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2巻

2-2

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 一般大衆の多くは聖女の姿を見たことがなかった。
 ルイーゼの代になってから、『癒しのうた』による治療は多額の寄付金を教会に支払った者にしか行われなかったから。
 だから驚いた。
 貴族たちは聖女の姿を見る機会はあった。
 式典に出れば遠目ではあるが、見ることはできたから。
 しかし驚いた。

「――まず、皆様へ謝罪しなければならないことがあります」

 光を反射する銀の髪。意志の強い蒼い瞳。白い肌。りんとしたたたずまい。

「私は一週間もの間、聖女としての職務を放棄していました。理由の如何いかんを問わず、許されないことです」

 真一文字に引き締められた唇から零れるルイーゼの声は、まるで天使の賛美歌のようだ。

「凶暴化した魔物によって傷を負った者、命を落とした者――すべて、私の責任です」

 手を伸ばす。一歩前に出る。首を振る、その小さな所作さえも。
 ルイーゼの所作ひとつひとつに、その場に居た者は呑み込まれていた。

「あつかましいお願いがあります。私、ルイーゼ個人を恨むのは自由です。しかし――聖女を恨まないでください。すべての責任は私にあります。恨み、憎しみの心は、私だけに向けてください」

 (あああああああ緊張するぅぅぅぅぅぅ⁉)
 彼女の美しさに言葉を失う周囲とは裏腹に、ルイーゼは静まりかえる民衆のプレッシャーに押し潰されそうになっていた。
 飛びそうになる台詞を必死で繋ぎ止め、噛まないようそらんじるが、そのたびに静まる空気に、「あれ、私ヘンなこと言っちゃった⁉」と疑心暗鬼に駆られる。
 顔を隠してその場にうずくまりたい。
 アーヴィングの後ろに隠れたい。
 奥に引っ込んでミランダの胸に飛び込みたい。

(ク……クラリスさん、私に力を……!)

 式典を嫌がってはいたものの、クラリスは緊張というものを知らない。前に出ればそれなりにそれらしいことを事前準備なしに言える胆力があった。
 祈りの姿と同じように、彼女の姿をなぞる……!
 りんとしたたたずまいを装いつつ、内心でルイーゼは己自身と必死に戦っていた。


 式典には、聖女を憎む者も参加していた。
 先の戦いで深い傷を負った者、相棒を失った者。彼らは罵詈雑言ばりぞうごんを飛ばして式典を――自分が捕まることをいとわず――邪魔してやろうと、民衆にまぎれ込んでいた。
 しかし彼らは野次を飛ばすことなく、ルイーゼの言葉に聞き入っていた。

ちまたで聖女不要説が広まったのは、私がそれを払拭ふっしょくするほどの活躍ができなかったせいです。魔窟まくつの封印は今も不安定な状態にあり、冒険者や騎士の皆様には今もご迷惑をおかけしている状態です。本当に……本当に、申し訳ありません」
「……とんでもねぇ」

 反聖女派の誰かが、そう呟いた。
 彼らはずっと聖女への不満を漏らしていた。
 ――聖女の祈りなんてらないだろ!
 実際に祈りが止まると、本来の強さを取り戻した魔物の前から尻尾を巻いて逃げ出した。
 ――聖女が仕事をしなかったせいで俺たちはこんな酷い目に遭った!
 それからは聖女への不満がそんな風に変わった。前の不満と矛盾していることには気がつかないまま。
 そんな自分をルイーゼの言葉でようやくかえりみることになり、彼らは情けなさに涙した。
 一方、貴賓室からルイーゼの演説を見ていた貴族たちも驚きに包まれていた。
 以前のルイーゼはヴェールで顔を隠していた上、演説は教主クロードが行っていた。
 だからほとんどの者が、彼女について名前しか知らないという状態だった。
 破天荒だった前聖女クラリスと比べて地味だったことも遠因となり、彼女を記憶に留めている者は居なかった。
 今、この瞬間までは。

「なんという美しさだ……」

 誰かの呟きに、誰もが胸中で頷いた。
 ミランダの徹底した食事と運動管理により、ルイーゼは健康のみならず、失っていた本来の美しさも取り戻している。
 今回の式典を通じ、誰もが彼女の美しさに気付き、驚愕きょうがくしていた。
 ――気付いていないのは、当の本人だけだ。

「今回のような過ちを犯さぬよう、職務をまっとうします。さらに――」

 ルイーゼの言葉は続く。身体を少しだけ脇に避け、彼女の後ろに立っていた一人の男を手で示す。

「ここにいる私の騎士アーヴィングが主導する聖女研究所に、この身を捧げることを宣言します」

 静まり返っていた聴衆に、ざわめきが波のように広がっていく。

「聖女研究所の目的はただ一つ。聖女の力の源を解明し、魔窟まくつを破壊することです」


 高らかに響くルイーゼの声とともに、貴賓室の中にそれ以上の動揺が広がっていた。

「馬鹿な!」
「聖女自ら聖女の神聖性の破壊を奨励する……だと?」

 聖女の力は唯一無二。その恩恵にあずかっていれば一生を安泰に暮らすことができる。
 貴族たちが考える聖女の神聖性とは、身も蓋もない言い方をすれば金につながる能力だ。
 だから彼には、手に入るはずの莫大な財をルイーゼが放棄しているように見える。
 しかし彼らは知らない。
 聖女が命を削って祈りを捧げていることも、聖女に向かうはずの金を教主クロードが吸い上げていたことも、ルイーゼ自身には資産がないことも。
 だからルイーゼの宣言は、とても奇異に映った。
 彼らの視線はルイーゼだけでなく、アーヴィングにも及んでいた。

「雲隠れ王子が……どんな手を使った?」
「王位継承権がないことが唯一の救いか」
「聖女の権力を利用すれば、彼が再び継承権を持つことも可能なのではないか?」
「……ありえん話ではない」

 今の聖女は権能の塊だ。ルイーゼが望めば、どのような願いでも押し通る可能性は十分にある。
 王位継承権を再度手に入れるだけではない。もしかするとアーヴィングが王位に座すことも――
 そうなれば、宮廷闘争の戦局は一気に混迷を極めることになる。

「しかし、いくら王子であっても実績がなければ復権など望めんぞ」
「実績ならもうあるだろう。Sランクの魔物……スライムの『女王』を退けたという」
「それに関しては他の王子が手を打っている」
「もみ消されることを見越して研究所を立ち上げたのでは?」
「ということはやはり、アーヴィングは再度王位継承権を得ることを狙っている……?」

 勝手な議論を白熱させる貴族たちのかたわらで、一人の男が壇上に立つ聖女を、たかのように鋭い目で睨んでいた。

「……人形め」

 その目は、確かな殺意をはらんでいた。


   ▼


「緊張したぁ……」
「お疲れさん。頑張ったね」

 演説を終え、控え室に戻ったルイーゼは力なく椅子にもたれかかった。
 あんな大勢の前で顔をさらして演説するなど初めてのことだ。
 途中からは覚えた台詞を話すだけで精一杯だった。
 あの騒動でニック王子に呼び出された時――確か、十人も居なかった――ですら足が震えたのだ。何百、何千という人数を前にして震えない訳がない。

「馬車を用意しておくから、ゆっくりおいで」
「は……はい」

 足が震えて上手く歩けないルイーゼを気遣い、ミランダは先に部屋を出て行った。

(なんだあいつは、とか思われてるんだろうなぁ……)

 これまで散々、陰口を叩かれてきた。
 愛想が悪い、のろま、育ちが悪い。
 そういうのにはもう慣れてしまって、ルイーゼは見知らぬ人からの言葉には強い。
『勝手に言えば』と思えるようになった。
 そのはずだったが、流石に数千人もの前に立てば揺らいでしまう。

(せっかく聖女への信仰が戻ったのに、今日の演説で減っちゃったら……あああ……)

 実は、多くの反聖女派が今日の演説を機に聖女派へと鞍替えしたのだが――ルイーゼがそのことを知るのは、かなり先のこととなる。
 ルイーゼはその後、なんとか足の震えを抑え、王宮の廊下を真っ直ぐに歩く。
 式典は終わったが王宮内にはまだ多くの貴族が残っている。猫背でだらだら歩く姿を見られる訳にはいかない。
 なるべく背筋を伸ばし、聖女らしく堂々と振る舞う。
 途中、幾人もの貴族から声をかけられる。
 無視する訳にもいかない。その度にルイーゼは足を止め、応対を求められた。

(早く帰りたいのに……なんで今日に限ってこんなに声をかけられるの⁉)

「先を急ぎますので」というお決まりの言葉を置いて逃げること数回。
 気持ち早足で歩くルイーゼの前に、一人の少女が立った。

(うわ、すごく綺麗な子……)

 ルイーゼの第一印象はそれだった。
 身にまとうのは黒を基調としたドレスと、緩やかなウェーブのかかった黒髪。思わずルイーゼは目を奪われた。
 貴族は金髪や銀髪が多い。根拠はないものの、暗い色の髪は平民の血が混ざっている……などと言われるため地毛を染める者も多いが、少女は黒髪を保っている。
 すっきりとした目鼻立ちと、白い肌。猫を思わせるアーモンドアイに、どこか無機質な表情。
 一見するとマイナスポイントに見えるそれも、少女の美しさを際立たせる道具になっていた。
 黒髪の少女はスカートの端を持ち上げ、ルイーゼに美しいお辞儀をした。絹のようになめらかな黒髪に光が反射し、天使の輪が見える。

「先程の演説、素晴らしいものでした。高潔な志に感動を禁じ得ません」
「どうも、ありがとうございます」

 ルイーゼも咄嗟とっさにお辞儀を返した。
 落ちついた雰囲気と気品を持ち合わせた少女は、年齢以上に――おそらく、まだ十六くらいだろう――大人びて見えた。
 何も知らない者なら、ルイーゼの方が年下だと思うかもしれない。
 ルイーゼは目の前の少女をまじまじと見つめた。
 話しかけてきたのが年齢の近い少女であること。それがルイーゼから緊張を幾ばくか取り払ってくれた。
 さっきまで話しかけてきたのが年上の男性貴族ばかりだった、ということもあるかもしれない。
 ほんの少しだけ、彼女と話をしたいという気持ちが湧いた。

「……」

 しかし、何を言えばいいのか分からない。

(そういえば、年の近い子と話したこと、全然ない……)

 ルイーゼは元男爵令嬢だ。普通であれば、社交の場に出る機会はいくらでもあった。
 良い嫁ぎ先を見つけることで家族に認めてもらう――そういう方法を思いついたこともある。
 もちろん、結果は言うまでもないが。
 聖女になった後も、話をするのは年上の神官ばかりだった。
 己の経験不足を自覚したルイーゼは胸中で頭を抱える。
 ルイーゼが何も言わないからか、黒髪の少女は、すすっ……と、廊下の端に退いた。

「足止めして申し訳ありません。お急ぎでしたよね」
「あ、うぅ――ええ、そうです」

 先程ルイーゼに話しかけてきた貴族がまだ視界の端に居る。
 ここで時間があります、なんて言えばまた呼び止められるかもしれない。
 ルイーゼは泣く泣く、少女との会話を諦めた。

(年の近い友達が欲しいなぁ……)

 第一候補として騒動の時に出会ったピアがいるが、庶民で冒険者の彼女は身分差を気にして一定の線を越えてこない。困った時に力を借りられる仲間ではあるが、友達になるのは難しそうだ。
 平民から見た聖女は近寄りがたい存在に思えてしまうのかもしれない。
 もっと親しみのある聖女を目指したいところだ。

(あとは女の子同士でするような話題も考えておかないと)

 次、同じような機会に恵まれた時は会話を弾ませたい。
 そう思いながら少女の横を通り過ぎると――すれ違い様、彼女は小さな声で呟いた。

「――」
「え?」

 ルイーゼが振り向くと、彼女はもう背中を向けて歩き出していた。
 一瞬。たった一瞬だが、少女の表情は豹変ひょうへんしていた。
 まるで親のかたきを見るような目。
 そして口から出た言葉も、呪詛じゅそのように憎悪を含んでいた。
 ――偽物の分際で。
 小さな声だったが、しかしはっきりとそう言っていた。

「……どういう意味?」

 訳が分からず、ルイーゼは首を傾げた。


   ▼


 無事に貴族たちの声かけを乗り越えたルイーゼは、とある場所に来ていた。
 ぽつぽつと、ルイーゼはこの場にはいない『彼女』に語りかける。

「これで、あの事件以降のゴタゴタはようやく一段落つきました」

 ルイーゼが週に一度祈らない日――俗に言う『聖女の休日』――を設けたことなどは既に公表していたが、魔窟まくつの研究に関してはまだだった。
 今回の式典で、魔窟まくつの研究を行うことを大々的に周知した。
 反応は様々だったが、国民にはおおむね好意的に受け止めてもらえたようだ。
 魔窟の脅威を思い出した人々にとって、あの古ぼけた岩窟は風景の一部から消し去りたい対象へと変化した。

「これからもっと忙しくなります。……ここにも、あまり来られなくなるかもしれません」

 金持ち以外を締め出していた治療院も開放した。
 祈り、公務、治療院、そして研究。今までよりも忙しくなることは容易に想像できた。

「私が来なくても、寂しいって……思わないですよね、あなたは」

 ルイーゼの言葉に返事はないが、構わず両手に抱えていたものを置いた。

「はい、お花と――あなたが好きだったお酒とタバコです」

 ルイーゼの目の前にあるのは墓だ。墓石にはとある人物の名が刻まれている。
 ――第九代聖女クラリス、ここに眠る。

「私としては、『聖女』の役割はこのまま残っていて欲しい気持ちもあります」

 聖女は必要である。それがルイーゼの持論だ。
 残酷な面もあるが、期待されない、関与されない、認めてもらえない――そんな少女時代を過ごしたルイーゼを救ってくれたのはまぎれもなく聖女という役割だ。
 クラリスという、目標とすべき人物とも出会えた。
 聖女であること。それは今のルイーゼにとって文字通り『すべて』だ。
 聖女でなくなれば――ルイーゼには何も残らない。

「けど……やっぱり、アーヴには聖女の不要を証明してほしいです」

 ルイーゼは祈ることがスタングランド王国全員の幸せに繋がると考えていた。
 しかしアーヴィングは、その『全員』の中に一人だけ入っていない人物が居るという。
 ルイーゼ自身だ。
 初め、ルイーゼはアーヴィングの言葉に納得できなかった。聖女であることに何の不満もなかったし、誰かを支えること自体が幸せだったからだ。
 たとえルイーゼが寿命を迎えるまであと三年ほどで、もしかしたら明日から死の兆候があらわれたとしても。
 聖女でなくなり、誰からも必要とされなくなる。そちらの方がよほど怖い。
 だから現状維持が一番。これまでのルイーゼだったら、結論をそこに落ち着けていただろう。
 しかし今は違う。

「やりたいことができたんです」

 ルイーゼはクラリスの墓石に向かい、薄く微笑む。その頬は少しだけ朱に染まっていた。
 聖女として使命をまっとうすることのほかにも、やりたいことができた。
 それは――アーヴィングとの恋を成就させること。
 涙を流していた彼。
「必ず守る」と微笑んだ彼。
 真剣な表情で騎士の誓いを立てた彼。
 どの瞬間のアーヴィングも、ルイーゼの心を捕えて放さない。
 もしクラリスが生きていたら、それ見たことかと笑うだろう。
 俗物的だと言われても構わない。ルイーゼは聖女だが、聖人ではないのだから。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと言えるれっきとした人間だ。

「もしかしたら聖女の不要を証明するよりも難しいかもしれません。でも、私は負けません!」

 アーヴィングがルイーゼを恋愛対象として見ていないこと以外にも障害はある。
 聖女はその身を王国に捧げる存在。故に誰かと婚姻を結ぶことはできない。
 教主クロードはその不文律をねじ曲げてまでルイーゼを側に置こうとしていたが。
 もちろん、公にしない関係ならなれる。
 聖女の特権を利用し、男を囲っていた聖女も過去にいたらしい。
 しかしそれはルイーゼの望むものではない。
 神の前で愛を誓い、皆に祝福されること――ていに言えば、『好きな人のお嫁さん』になることが目標だ。
 今も好んで読んでいる市井しせいの恋愛小説。自分には関係ないと第三者視点で見ていたが――アーヴィングの登場により、一気に目線が変わった。
 ルイーゼがアーヴィングと結ばれるためには、聖女の不要が証明されなければならない。
 もっとも、その後には『彼に見初められる』というとんでもなく厚い壁があるが。
 ――聖女。
 ――魔窟まくつ
 ――脈なし。
 立ちはだかる壁はとんでもなく高く大きいが――あらゆる障害を乗り越え、この願いを達成したいとルイーゼは強く思っていた。

「まずは意識してもらえるところから少しずつ始めていきます」

 恋愛は一日にして成らず。聖女の不要を証明したとして、そこから行動を始めたのでは遅い。
 告白は先延ばしにできるが、アーヴィングの意識は少しずつしか変わらない。
 アプローチは今この瞬間からかけていく必要がある。
 ――とはいえ、自分から口付けをする勇気はもうないが。
 あれはあの一瞬、ルイーゼの中で最高に気分が盛り上がったからこそできた芸当だ。今やれと言われたら恥ずかしさで顔から火の魔法が出るだろう。
 焦らず、徐々に距離を詰める。できるのはそのくらいだ。
 だが、それでいい。

「ゆっくり関係を築いていって……そうですね、聖女の不要が証明できたタイミングで彼に告白しようと思います」

 その頃にはアーヴィングに意識してもらえていますように――ルイーゼは未来の自分にエールを送りながら、クラリスの墓に笑いかけた。

「これが、聖女でなくなった時の、私のやりたいことです」
「なんだ? そのやりたいこととは」
「今説明したじゃない。ってアーヴあああああぁ⁉」

 独り言に質問され、反射的に答えそうになる。
 寸前でルイーゼは出かかっていた言葉を無理やり悲鳴に化けさせた。
 飛び退きながら後ろを見ると、いつからそこに居たのか――アーヴィングが立っていた。

「ど、どどどどうしたのアーヴ?」
「なかなか戻って来ないから、様子を見に来ただけだが」
「そう? そ、そんなに待たせちゃった?」

 クラリスの墓前に立つと、ついいろいろ喋ってしまう。
 ルイーゼは冷や汗をかきながら前に立つアーヴィングを見つめた。
 アーヴィングに変わった様子はない……聞かれてはいないようだ。いつものように無表情の彼に、ルイーゼは内心で安堵した。

「そろそろ時間だ。教会まで送ろう」
「う、うん」

 なだらかな丘を下りた先で、教会が所有する馬車に乗り込む。
 かつてはゴテゴテとした装飾が取り付けられていて乗るのが恥ずかしかったが、今はすべて取り外している。
 馬車に揺られながら、なんとなくルイーゼがアーヴィングと目を合わせられないでいると、彼がぽつりと言った。

「聖女でなくなったらやりたいことがある、と言っていたな」
「う、うん……まあね」

 詳細を聞かれたらどうしよう。
 ルイーゼが必死にカモフラージュの案を考えていると、アーヴィングは自分の胸を、とん、と叩いた。

「任せろ。俺が必ず、お前の聖女のくさびを打ち壊してみせる」
「……」
(できればその後も、末永くお任せしたいんだけどなぁ……)

 ――深い関係になるつもりは毛頭ない。
 あの日、聖女研究所で言われた言葉はルイーゼの脳裏にこびりついている。
 つまり脈なしということだ。もちろんそんなことでルイーゼの恋の炎は消えたりしないが。
 教会に着き、アーヴィングの手を借りて地面に降り立つ。その時、少し離れた場所に仲睦まじい男女の姿が見えた。
 男の腕に、甘えるように腕をからめる女。

(いいなぁ……いつか、私も)

 馬車を降りるとすぐさま手を離すアーヴィングの横顔を、ちらりと盗み見る。
 ルイーゼにこれっぽっちも興味はありません、と言わんばかりの無表情に見える。

(私は手を握っただけでこんなにドキドキしてるのに……)

 感情の落差にため息をつきたくなるが、ぐっ、と堪える。

「……」

 その一方で、アーヴィングは表情のないまま自分の手で頬をつねり始めた。
 消え入りそうな声で、ぶつぶつと呟いている。

「心頭滅却、心頭滅却……心を乱すな。無だ。無になれ」
「なにしてるの、アーヴ?」

 しかしルイーゼがいぶかしむと、アーヴィングは「なんでもない」とそっぽを向いた。
 首を傾げるルイーゼに、アーヴィングはやや声の抑揚を落として告げた。

「実は、一部の貴族たちに聖女研究所のことを猛反対されていてな。明日、会談を開くことになった」
「聖女研究所の設立は国王陛下がお認めになったことなのに、今さら貴族が口を出すの?」
「……複雑な事情があるんだ」

 アーヴィングは言葉を濁した。あまり言いたくない理由があるようだ。

「しばらくここに来られないかもしれん。俺の不在時はミランダに護衛を頼んである。教会内の防衛装置もあるから大丈夫だと思うが……」
「……分かったわ」

 会えなくなる。
 それだけで、ルイーゼの胸に寂しさが去来したが、頭を横に振ってそれをはね除ける。

(私のために頑張ってくれているんだから、ワガママは駄目よ)

 彼が立ててくれた誓いに恥じないよう、仕事に集中しよう。
 決意を新たに、ルイーゼはアーヴィングと別れた。


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