弄されていたのは、冷血さゆえではなく、穏やかさと冷たさと相反したものを併せ持っていたからではなかったのか。

「たとえば総支配人は、仕事以外で穏やかそうな表情になったりはしないんですか?」
「私が見ている限りではないですね。大体、笑いませんから。支配人と同じく」

(わたしにだけ見せている? ……ダメダメ、また自惚れちゃ!)

「ただ、冷たいといっても、駄目従業員ばかりなのでそういう態度なのかもしれません。仕事に関して思えば、かなりの情熱家で、ホテルにずっと泊まって、仕事をしていて。前に総支配人より先に来て仕事をしようとしたら、始発に乗ってきたのに、既にフロントに立って仕事をしていました。倒れるかと思うくらい、仕事をしています。接客もとても真摯で真面目ですし、傲慢さもなにもなく、本当に尊敬できるトップで。いつも仕事ばかりなので、どこで息抜きしているのか謎です」
「た、たとえば女……遊びをしているとか……」

 すると彼女は笑って一蹴した。

「総支配人、凄くイケメンですが、遊んでいる暇なんてありません。特に女性が押しかけて修羅場になったりもありませんし、総支配人はふしだらな関係を結ぶようなひとにも思えません。営業用で物腰は柔らかくても、おいそれと個人的に近づくのを許さないような独特なオーラがあって、あの感じなら遊ぶことができなさそうな気がします」

 香乃は押し黙った。

(やっぱり、誤解があるのかな……)

「まあ実際の顔は、支配人ならわかっているのかもしれません。なんでも古い付き合いのようなので。といっても友達とはまた違うみたいですが」

 確かに、河原崎と真宮はなにか親密そうには思えた。

「あ、もうひとり、あの方なら総支配人の素顔はわかっているかも」

 彼女は手を叩く。

「あの方?」
「ええ。フラワーコーディネーターの方なんですが、便宜上そういう肩書きでお呼びはしていますが、生け花の師範の腕前を持つ方なんです。だから生け方は綺麗なのですが、その……知識がないところもあって。ご親戚筋が、有名なフラワーチェーン店らしくて、見栄えのいい高価な花を好まれて、花言葉とかは気にしていないというか。総支配人も手を焼いていたかとは思いますが、昔からのお知り合いらしく。お家柄も釣り合いますし、この先はふたり……」

 その時、エレベーターのドアが開いて、真宮が現れた。

「ここにいた!」

 そして真宮は、泣き出しそうな顔で飛び出してくると、香乃を抱きしめた。
 ぶわりと、勿忘草の匂いが広がった。

「そ、総支配人!?」
「俺を待つようにって、言いましたよね!?」

 目を見開く従業員に、香乃はぶんぶんと頭を横に振った。

「す、すみませ……」
「俺、またあなたがいなくなったかと……」

 そこで言葉を切った真宮は、真宮の靴を、靴を脱いだ足でダンダンと踏んでいた香乃に気づいたようで、同時に従業員に見られていたことにも気づいたようだった。

「……きみはなぜここに?」

 真宮は香乃から身体を離したものの、見られたことにまるで動じていない。
 そして彼に相対する従業員も、心なしか緊張したような様子で直立不動の姿勢を取って答えた。

「はい、フロント業務前に、なにかトラブルがないかと客室の巡回をしておりました。その時、そちらのお客様をエレベーター前でお見かけしまして、花瓶を運ぶお手伝いをと」
「……そう。それはいい心がけだ。三〇二一号室に残りがある。そこに運んでくれないか。場所は……」
「巡回をして心得ております。十九階、十七階、十五階、十四階、九階、七階に運びます」
「ああ、そうだ。きみは話が早くていい」

 本当に業務内容というだけの寒々しい会話だった。
 真宮はいつもこう表情を変えずに、冷ややかに指示をする男だったのか。

(怖……っ)

 しかし香乃自身も、いつも眉間に皺を寄せて書類を無言で差し戻すこともある。
 これからは、ちゃんとにこにことして対応しようと、反省する。

「では、失礼致します」
「あ、あの……わ、わたしも……」
「あなたは、そんな暇はない。他にも花はたくさんあるので、お願いします」

(今までそんなにたくさん仕事があるとは、言わなかったくせに!)

 彼女には笑わない真宮が、にっこりと香乃には笑う。
 その違いになにか空々しさを感じて、助けを求めるように従業員に顔を向けた。

「ああ、ではフロントの飾り付けも是非ともお願いします、お客様! 私はあなたのお花の大ファンですので、来客の皆様ともこの悦びを分かち合えるよう、よろしくお願いします!」

(大ファン……)

 思わず香乃がでれっとなってしまった間に、彼女はエレベーターに乗り込んだ。

「あ、従業員さん! わたし、蓮見香乃と言います。お名前を……」

 すると彼女は、胸にあった小さなバッチを指し示しながら言った。

設楽しだら一葉いちはと申します。フロントにおりますので、いつでもお声がけ下さいませ、蓮見様」

 綺麗なお辞儀をしたままドアが閉まり、エレベーターは下りていった。

「……はぅ。可愛い……。エンジェル一葉ちゃん……いつでも声かけちゃいそう。毎日、ホテルに来る楽しみが出来たかも」

 ひとり悶えていると、なにやらじとりとした視線が送られて来る。
 真宮からだ。
 高温でほこほことしている香乃に対して、真宮はかなり低温で冷ややかな眼差しだ。

(なにか……怒ってらっしゃる?)

「ええと……勝手に抜け出してすみませんでした。お仕事、次はどこでしょうか」

 きりりとして、そう質問する。

「その前に。蓮見さん」

 じりと一歩前に足を踏み出して、真宮が言った。
 勿忘草色の瞳を、真っ直ぐ香乃に向けて。

「服を……脱いで欲しいんです」

「ひゃ、い!?」

 香乃は思わず及び腰になって、逃走姿勢になる。
 真宮は身体を捻った香乃の腕を掴むと、真剣な顔で言った。

「お願いします。悪いようにはしませんので」

 身体が近づくにつれ、彼の声音の熱が耳元に掠れ、心臓が大暴れをした。

「い……や、いやいやいやいや! なに、なになになにを!?」

 周囲に誰もいないとはいえ、ここは客室が並ぶエレベーターホールだ。

 ……否、場所の問題ではない。
 いや、場所も問題ではあるが。

「なぜ服を脱がなきゃならないんですか!」

 香乃が裏返って叫んでいる間に、先ほどの女性従業員を乗せたエレベーターの隣の扉が開き、河原崎が現われた。

「いかがわしいのはこのホテルですか!? それとも総支配人ですか!? どうしてもあなたは、わたしをそんな対象にしたいんですか!? こんなところで裸になれなんて、ひどい、ひどいです! 悪魔です!」

 すると真宮が困惑したようにして言った。

「……いえ、花の滲みがついてしまっているようなので、クリーニングをと……。その間、当ホテルの制服を着て頂けるものか、ご相談をと……」
「え……?」

 真宮の視線の先にあったのは、色がついてしまった自分の白いブラウスだった。
 そして真宮の手には、折りたたまれた水色の制服がある。

「部屋に戻って言うより、ここの方がいいかなと思ったんですが……」

(やば……。やっちゃった……?)

 途端に河原崎が大爆笑を始めた。

「ぶはははははは! こんなところで、穂積がひん剥いてヤろうとするかっての! 幾ら限定で盛りっぱなしとはいえ、そこは穂積という男を信じてやってくれよ。まあご主人様を追っかけ回す、犬ッコロかもしれねぇが!」
「へ……」

(今、この方はなんと……?)

「ゴホン。支配人」

 至って冷静な真宮の声で、河原崎はきりりとした顔に戻しながらも、肩を震わせて言った。

「よかったですねぇ、総支配人。言った通りでしょう、蓮見さんはまだホテルにいると」

 真宮はどこか憮然として、頭を掻いている。

「実はね、蓮見さん。逃げられるっていうのが総支配人のトラウマなんですよ」
「はい……?」

 今度はなんの話になったのだろうか。
 やけに真宮が、ゲホンゲホンと咳払いをしている。

「いやあ、これでまた逃げられて、また別の男に捕獲されてでもいたら、総支配人は蹲って泣いてしまうか、ホテルを破壊する程に荒れ狂うか……」
「支配人、お黙り下さい」

 河原崎ににっこりと笑う真宮の声は、恐ろしく低かった。
 その圧は凄まじく、軽口を叩いた河原崎の顔が徐々に引き攣ってきた。
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