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夜が明けるころには静かになっていた。
史郎は四千を起こさないように留意しつつ、用を足しに洞を出る。
少し先の木陰で用を足してもどると、洞の少し手前に善鬼が腰をおろしてあぐらをかいていた。
「いやはや、難儀でございましたな」
「まさに、波乱といった感じだな」
かぶりをふる老爺に、史郎は側に腰をおろしてこたえる。
「雨風を防げず、風邪を引いた者もおりましょうな」
「心残りの負けだ」
自分で言ったことに、史郎は犬丸の死にざまを思い出した。
「思い出されますか?」
長い付き合いだ、かすかな顔つきの変化から善鬼が推測する。
「今生の間、忘れることはないだろうな」
史郎はため息をもらした。
「悔やまれますな。されど、史郎様だけの罪ではありませぬ。手前も、犬丸君がそこまで思いつめられてとはとはつゆ知らず」
「貴族として生きるには純情に過ぎた」
雅などと言っているが、貴族など民草の上であぐらをかく薄汚い生き物だ。
「手前も、伺見としての働きの中で余人の死に耐えきれなくなった者を幾人か見送りもうした」
善鬼が中空に視線を向けて告げる。
「憶えておいでですか? 川原で史郎様が犬丸君に剣術指南を行った折のことを」
「憶えている。したが、指南などということでもない」
善鬼の言葉に、史郎は微苦笑を浮かべた。
「なんの、あのあと犬丸君は随分と剣が上達しました」
「いっそ、俺を斬れるまでに強くなればよかったのだ」
史郎の言葉に、善鬼が眉をひそめる。
「史郎様が死ねば悲しむ者がおります」
「そうだな」
史郎は力なくうなずいた。
それに、と思う。今の発言は、自分が弟を殺めた事実から逃げようとするものだった。
「いっそ、京にもどって懇ろな仲の女性(にょしょう)を連れて逐電してはいかがです」
真海のようなことを、と史郎は思う。
「三つ競べの最中にトンボ返りすれば、殿様も意表を衝かれましょうて」
「それは、犬丸を殺した俺にとって“逃げ”だ。もはや、逃げることはできぬ」
善鬼の言葉に、史郎は首を左右にふった。
そう、逃げられない――。
「さりとて、三つ競べに勝ったところで虚しゅうございましょう」
「お前は誰の伺見なのだ」
史郎は笑みを浮かべる。
「真面目な話にございまする」
「されど、どこに行っても蹴落とし、蹴落とされるは人の常だ」
中央では貴族たちが権力闘争に明け暮れ、やがて彼らに取って代わるもののふたちが地方では盤踞している。
隠者にでもならなければ争いから逃れることはできない。
そして、自信が誰かに仕掛けなくても、盗賊にでも目をつけられればそれで終わりだ。
世のなんと儚いことか。
「なに、四千もいる。三つ競べの勝利は揺るがないさ」
史郎は強がりを言った。
「影ながら、史郎様を支え仕りまする」
善鬼がこうべを低くして訴える。
「頼りにしている」
史郎は微苦笑を浮かべた。
少しばかりだが、犬丸を死なせたことの重みが薄れた気がする。
「うん、史郎。誰かいるのか?」
「善鬼がな」
と視線を四千に向ける間に、老伺見は闇に消えた。
史郎は幼いころに比べ、おのれは強くなったと思っていた。
しかし、弟の死に直面すれば“この”体たらくだ。強さとはなんなのだろうな――胸のうちでつぶやく。
史郎は四千を起こさないように留意しつつ、用を足しに洞を出る。
少し先の木陰で用を足してもどると、洞の少し手前に善鬼が腰をおろしてあぐらをかいていた。
「いやはや、難儀でございましたな」
「まさに、波乱といった感じだな」
かぶりをふる老爺に、史郎は側に腰をおろしてこたえる。
「雨風を防げず、風邪を引いた者もおりましょうな」
「心残りの負けだ」
自分で言ったことに、史郎は犬丸の死にざまを思い出した。
「思い出されますか?」
長い付き合いだ、かすかな顔つきの変化から善鬼が推測する。
「今生の間、忘れることはないだろうな」
史郎はため息をもらした。
「悔やまれますな。されど、史郎様だけの罪ではありませぬ。手前も、犬丸君がそこまで思いつめられてとはとはつゆ知らず」
「貴族として生きるには純情に過ぎた」
雅などと言っているが、貴族など民草の上であぐらをかく薄汚い生き物だ。
「手前も、伺見としての働きの中で余人の死に耐えきれなくなった者を幾人か見送りもうした」
善鬼が中空に視線を向けて告げる。
「憶えておいでですか? 川原で史郎様が犬丸君に剣術指南を行った折のことを」
「憶えている。したが、指南などということでもない」
善鬼の言葉に、史郎は微苦笑を浮かべた。
「なんの、あのあと犬丸君は随分と剣が上達しました」
「いっそ、俺を斬れるまでに強くなればよかったのだ」
史郎の言葉に、善鬼が眉をひそめる。
「史郎様が死ねば悲しむ者がおります」
「そうだな」
史郎は力なくうなずいた。
それに、と思う。今の発言は、自分が弟を殺めた事実から逃げようとするものだった。
「いっそ、京にもどって懇ろな仲の女性(にょしょう)を連れて逐電してはいかがです」
真海のようなことを、と史郎は思う。
「三つ競べの最中にトンボ返りすれば、殿様も意表を衝かれましょうて」
「それは、犬丸を殺した俺にとって“逃げ”だ。もはや、逃げることはできぬ」
善鬼の言葉に、史郎は首を左右にふった。
そう、逃げられない――。
「さりとて、三つ競べに勝ったところで虚しゅうございましょう」
「お前は誰の伺見なのだ」
史郎は笑みを浮かべる。
「真面目な話にございまする」
「されど、どこに行っても蹴落とし、蹴落とされるは人の常だ」
中央では貴族たちが権力闘争に明け暮れ、やがて彼らに取って代わるもののふたちが地方では盤踞している。
隠者にでもならなければ争いから逃れることはできない。
そして、自信が誰かに仕掛けなくても、盗賊にでも目をつけられればそれで終わりだ。
世のなんと儚いことか。
「なに、四千もいる。三つ競べの勝利は揺るがないさ」
史郎は強がりを言った。
「影ながら、史郎様を支え仕りまする」
善鬼がこうべを低くして訴える。
「頼りにしている」
史郎は微苦笑を浮かべた。
少しばかりだが、犬丸を死なせたことの重みが薄れた気がする。
「うん、史郎。誰かいるのか?」
「善鬼がな」
と視線を四千に向ける間に、老伺見は闇に消えた。
史郎は幼いころに比べ、おのれは強くなったと思っていた。
しかし、弟の死に直面すれば“この”体たらくだ。強さとはなんなのだろうな――胸のうちでつぶやく。
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