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memory-02 水槽の中の脳
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僕の声が、聴こえるかい。もし聴こえたら、何か返事をしてほしい。どこかはるか遠くのほうから、自分にむかって呼びかけるそんな声が聴こえた気がした。私は言われたとおりに声を出してみる。ごぼ……っ、という水の中で息を吐きだしたの時のようなくぐもった音が短くして消えた。そういえばここは……どこなのだろう。
「……良かった。ちゃんと聴こえてはいるみたいだね、安心したよ。瀬名くん、小松博士の現在の状況は?」
「はい。人工神経系統への接続と装置からの脳への生体部品維持用疑似血液の供給は安定しています」
「そうか。ならこのままテストを続けても大丈夫かな?」
「ええ、問題ないと思います」
遠くから誰かが話し合うような会話が聞こえてくる。私はほかには何か聞こえないだろうかと耳をすましてみるが、わずかに低く機械かモーター音のようなものがする以外はまったくといっていいほどの無音だった。静かすぎる。私は不安になって再び声を出した。
「そんなに焦らなくても大丈夫だよ。君には今聴覚しかないけど、もう少ししたら五感で感じられるように自由に動ける体を用意するから」
『からだを、よういする……?いったい、なんのことだ』
「ああ、視覚がないから確認できないか。じゃあ僕から説明しよう、どうか落ち着いて聞いてほしい。今の君は脳だけで生きてる状態なんだ。水槽の中の脳って聞いたことないかな。君はまさにそのものと言っていい」
『ああ……しってる。ならわたしは、しんだのか?』
「うん。でも死んだのは君の肉体だけ。脳は奇跡的に無傷だったからこういう処置の方法になったけれどね」
最初に話かけてきた声の主は申し訳なさそうに話を続ける。
「ここがどこだか、自分が誰だかは思い出せるかい?」
『……むちゃをいうな。だがなんとなく……RUJのようなきがする』
「あってるよ。自分の名前はどうだい」
『こまつ……こまつ、とおる』
「そうだよ、僕は君の友だちの真木だ。覚えてるかい」
『ああ。さっきからはなしかけてたのはきみかマキ。きづかずにすまなかったな』
私が謝ると真木は「別に気にしてないよ」と言って笑う。その隣でもうひとつ別の声がした。
「あの……小松博士。僕のことは覚えてらっしゃいますか?」
『そのこえは……ああ、セナくんか。もちろんだとも』
遠慮がちに質問した瀬名は後ろになでつけた茶髪を指先で払い、鼻からずり落ちた眼鏡をかけなおす。目の覚めるようなピンク色の疑似血液で満たした円形の水槽の中で透の脳の周りで息継ぎのようなこまかな気泡が浮かぶのを眺めながら、自分の手にしたタブレット端末に表示されたモニター画面に連動して出力される透の音声パターンを確認する。声帯パーツを通していないのでやや硬く機械的ではあるが、口調から少しづつ普段の態度が戻っていくのを感じた。
「そうです、覚えていてくださってありがとうございます。何かほかに思いだせることはありますか?」
『…………そうだな。ユウとアキは、ぶじなのか』
「ええ。息子さんと奥さんはご無事です。まだ連絡はしてませんがきっと、小松博士が生きてると知ったらお2人とも喜ばれるはずですよ」
『はたして……そう、だろうか。わたしはもう、しんでいるのに……?』
瀬名の端末に表示された脳波と音声パターンがまるでこのまま生き続けることを拒んでしまいたい……とでもいうかのように一瞬だけ弱まってまた元通りになる。瀬名は透のその反応に表情をくもらせ「小松博士もお疲れのようですし、続きはまた明日にしませんか?」と真木に提案した。
「ああ、君がいうならそうしよう。今夜はゆっくり休んでほしい」
『ではそうさせてもらうとしようか。おやすみマキ、セナくんも』
「はい、それじゃあまた明日です。おやすみなさい」
真木と瀬名は研究室から出ていき、しばらくすると瀬名だけが戻ってきた。研究室に誰もいないことを確認するとドアの鍵を閉め、透の脳が浮かぶ水槽の前まで歩いていくと部屋のすみから椅子を持ってきて座った。物音に反応して水槽内にごぼごぼ……と気泡がわき上がる。水槽の中の透の脳と連携された瀬名のタブレット端末が音声を発し、瀬名に呼びかける。
『……そこにいるのは瀬名くん、かね。どうしたんだい、何か……忘れ物でもしたのかな?』
「すごい、見えてなくてもわかるんですね。いえ、なんとなくそばにいたくなっただけですから……気にしないでください」
『なんだか不安そうだね。こんな私でよければ、話を聞こうか』
「いいんですか?真木博士に質問責めされてお疲れでしょう。ご無理はなさらないでください。明日もテストの予定がありますし」
瀬名が心配するように言うと透がかすかに笑った。『本当に君は、真面目を絵に描いたみたいな人間だな瀬名くん』と続ける。
「他の人からも君は真面目すぎるってよく言われますよ。そういえば小松博士今その……どんなかんじがするんですか?」
『どう、とは?ああ。ずっと空中にふわふわ浮いているみたいな気分だよ。地面に両足がついていないかんじがしてどうも……落ち着かない。まあ肉体がないせいかもしれないがね』
「そうですか……。体のほうは製作が終わって現在調整中ですので実装まではまだ時間がかかるかと思います。それまでは今夜みたいなテストばかりになるかと。もし調子が優れなかったら遠慮なくおっしゃってください。真木博士にも伝えます」
瀬名はひと息にそう言うとはあ……と、疲れたため息を吐いた。同情するかのように水槽の中に断続的に泡が浮かぶ。
『気をつかわせてしまってすまないね瀬名くん。動かせる体がない以上、こうしてここへ浮かんでるよりほかなさそうだ。外に出れないのは仕方がないだろう』
「いいえ。そんなことないです。外出は真木博士の許可が必要なのでどうしてもというのでしたら明日聞いてみましょうか?」
『……いいのかい?頼むよ。真木は慎重派だから反対されるかもしれんが、ダメで元々というしね』
「わかりました。ああ、もうこんな時間か。小松博士、いろいろとお話できてよかったです。僕そろそろ自分の部屋にもどりますね」
『そうか、わかった。私も話せて楽しかったよ、ありがとう』
瀬名が研究室のドアを開けて外に出ると『おやすみ、瀬名くん』と小さく端末から声がした。瀬名がいなくなってしまうと、元の静けさが戻ってきた。透の脳は水槽の中で存在しない耳をすませる。聞こえるのは機械の作動音だけ。また1人になってしまった。
(眠れるかはわからないが、努力はしてみるか)
透の脳は頭の中で自宅の部屋のベッドに横になっている自分の姿を細かく想像してみる。目を閉じて、洗いたてのカバーがかけられたふかふかした枕に頭をあずける。手元にかけ布団を引きよせて顔をうずめる様子を思い浮かべると、しだいに眠気がやって来るような気がした。それから数分と経たないうちに透の脳は深い眠りにはいった。自室に戻った瀬名はタブレットのモニター画面上で脳波が睡眠をあらわすゆるやかな波形を描き始めたのを見て、ほっとした。
そうして自分も眠ろうとベッドの中で何回か寝返りをうつ。端末を両手にかかえたまま瀬名は寝てしまう。翌朝目が覚めた時に「あっ」と叫んで飛び起きた。自分の就寝中に何か異常はなかったかと、モニターの記録ログを大急ぎであさる。幸いにも透はまだ睡眠から覚醒していないようだ。瀬名は「……よかったあ」とつぶやいて再び布団に顔をうずめる。窓にとりつけた薄い遮光カーテンからまぶしい朝日が差しこんできて瀬名の顔を照らした。
「……良かった。ちゃんと聴こえてはいるみたいだね、安心したよ。瀬名くん、小松博士の現在の状況は?」
「はい。人工神経系統への接続と装置からの脳への生体部品維持用疑似血液の供給は安定しています」
「そうか。ならこのままテストを続けても大丈夫かな?」
「ええ、問題ないと思います」
遠くから誰かが話し合うような会話が聞こえてくる。私はほかには何か聞こえないだろうかと耳をすましてみるが、わずかに低く機械かモーター音のようなものがする以外はまったくといっていいほどの無音だった。静かすぎる。私は不安になって再び声を出した。
「そんなに焦らなくても大丈夫だよ。君には今聴覚しかないけど、もう少ししたら五感で感じられるように自由に動ける体を用意するから」
『からだを、よういする……?いったい、なんのことだ』
「ああ、視覚がないから確認できないか。じゃあ僕から説明しよう、どうか落ち着いて聞いてほしい。今の君は脳だけで生きてる状態なんだ。水槽の中の脳って聞いたことないかな。君はまさにそのものと言っていい」
『ああ……しってる。ならわたしは、しんだのか?』
「うん。でも死んだのは君の肉体だけ。脳は奇跡的に無傷だったからこういう処置の方法になったけれどね」
最初に話かけてきた声の主は申し訳なさそうに話を続ける。
「ここがどこだか、自分が誰だかは思い出せるかい?」
『……むちゃをいうな。だがなんとなく……RUJのようなきがする』
「あってるよ。自分の名前はどうだい」
『こまつ……こまつ、とおる』
「そうだよ、僕は君の友だちの真木だ。覚えてるかい」
『ああ。さっきからはなしかけてたのはきみかマキ。きづかずにすまなかったな』
私が謝ると真木は「別に気にしてないよ」と言って笑う。その隣でもうひとつ別の声がした。
「あの……小松博士。僕のことは覚えてらっしゃいますか?」
『そのこえは……ああ、セナくんか。もちろんだとも』
遠慮がちに質問した瀬名は後ろになでつけた茶髪を指先で払い、鼻からずり落ちた眼鏡をかけなおす。目の覚めるようなピンク色の疑似血液で満たした円形の水槽の中で透の脳の周りで息継ぎのようなこまかな気泡が浮かぶのを眺めながら、自分の手にしたタブレット端末に表示されたモニター画面に連動して出力される透の音声パターンを確認する。声帯パーツを通していないのでやや硬く機械的ではあるが、口調から少しづつ普段の態度が戻っていくのを感じた。
「そうです、覚えていてくださってありがとうございます。何かほかに思いだせることはありますか?」
『…………そうだな。ユウとアキは、ぶじなのか』
「ええ。息子さんと奥さんはご無事です。まだ連絡はしてませんがきっと、小松博士が生きてると知ったらお2人とも喜ばれるはずですよ」
『はたして……そう、だろうか。わたしはもう、しんでいるのに……?』
瀬名の端末に表示された脳波と音声パターンがまるでこのまま生き続けることを拒んでしまいたい……とでもいうかのように一瞬だけ弱まってまた元通りになる。瀬名は透のその反応に表情をくもらせ「小松博士もお疲れのようですし、続きはまた明日にしませんか?」と真木に提案した。
「ああ、君がいうならそうしよう。今夜はゆっくり休んでほしい」
『ではそうさせてもらうとしようか。おやすみマキ、セナくんも』
「はい、それじゃあまた明日です。おやすみなさい」
真木と瀬名は研究室から出ていき、しばらくすると瀬名だけが戻ってきた。研究室に誰もいないことを確認するとドアの鍵を閉め、透の脳が浮かぶ水槽の前まで歩いていくと部屋のすみから椅子を持ってきて座った。物音に反応して水槽内にごぼごぼ……と気泡がわき上がる。水槽の中の透の脳と連携された瀬名のタブレット端末が音声を発し、瀬名に呼びかける。
『……そこにいるのは瀬名くん、かね。どうしたんだい、何か……忘れ物でもしたのかな?』
「すごい、見えてなくてもわかるんですね。いえ、なんとなくそばにいたくなっただけですから……気にしないでください」
『なんだか不安そうだね。こんな私でよければ、話を聞こうか』
「いいんですか?真木博士に質問責めされてお疲れでしょう。ご無理はなさらないでください。明日もテストの予定がありますし」
瀬名が心配するように言うと透がかすかに笑った。『本当に君は、真面目を絵に描いたみたいな人間だな瀬名くん』と続ける。
「他の人からも君は真面目すぎるってよく言われますよ。そういえば小松博士今その……どんなかんじがするんですか?」
『どう、とは?ああ。ずっと空中にふわふわ浮いているみたいな気分だよ。地面に両足がついていないかんじがしてどうも……落ち着かない。まあ肉体がないせいかもしれないがね』
「そうですか……。体のほうは製作が終わって現在調整中ですので実装まではまだ時間がかかるかと思います。それまでは今夜みたいなテストばかりになるかと。もし調子が優れなかったら遠慮なくおっしゃってください。真木博士にも伝えます」
瀬名はひと息にそう言うとはあ……と、疲れたため息を吐いた。同情するかのように水槽の中に断続的に泡が浮かぶ。
『気をつかわせてしまってすまないね瀬名くん。動かせる体がない以上、こうしてここへ浮かんでるよりほかなさそうだ。外に出れないのは仕方がないだろう』
「いいえ。そんなことないです。外出は真木博士の許可が必要なのでどうしてもというのでしたら明日聞いてみましょうか?」
『……いいのかい?頼むよ。真木は慎重派だから反対されるかもしれんが、ダメで元々というしね』
「わかりました。ああ、もうこんな時間か。小松博士、いろいろとお話できてよかったです。僕そろそろ自分の部屋にもどりますね」
『そうか、わかった。私も話せて楽しかったよ、ありがとう』
瀬名が研究室のドアを開けて外に出ると『おやすみ、瀬名くん』と小さく端末から声がした。瀬名がいなくなってしまうと、元の静けさが戻ってきた。透の脳は水槽の中で存在しない耳をすませる。聞こえるのは機械の作動音だけ。また1人になってしまった。
(眠れるかはわからないが、努力はしてみるか)
透の脳は頭の中で自宅の部屋のベッドに横になっている自分の姿を細かく想像してみる。目を閉じて、洗いたてのカバーがかけられたふかふかした枕に頭をあずける。手元にかけ布団を引きよせて顔をうずめる様子を思い浮かべると、しだいに眠気がやって来るような気がした。それから数分と経たないうちに透の脳は深い眠りにはいった。自室に戻った瀬名はタブレットのモニター画面上で脳波が睡眠をあらわすゆるやかな波形を描き始めたのを見て、ほっとした。
そうして自分も眠ろうとベッドの中で何回か寝返りをうつ。端末を両手にかかえたまま瀬名は寝てしまう。翌朝目が覚めた時に「あっ」と叫んで飛び起きた。自分の就寝中に何か異常はなかったかと、モニターの記録ログを大急ぎであさる。幸いにも透はまだ睡眠から覚醒していないようだ。瀬名は「……よかったあ」とつぶやいて再び布団に顔をうずめる。窓にとりつけた薄い遮光カーテンからまぶしい朝日が差しこんできて瀬名の顔を照らした。
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