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1その6
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「あ、お帰りなさい。あら? 警部さんはいないのね」
書店兼下宿屋のフェアリーズ・シェルフに戻ると、笑顔のミリアが二人を出迎えた。ところが、本棚を清掃していた手を止めた彼女はふと残念そうな顔になって、グラント警部の不在を不満に思っている様子が覗える。イーストエンドに居を構えていた、警察嫌いの彼女にしては、少々意外な反応であった。
「ミリア、ってば……もしかしてグレンに乗り換えたの? あれはやめた方が良いと思うけれど……」
「な、なんのことかしら?」
耳まで赤くして、掃除に戻るミリアである。分かり易い。
さて、それに比べて……。
「さっきのは、どういうことなんだい?」
「あら、なんのことかしら?」
つれない返事である。虫の居所が悪いのは相変わらずらしい。
「僕の英語が未熟なのは知っているだろう? ノーブル・レディという言葉が出て来なかっただけなんだ。気を害したなら謝るから、さ……それに、今回の事故は、僕の留学理由にも関わる話なんだ。自動車に欠陥があるなら知っておかなければならないんだよ」
そのことだけれど――、と店の奥から声がした。コレット女史である。
「あの自動馬車に欠陥は無いわ。機関の思念歯車を除けば、だけれどね。
ペダルとクラッチとを結ぶワイヤーに異常は無かったし、円錐クラッチの固着も見られなかった。もちろん、ブレーキワイヤーにも異常は無くて、ドラムブレーキの動作も正常なことが確認できているわ。水没した際の速度レバーの位置は一速で、思念歯車が本来の方向とは逆に回転したことが直接的な原因と考えて間違いはないものの、ブレーキを踏めば止まる状態にあったことは、ほぼ間違いないわ」
手に持った、報告書らしい紙の束をパタパタさせて言うコレット女史である。女史は、そうした軽薄な身振りとは裏腹に真剣な声音で続けた。
「けれど、自動馬車は暴走して埠頭から落ちたのよね。何故かしら、まるで分からないわ」
「原因は明らかだわ」
とは、マギエラの言である。書架の上段にある本を取るために置いてあるのだろう踏み台に腰掛けて、行儀の悪い娘に眉をしかめるコレット女史の視線を無視したまま、彼女はパイプを指の先で弄びつつ続ける。
「自動車に欠陥がなく、埠頭の傾斜も問題にならないのであれば、結論はひとつしか残らないのだもの。深く考える必要なんて無いわ」
うん? それっ、て……つまり――、
「運転していたインメルマン巡査が?」
いや、まさかそんな。「彼は、警察官だ。どうして捕らえた犯人を殺してしまう必要があるのさ?」
千早が困惑していると、「あ、なるほどね」と得心したらしい声が棚の向こうから響いて聞こえて来た。ミリアである。貧民街で多くの暴力に晒されてきた彼女は、この街の警察官を殆ど信用していない。そんな彼女にしてみれば、警察官が殺人を犯すことなど想定の範囲内というわけなのだろう。
改めて思う。なんて酷い街なのだろう、と。倫敦という街の治安は――少なくともイーストエンドにおいては――十代の少女が、警察官を頼ることが出来ないほど劣悪なのだ。
しかし、なるほど……。
「グラント警部も怒るわけだね、部下を疑われたのだから」
「あのねぇ……」
ふと、カウンターの向こうから声がした。「店で物騒な話はやめておくれよ」
そこでは、呆れ顔のキーン夫人が頬杖をついて店番をしていた。
書店兼下宿屋のフェアリーズ・シェルフに戻ると、笑顔のミリアが二人を出迎えた。ところが、本棚を清掃していた手を止めた彼女はふと残念そうな顔になって、グラント警部の不在を不満に思っている様子が覗える。イーストエンドに居を構えていた、警察嫌いの彼女にしては、少々意外な反応であった。
「ミリア、ってば……もしかしてグレンに乗り換えたの? あれはやめた方が良いと思うけれど……」
「な、なんのことかしら?」
耳まで赤くして、掃除に戻るミリアである。分かり易い。
さて、それに比べて……。
「さっきのは、どういうことなんだい?」
「あら、なんのことかしら?」
つれない返事である。虫の居所が悪いのは相変わらずらしい。
「僕の英語が未熟なのは知っているだろう? ノーブル・レディという言葉が出て来なかっただけなんだ。気を害したなら謝るから、さ……それに、今回の事故は、僕の留学理由にも関わる話なんだ。自動車に欠陥があるなら知っておかなければならないんだよ」
そのことだけれど――、と店の奥から声がした。コレット女史である。
「あの自動馬車に欠陥は無いわ。機関の思念歯車を除けば、だけれどね。
ペダルとクラッチとを結ぶワイヤーに異常は無かったし、円錐クラッチの固着も見られなかった。もちろん、ブレーキワイヤーにも異常は無くて、ドラムブレーキの動作も正常なことが確認できているわ。水没した際の速度レバーの位置は一速で、思念歯車が本来の方向とは逆に回転したことが直接的な原因と考えて間違いはないものの、ブレーキを踏めば止まる状態にあったことは、ほぼ間違いないわ」
手に持った、報告書らしい紙の束をパタパタさせて言うコレット女史である。女史は、そうした軽薄な身振りとは裏腹に真剣な声音で続けた。
「けれど、自動馬車は暴走して埠頭から落ちたのよね。何故かしら、まるで分からないわ」
「原因は明らかだわ」
とは、マギエラの言である。書架の上段にある本を取るために置いてあるのだろう踏み台に腰掛けて、行儀の悪い娘に眉をしかめるコレット女史の視線を無視したまま、彼女はパイプを指の先で弄びつつ続ける。
「自動車に欠陥がなく、埠頭の傾斜も問題にならないのであれば、結論はひとつしか残らないのだもの。深く考える必要なんて無いわ」
うん? それっ、て……つまり――、
「運転していたインメルマン巡査が?」
いや、まさかそんな。「彼は、警察官だ。どうして捕らえた犯人を殺してしまう必要があるのさ?」
千早が困惑していると、「あ、なるほどね」と得心したらしい声が棚の向こうから響いて聞こえて来た。ミリアである。貧民街で多くの暴力に晒されてきた彼女は、この街の警察官を殆ど信用していない。そんな彼女にしてみれば、警察官が殺人を犯すことなど想定の範囲内というわけなのだろう。
改めて思う。なんて酷い街なのだろう、と。倫敦という街の治安は――少なくともイーストエンドにおいては――十代の少女が、警察官を頼ることが出来ないほど劣悪なのだ。
しかし、なるほど……。
「グラント警部も怒るわけだね、部下を疑われたのだから」
「あのねぇ……」
ふと、カウンターの向こうから声がした。「店で物騒な話はやめておくれよ」
そこでは、呆れ顔のキーン夫人が頬杖をついて店番をしていた。
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