勿忘草は、ノスタルジアな潤愛に乱れ咲く

奏多

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6.ハイドランジアは、冷酷な美にその身を染める

嵐の爪痕

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 ◇◇◇

 台風のように突如現れた母親は、嵐の爪痕を残して消えた。
 穂積に、認めるまで娘に手を出すなと釘を刺すことも忘れずに。
 結局は娘の言い分など聞かず、彼女が過小評価している穂積の才覚に委ねたのだ。
 ……穂積が真宮の力に負け、香乃を手放すことを前提に。

 去り際の母親の顔は、香乃が今まで見たことがないほどの冷淡な顔つきだった。
 穂月を彷彿させるほど、私怨に満ちて頑なだった。
 話が通じる状態ではなかった。

(こんなことって……)

 香乃は呆然としていた。
 母親が穂積を嫌っているような気はしていた。
 しかし、ここまであからさまに拒絶するとは思っていなかったのだ。
 しかもその理由が、穂積個人がどうにも出来ない、母親の身体にも流れている……真宮の血、という理不尽なもののせいだとは。

 真宮家に生まれた子供が、自分が属するものに相応しいか相応しくないか――真宮から逃れた母親もまた、真宮の価値観で判断していた。
 それは、穂積を虐めていた穂月やその取り巻きたちの思考と、なにひとつ変わらない。
 香乃にはそれがショックで、同時に怒りと失望も心に渦巻き、どす黒いもので胸の中がもやもやしていた。

(彼は……傷ついていないだろうか)

 静まり返る部屋の中、ソファに座った穂積は端正な顔に翳りを落としていた。
 苦しげに目を細めてなにかを一心に考えており、時折長い睫毛が震撼している。

 香乃が思っていた以上に、彼にとっては深刻だったようだ。

 彼の沈黙は、なにを意味しているのだろう。
 彼の熟考は、どこへ向かっているのだろう。

 聞きたいのに聞けない。
 無性に怖いのだ。
 彼の口から出てくる言葉が。

 別れようとか、距離をおこうとか言われるのではないか。
 恋愛だけにうつつを抜かしている、子供のお遊びの時間は終わったと。
 面倒臭い年上女はいらないと。
 
 酸素の濃度が一気に薄まってしまったかのように、息苦しい。
 その中で香乃はぎこちない動きをして、穂積の前で頭を下げた。

「母さんが一方的に酷いことばかり言ってごめん。わたし、ちゃんと説得するから」

 しかし穂積から答えはなく。
 香乃はざわりとしたものが、背中に這うような気持ち悪さを感じた。

「あの……総、支配人?」

 気軽に名前を呼ぶことも憚れて、思わず以前のように肩書きで呼ぶと、ゆっくりと端正な顔が香乃に向いた。

「香乃、あのさ」

 勿忘草の瞳が、凍えそうな冷ややかさに満ちている。
 その奥に宿る仄暗さを感じ、香乃は震え上がった。
 もしかして、香乃にとって最悪となる結論に達したのではないかと。

 イヤダ、アノトキノオモイハ。

 冷や汗が流れる。

「わ、わたしちゃんと説得する。面倒かけないから、だから」

 無性に怖い。
 折角つかまえた幸せが、指の間からさらさらと砂のように零れ落ちてしまいそうで。
 志帆の手で破られた勿忘草の手紙のように、ちりぢりになってしまいそうで。

「別れるなんて言わないで。わたし頑張るから、だから今から結果を出さないで」

 別れるということに、妙な焦慮を感じる。
 切羽詰まったような閉塞感――これは昔に感じたものなのだろうか。

 香乃の目からぽろぽろと涙が流れると、穂積は慌てた。

「泣かないで。香乃、泣くな、違うから!」

 香乃の身体は、穂積が伸ばした両腕で持ち上げられ、彼の膝の上に座らせられた。
 そして、ぎゅっと抱きしめられる。

「香乃、そうじゃない、別れたいなんて微塵も考えていないから」
「でも……そう思われるくらい、酷いことを母さんは……」

 穂積は唇が香乃の涙を掬い取ると、悲しげに笑った。

「あなたのお母さんは俺達の昔のことを知っているし、家を出たとはいえ、真宮の中枢の血を引く。俺より真宮のことを知っていても不思議ではないし、娘よりも年下の俺を頼りないと思っていても仕方がない。それは俺が頑張って認めさせれればいいだけの話だ。そんなことであなたを諦めるつもりはないし、そんなことはいいんだ、まったく」
「……っ、だったらなにをそんなに深く考えていたの?」

 すると穂積は実に言いにくそうにして言った。

「牧瀬さんのこと」
「え?」

 思ってもいなかった単語が出て来て、香乃は目を瞬かせた。
 
「俺にとってキツかったのは、牧瀬さんが香乃の家族に受け入れられていたことだ。牧瀬さんなら一人娘を任せてもいいと思われ、同じ家で香乃といい雰囲気になろうが許される。仕事だって娘を通さずとも彼ひとりの人柄で、花も大量に用意してくれるほど、牧瀬さんは香乃を含めた蓮見家から、絶大なる信頼を寄せられている」

 穂積はやるせなさそうに視線を落とす。

「それに比べて俺は、昔から好意的な眼差しを貰ったことがなかった。二度と香乃に近づくなって言われるほどだ。それでも近づいたのだから、俺は本当に……しつこい略奪者としてしか思って貰えないだろう、この先も」

 穂積は傷ついた顔で、悔しげに言った。

「羨むのは筋違いだと思うのに、牧瀬さんが羨ましい。……それと同時に、嫉妬がとまらないんだ……」

 穂積はきゅっと唇を引き結ぶ。

「牧瀬は家族の愛に飢えていたし、ギブアンドテイクの付き合いで……」

 しかし香乃の言葉は、穂積の慰みにはならなかった。

「……俺、牧瀬さんが香乃の実家を助けていたことも初めて知ったんだ。あなたを守れる男になろうとしていたつもりだったのに、あなたを取り巻く環境を見ようとしてこなかった。つまりは独りよがりな強さを手にした気がしていただけで、実際の俺はなにも見えていない子供のまま。そういうところが、香乃のお母さんにも指摘される、俺の甘さだ」
「……っ」
「牧瀬さんなら、あなたの家族ごと幸せに出来るかもしれない。牧瀬さんなら、俺とは違ってもっとすべてを包み込むことが出来るかもしれない。でも俺は……」
「あなたが牧瀬だったら、わたし……あなたに恋をしていないわ」

 香乃は微笑む。

「でも実際あなたは、牧瀬さんと付き合っていたじゃないか……」

 ぐっと言葉に詰まりながらも香乃は言った。

「あなたに隠していたことがある。わたし……牧瀬とは、セフレだったの。もう解消したけど」
「え?」
「それで、実家に仕事を貰っていた。牧瀬の思惑は違ったみたいだけれど、わたしはずっとギブアンドテイクの、セックスをする友達だと思っていたの。恋愛感情を伴わない、オトナの関係っていう奴」

 白状すると、穂積は複雑そうな顔をしている。

「牧瀬から告白されたのが、あなたと再会した日だった。わたしがあなたに揺れに揺れていたから、あなたを振り切るためにお試しという感じで付き合ったの。牧瀬を利用する形が嫌で、真剣に牧瀬を好きになろうとしたけれど駄目で。わたしは、どうしてもあなたが……」

 穂積が香乃の唇の前に人差し指をたて、その先を言わせなかった。
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