天下を駆ける(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)

牛馬走

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   三

 その日、夜明けから雲行きが怪しくなってきたと思ったら、昼下がりあたり立っていられないくらいの風が吹いた。野分だ。
「今日は走りは諦めるしかない」
 史郎は四千に告げて街道脇の森に分け入った。せめて、杣小屋か最低限、大木の影に隠れようと思ったのだ。
「ここしかないな」
 見つかったのは、木々の下にできた洞だった。史郎と四千が入るとほとんど身動きできない。
 こんな場所では火もつけられず、ふたりは身を寄せ合った。
「こうしていると思い出すな」
「なにをだ」
 四千の言葉に史郎は疑問を返す。視線の先では風に運ばれ、雨のしずくが猛烈な速度で木々や地面を叩いていた。風が唸り、人の怨嗟の声にも聞こえた。犬丸の声が風に紛れているようにも思える。
「史郎は野分を怖がって、父の腰のあたりに抱きついていただろう」
「そうだったか?」
 言われてみて、そんなこともあったな、と思い出す。
 野分がやって来ると、木々が密集したあたりに天幕を密集させて互いに結び合ってそなえたものだ。
 天幕は風に揺れ、魑魅魍魎の類が叩いているような気がした。
 ふだん、厳しかった史郎の指南の男、四千の父だったが、野分におびえる史郎を追い払おうとはしなかった。
 いや、今考えると優しかった。確かに鍛錬のときは厳しかった。
 だが、史郎が風邪を引けば一番に気づいたし、朝餉、夕餉を自分の分を減らしてでもたらふく食わせてくれた。
「大麻呂は壮健か?」
 史郎の問いかけに間が空く。
「死んだ」
 と四千はこたえた。
「病だ」と重ねられた言葉に、「そうか」他に言葉が見つからず史郎は返す。
「淋しいな」
「それが摂理というものだ」
 史郎の言葉を四千は殊更にといった口調で否定した。
「人が生まれ、生き、やがて病か老いで死ぬ。それは当然のことだ」
「そうだな」
 あえて否定せず史郎はうなずいた。
「死ぬといえば、史郎は泣いたことがあったな」
「いつのことだ?」
 大麻呂には泣かせられっぱなしだったし、いつのことが言われてみないと分からない。
「熊を退治して、残った子熊を村で育てたことがあったろう?」
「ああ、あのときか」
 幼い獣の魅力に史郎は一発で魅了された。
 かいがいしく面倒を見て、遊んだ。他方、四千は子熊と一定の距離を保っていた。
「お前が子熊と距離を取っていたのは、別れの辛さを知っていたからだな」
「おまえが来る前に、同じく子熊を育てたことがあった」
 そして、人に牙を剥く前に捌いて食うのだ。
 移動集落の大人たちが表に出て、村の中央の子熊を見据えた。そこに、短刀を手にした大麻呂が歩いて行った。
「ねえ、どうするの?」
 言わずもがなのことを当時の史郎はたずねる。
「命をもらう。それが人が生きる、ということだ。肝に銘じろ」
 大麻呂がこちらを見ずに告げ、熊に近づいた。
「ねえ、止めようよ。かわいそうだよ」
 史郎は必死に訴えた。
 熊の手前で大麻呂が足を止め肩越しにこちらを一瞥する。
「それで、人が襲われるのを捨て置くのか? 熊と我らは相容れぬ」
 何か言わなければ、と史郎が思っているうちに大麻呂が熊に近づき片手で抱き上げるような姿勢を子熊に取らせた。
 刹那、脇から心臓に短刀が抜けるのが史郎にはわかった。
 毛の間に短刀が埋もれている。子熊はほとんど身動きをしなかったのだ。苦しまずに死んだのだろう。
「腰刀を持ってくるんだ」
 大麻呂がふたたび肩越しに視線をよこして告げた。
 何をするのか分からないが、彼の視線の鋭さに動かされて史郎は天幕に入り腰刀を持って大麻呂の側にやって来る。
 彼は子熊を横たえていた。
「こやつを斬れ」
 え、と大麻呂の言葉に史郎は目を見開く。
 試し切り、だ。だが、それは日本の歴史を紐解けば、まだマシなほうだ。死体を試し切りに使っていた時代もあった。
 ほら、と大麻呂が史郎に柄を握らせたまま鞘走らせる。そして、両腕を後ろにまわってとって上段の構えを取らせた。
「斬らねば、いつまでもそうしておかせる」
 大麻呂が残酷な宣言をする。
 だが、史郎は動き出せない。あんなに遊んだ熊なのだ、亡骸とて粗末にできない。
「粗末にするのではない、お前の糧とするのだ」
 こちらの心中を見抜いて大麻呂が告げた。
 刹那、「斬れ」と大麻呂が怒鳴る。
「斬らねば、お前を斬るぞ」
 大麻呂の大音声に、史郎は総身が痺れるような感覚をおぼえた。 
 瞬間、彼の感情に関係なく体が動く。
 閃、上段から熊の骸に向かって刀身をふりおろしていた。
 肉を、骨を断つ感触が柄から両手に伝わる。みぞおちのあたりに氷を当てられたような感覚をおぼえた。
 ごめんなさい、史郎はか細い声で謝る。
「よくやった」
 大麻呂が大きくうなずいた。
 子熊の亡骸は両断されている。これが自分がなしたことだと信じられなかった。
 だが、その日から史郎はかわった。
 死を恐れなくなった。相手を斬ることを躊躇わなくなった。
「父は残酷なことをおまえにした」
「なれど、そのおかげで俺はいっぱしの剣技の遣い手となった」
 四千の言葉に、史郎は反論する。
 それが正しかったのかは分からないが、あれがひとつのきっかけになった。
 何かを得るために何かを失ったのだ。
 では、犬丸の死でおのれは何を得たのか――。
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