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第二章 バグった運命と、重すぎる愛のログ
『運命の書』のバグと、詩織の暴走
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あの雨の日の事故から三日が過ぎた。
俺、青葉一樹の日常は、平和になるどころか以前とは比べ物にならないほどの「異常事態」に陥っていた。
まずは、全ての元凶である『運命の書』の状態について説明しなければならない。
月曜日の朝。
俺は登校前の自室で恐る恐るあの革表紙の本を開いた。
あの日、雛森詩織を救った直後からこの本の挙動はおかしい。
ページをめくる。
『四月二十日』の記述。
本来なら、そこには深い赤色で彼女の死が記されていたはずだった。
だが、今のページはまるで、コンピュータがウイルスに感染した時の画面のように荒れ狂っていた。
『四月二十日。■■■■■は、運命の■■■により、死の淵から生還した』
『エラー:因果律の不整合を検知。修正パッチを適用中……失敗』
『対象・雛森詩織のパラメータが書き換えられました。属性:【薄幸の美少女】→【運命の恋人(自称)】』
「……なんだよこれ」
文字が物理的に点滅している。
インクが滲んでいるのではない。
文字そのものが、バグった電子掲示板のように明滅し形を変え続けているのだ。
しかも、その下に続く文章が不穏すぎる。
『警告:生存ルートへの移行に伴い、対象の感情値がオーバーフローを起こしています』
『彼女の世界の中心は、現在「青葉一樹」に固定されました』
「オーバーフローって……」
嫌な予感しかしない。
俺は本を閉じ、鞄に放り込んだ。
とにかく学校へ行こう。
詩織が無事だったことはこの目で確認している。
あの子は大人しくて、控えめな図書委員だ。
いくら命の恩人だからってそんな漫画みたいな急変をするわけがない。
そう、自分に言い聞かせていた。
玄関のドアを開けるまでは。
「おはようございます、青葉くん!」
ドアを開けた瞬間、視界いっぱいに「ピンク色」が広がった。
「うわぁっ!?」
俺は悲鳴を上げて後ずさる。
目の前にいたのは雛森詩織だった。
いつもの儚げな雰囲気はどこへやら。 朝日を背負った彼女は背景にバラの花が見えるような満面の笑みを浮かべていた。
そして、その手には風呂敷に包まれた重箱のような巨大な何かが抱えられている。
「ひ、雛森……さん? なんで俺の家に……」
「お迎えに上がりました。体調はいかがですか? 右腕の擦り傷は痛みませんか? 夜は眠れましたか?」
一歩後ずさる俺に、彼女は二歩詰め寄ってくる。
近い。
いい匂いがするけど瞳の光が強すぎる。
図書室で静かに本を読んでいた深窓の令嬢はそこにいなかった。
「あ、あの、俺は大丈夫だから……」
「よかった……! 私、心配で心配で、昨日は一睡もできなくて……気づいたら三時にはもう、この家の前に立っていたんです」
「三時!?」
「はい。青葉くんの寝息が聞こえる距離にいられるだけで、私、幸せで……」
頬を染めてうっとりと語る彼女。
恐怖。
圧倒的な恐怖である。
深夜三時からずっと俺の家の前で待機していた?
それはもう、けなげを通り越してホラーだ。
「おいコラ泥棒猫ぉぉぉッ!!」
その時、頭上から怒号が降ってきた。
二階のベランダではない。
隣の家の玄関から食パンを口にくわえたまま飛び出してきた莉緒が猛ダッシュで突っ込んでくるところだった。
「ちょ、ちょっと! 何してんのよあんた!?」
莉緒は俺と詩織の間に割って入り、両手を広げて俺を庇う(?)ポーズをとった。
ハニーブラウンの髪が乱れている。
寝癖がついているのが彼女らしくて少し安心する。
「あら……橘さん。おはようございます」
「おはよう、じゃないわよ! なんで朝からカズの家の前にいんのよ!」
「青葉くんをお守りするためです」
「はあ!? 守るのは私の役目なんですけど!?」
詩織は莉緒の剣幕にも動じない。
むしろ、慈愛に満ちた(そしてどこか見下ろしたような)微笑みを浮かべた。
「橘さん。貴女には感謝しています。あの日、協力してくれたことは忘れません」
「う……そ、それはまあ、どういたしまして……」
「ですが、ここから先は『運命の相手』である私の管轄です」
「うんめ……はああああ!?」
莉緒が素っ頓狂な声を上げる。
「あの日、トラックの前に飛び出してくれた瞬間、私には見えたんです。彼と私の赤い糸が」
「見えてない! それ幻覚だから!」
「いいえ、運命です。というわけで青葉くん、これ、お弁当作ってきました。お昼、一緒に食べましょうね」
詩織は俺の手にずしりと重い風呂敷包みを押し付けると、「では、学校でお待ちしています♡」と言い残し、軽やかなステップで去っていった。
嵐が去った後のような静寂。
手の中の弁当が鉛のように重い。
「……カズ」
「は、はい」
莉緒がゆらりと振り返った。
その目は笑っていなかった。
「……説明、してくれるわよね?」
「いや、俺も被害者なんだって! 本にも『感情値がオーバーフロー』とか書いてあって……」
「オーバーフローだろうがなんだろうが! 私の目の前で! 他の女の弁当受け取ってんじゃないわよ!」
「理不尽!」
バシッ! と背中を叩かれる。
痛い。
でも、この痛みだけが今の俺にとって唯一の「日常」だった。
***
学校での時間は地獄と天国が入り混じったようなカオスだった。
詩織の暴走は止まらなかった。
休み時間のたびに俺の席に来ては、「お茶を淹れてきました」「肩をお揉みしましょうか」「次の授業の教科書、開いておきました」と甲斐甲斐しく世話を焼く。
クラス中の男子からは「爆発しろ」という視線を浴び、女子からは「雛森さんってあんなキャラだったっけ?」とヒソヒソ噂される。
そして、その全ての攻防戦において莉緒が鉄壁のガードを見せていた。
「はいストップ! お茶なら私がさっき買ったから!」
「肩こり? カズは頑丈だから必要なし!」
「教科書くらい自分で開けるわよ、赤ちゃんじゃないんだから!」
莉緒は必死だった。
元々「親友」というポジションに安住していた彼女にとって、詩織のような「直球の好意」をぶつけてくるライバルは脅威以外の何物でもないのだろう。
放課後。
詩織の「一緒に下校しましょう攻撃」を莉緒が「今日は補習の手伝いがあるから!」という嘘八百で撃退し、俺たちはなんとか二人だけで帰路についた。
夕暮れの公園。
七年前、約束を交わしたあのジャングルジムに俺たちは並んで座っていた。
「……はぁ。疲れた」
「……お疲れ、カズ」
莉緒が缶ジュースを俺の頬に押し当てる。
冷たさが心地いい。
「悪かったな、莉緒。一日中盾になってもらって」
「別に。……カズが流されるのが悪いんでしょ」
「流されてないって。俺だって戸惑ってるんだよ」
俺はプルタブを開けコーラを喉に流し込む。
莉緒は足をぶらぶらさせながら、遠くの夕日を眺めていた。
その横顔がいつになくしおらしい。
「……ねえ、カズ」
「ん?」
「あの子、本気だね」
「まあ、そうみたいだな」
「命の恩人だもんね。……好きになっちゃうのも、わかるよ」
莉緒の声が少しだけ震えた気がした。
俺は彼女を見る。
いつもは強気な瞳が今は少しだけ不安げに揺れている。
「もしさ。あの子が『運命』だとしたら、カズはどうすんの?」
「どうするって……」
「本に書いてあったんでしょ?『運命の恋人』って。……本の通りにするの?」
それは、核心を突く問いだった。
俺は『運命の書』に従って彼女を助けた。
その結果として生まれた恋心なら、それを受け入れるのもまた運命なのかもしれない。
でも。
「……俺は、本に従うために生きてるわけじゃない」
俺は空になった缶を握りしめた。
「詩織を助けたのは、あの子に生きててほしかったからだ。付き合うとか、そういうのはまた別の話だろ。……それに」
「それに?」
「俺の運命を変えてくれたのはあの子じゃない」
俺は莉緒の方を向いた。
夕日を浴びて、彼女の頬が赤く染まっているのがわかる。
「俺の白紙だったページを動かしたのは、莉緒、お前だ。……お前が帰ってこなかったら俺はまだ退屈な毎日の中で死んでたよ」
キザなセリフだったかもしれない。
でも、本心だった。
あの再会の瞬間。
俺の時間が動き出したあの感覚だけは何があっても揺るがない事実だ。
莉緒が目を丸くする。
そして、見る見るうちに耳まで真っ赤になって慌てて顔を背けた。
「……ば、バカじゃないの!?」
「バカってなんだよ!」
「急に真面目な顔して……反則だよ、今の」
彼女はモジモジとパーカーの紐をいじっている。
その仕草が昔のガキ大将の面影とは程遠い、ただの「女の子」のもので。
俺の心臓も、遅れて大きく跳ねた。
「……帰ろっか」
「おう」
俺たちはジャングルジムを降りた。
帰り道、手をつなぐことはなかったけれど、肩が触れ合う距離はずっと変わらなかった。
***
その夜。
夕食(今日は母さんのハンバーグだった)を終え、俺は部屋でくつろいでいた。
当然のように莉緒もいる。
「ゲームしに来た」と言って上がり込んだ彼女は、俺のベッドに腹ばいになって漫画を読んでいる。
その無防備な足の動きが気になって、俺は勉強に集中できない。
「なあ、莉緒。そろそろ帰らなくていいのか?」
「んー? まだ九時だし。……それに、今日はカズを一人にするの危険だし」
「なんでだよ」
「夜中にピンク色の何かが襲来するかもしれないでしょ?」
根に持っている。
相当、今朝の待ち伏せが衝撃だったらしい。
「大丈夫だよ。さすがに夜這いはかけてこないだろ」
「わかんないわよー。あの子、目が据わってたもん。『運命』連呼してたし」
莉緒は漫画を閉じると、くるりと寝返りを打って仰向けになり天井を見つめた。
「……ねえ。私とも、してよ」
「え?」
「運命ごっこ」
「は?」
俺が聞き返すと、莉緒はむくっと起き上がりベッドの上で正座をして俺に向き直った。
その顔は、ふざけているようで、どこか真剣だった。
「あの子ばっかりズルい。……私だって、カズの運命変えたんでしょ?」
「ま、まあ……」
「だったら、私にも権利あるじゃん」
彼女はベッドから降りると椅子に座る俺の目の前に立った。
そして、ぐいっと顔を近づけてくる。
甘い香りが俺の思考回路をショートさせる。
「カズの物語のヒロインは、私なんだからね」
囁くような声。
吐息がかかる距離。
大きな瞳に、俺のマヌケな顔が映っている。
「ちょ、莉緒……近……」
「……文句ある?」
「いや……ない、けど」
俺が赤くなって視線を逸らすと、彼女は満足そうに「ん、よし!」と笑って体を離した。
「じゃ、帰る! 明日も早いし、またあの泥棒猫対策しなきゃだからね!」
言うが早いか、彼女は窓を開け風のようにベランダへと消えていった。
後に残されたのは開け放たれた窓と、高鳴りすぎた俺の心臓の音だけ。
「……あいつ、絶対わかってやってるだろ」
俺は熱くなった頬を手で冷やしながら大きなため息をついた。
詩織の重い愛も怖いが、莉緒のこういう不意打ちも心臓に悪すぎる。
やれやれと頭を振り、俺は鞄から『運命の書』を取り出した。
今日の出来事でも記録してさっさと寝よう。
そう思ってページを開いた。
しかし。
そこに記されていたのは今日のラブコメじみた日常の記録ではなかった。
ザザザ……と、文字がノイズのように走る。
詩織の記述のバグは消えていないが、そのさらに先のページ。
白紙だったはずの未来に、新たな、そして明確な「異変」が刻み込まれていた。
『警告:物語の修正力が限界を超えました』
『複数のヒロインによる運命干渉により、世界線に亀裂が発生』
『明日、新たな「管理者」が接触してきます』
管理者?
また新しい何かが来るのか?
俺が首を傾げたその時だった。
ページの上に、ポタリ、と何かが落ちた。
インク?
いや、違う。
水滴だ。
俺は天井を見上げる。
雨漏りか?
いや、天井は乾いている。
ポタリ、ポタリ。
本から水が湧き出している。
いや、違う。
本の中に書かれた文字が、まるで氷が溶けるように液体になってページから溢れ出しているのだ。
「うわっ!?」
俺は慌てて本を取り落とした。
床に落ちた本から青白い光が漏れ出す。
そしてその光は空中に投影され、ホログラムのように一つの文章を形作った。
『――時間管理局、規定違反者ヲ捕捉。回収班、現着マデ、アト5秒』
「は……?」
5、4、3……。
カウントダウンが始まる。
俺の部屋の空気が急激に冷えていく。
窓の外の風景がテレビの砂嵐のように歪み始める。
2、1……。
「0」
カチリ。
時計の秒針が止まる音がやけに大きく響いた。
俺の部屋の真ん中。
空間がガラスのように砕け散り、その裂け目から一人の少女が音もなく降り立った。
銀色の長い髪。
無機質なほど整った顔立ち。
SF映画に出てくるような奇妙なボディスーツを身に纏った少女。
彼女は床に落ちた『運命の書』を拾い上げると、感情の一切ない瞳で俺を見据えた。
「初めまして、イレギュラー・青葉一樹」
鈴を転がすような、けれど氷のように冷たい声。
「時間管理局、コードネーム『クロノ』
あなたの運命を凍結しに来ました」
詩織の愛が暴走し、莉緒との距離が縮まったその矢先。
俺たちの物語は、唐突にジャンルを変更しようとしていた。
ラブコメの次はSFサスペンスだって?
聞いてない。
俺の平穏な高校生活は、またしても粉々に打ち砕かれようとしていた。
俺、青葉一樹の日常は、平和になるどころか以前とは比べ物にならないほどの「異常事態」に陥っていた。
まずは、全ての元凶である『運命の書』の状態について説明しなければならない。
月曜日の朝。
俺は登校前の自室で恐る恐るあの革表紙の本を開いた。
あの日、雛森詩織を救った直後からこの本の挙動はおかしい。
ページをめくる。
『四月二十日』の記述。
本来なら、そこには深い赤色で彼女の死が記されていたはずだった。
だが、今のページはまるで、コンピュータがウイルスに感染した時の画面のように荒れ狂っていた。
『四月二十日。■■■■■は、運命の■■■により、死の淵から生還した』
『エラー:因果律の不整合を検知。修正パッチを適用中……失敗』
『対象・雛森詩織のパラメータが書き換えられました。属性:【薄幸の美少女】→【運命の恋人(自称)】』
「……なんだよこれ」
文字が物理的に点滅している。
インクが滲んでいるのではない。
文字そのものが、バグった電子掲示板のように明滅し形を変え続けているのだ。
しかも、その下に続く文章が不穏すぎる。
『警告:生存ルートへの移行に伴い、対象の感情値がオーバーフローを起こしています』
『彼女の世界の中心は、現在「青葉一樹」に固定されました』
「オーバーフローって……」
嫌な予感しかしない。
俺は本を閉じ、鞄に放り込んだ。
とにかく学校へ行こう。
詩織が無事だったことはこの目で確認している。
あの子は大人しくて、控えめな図書委員だ。
いくら命の恩人だからってそんな漫画みたいな急変をするわけがない。
そう、自分に言い聞かせていた。
玄関のドアを開けるまでは。
「おはようございます、青葉くん!」
ドアを開けた瞬間、視界いっぱいに「ピンク色」が広がった。
「うわぁっ!?」
俺は悲鳴を上げて後ずさる。
目の前にいたのは雛森詩織だった。
いつもの儚げな雰囲気はどこへやら。 朝日を背負った彼女は背景にバラの花が見えるような満面の笑みを浮かべていた。
そして、その手には風呂敷に包まれた重箱のような巨大な何かが抱えられている。
「ひ、雛森……さん? なんで俺の家に……」
「お迎えに上がりました。体調はいかがですか? 右腕の擦り傷は痛みませんか? 夜は眠れましたか?」
一歩後ずさる俺に、彼女は二歩詰め寄ってくる。
近い。
いい匂いがするけど瞳の光が強すぎる。
図書室で静かに本を読んでいた深窓の令嬢はそこにいなかった。
「あ、あの、俺は大丈夫だから……」
「よかった……! 私、心配で心配で、昨日は一睡もできなくて……気づいたら三時にはもう、この家の前に立っていたんです」
「三時!?」
「はい。青葉くんの寝息が聞こえる距離にいられるだけで、私、幸せで……」
頬を染めてうっとりと語る彼女。
恐怖。
圧倒的な恐怖である。
深夜三時からずっと俺の家の前で待機していた?
それはもう、けなげを通り越してホラーだ。
「おいコラ泥棒猫ぉぉぉッ!!」
その時、頭上から怒号が降ってきた。
二階のベランダではない。
隣の家の玄関から食パンを口にくわえたまま飛び出してきた莉緒が猛ダッシュで突っ込んでくるところだった。
「ちょ、ちょっと! 何してんのよあんた!?」
莉緒は俺と詩織の間に割って入り、両手を広げて俺を庇う(?)ポーズをとった。
ハニーブラウンの髪が乱れている。
寝癖がついているのが彼女らしくて少し安心する。
「あら……橘さん。おはようございます」
「おはよう、じゃないわよ! なんで朝からカズの家の前にいんのよ!」
「青葉くんをお守りするためです」
「はあ!? 守るのは私の役目なんですけど!?」
詩織は莉緒の剣幕にも動じない。
むしろ、慈愛に満ちた(そしてどこか見下ろしたような)微笑みを浮かべた。
「橘さん。貴女には感謝しています。あの日、協力してくれたことは忘れません」
「う……そ、それはまあ、どういたしまして……」
「ですが、ここから先は『運命の相手』である私の管轄です」
「うんめ……はああああ!?」
莉緒が素っ頓狂な声を上げる。
「あの日、トラックの前に飛び出してくれた瞬間、私には見えたんです。彼と私の赤い糸が」
「見えてない! それ幻覚だから!」
「いいえ、運命です。というわけで青葉くん、これ、お弁当作ってきました。お昼、一緒に食べましょうね」
詩織は俺の手にずしりと重い風呂敷包みを押し付けると、「では、学校でお待ちしています♡」と言い残し、軽やかなステップで去っていった。
嵐が去った後のような静寂。
手の中の弁当が鉛のように重い。
「……カズ」
「は、はい」
莉緒がゆらりと振り返った。
その目は笑っていなかった。
「……説明、してくれるわよね?」
「いや、俺も被害者なんだって! 本にも『感情値がオーバーフロー』とか書いてあって……」
「オーバーフローだろうがなんだろうが! 私の目の前で! 他の女の弁当受け取ってんじゃないわよ!」
「理不尽!」
バシッ! と背中を叩かれる。
痛い。
でも、この痛みだけが今の俺にとって唯一の「日常」だった。
***
学校での時間は地獄と天国が入り混じったようなカオスだった。
詩織の暴走は止まらなかった。
休み時間のたびに俺の席に来ては、「お茶を淹れてきました」「肩をお揉みしましょうか」「次の授業の教科書、開いておきました」と甲斐甲斐しく世話を焼く。
クラス中の男子からは「爆発しろ」という視線を浴び、女子からは「雛森さんってあんなキャラだったっけ?」とヒソヒソ噂される。
そして、その全ての攻防戦において莉緒が鉄壁のガードを見せていた。
「はいストップ! お茶なら私がさっき買ったから!」
「肩こり? カズは頑丈だから必要なし!」
「教科書くらい自分で開けるわよ、赤ちゃんじゃないんだから!」
莉緒は必死だった。
元々「親友」というポジションに安住していた彼女にとって、詩織のような「直球の好意」をぶつけてくるライバルは脅威以外の何物でもないのだろう。
放課後。
詩織の「一緒に下校しましょう攻撃」を莉緒が「今日は補習の手伝いがあるから!」という嘘八百で撃退し、俺たちはなんとか二人だけで帰路についた。
夕暮れの公園。
七年前、約束を交わしたあのジャングルジムに俺たちは並んで座っていた。
「……はぁ。疲れた」
「……お疲れ、カズ」
莉緒が缶ジュースを俺の頬に押し当てる。
冷たさが心地いい。
「悪かったな、莉緒。一日中盾になってもらって」
「別に。……カズが流されるのが悪いんでしょ」
「流されてないって。俺だって戸惑ってるんだよ」
俺はプルタブを開けコーラを喉に流し込む。
莉緒は足をぶらぶらさせながら、遠くの夕日を眺めていた。
その横顔がいつになくしおらしい。
「……ねえ、カズ」
「ん?」
「あの子、本気だね」
「まあ、そうみたいだな」
「命の恩人だもんね。……好きになっちゃうのも、わかるよ」
莉緒の声が少しだけ震えた気がした。
俺は彼女を見る。
いつもは強気な瞳が今は少しだけ不安げに揺れている。
「もしさ。あの子が『運命』だとしたら、カズはどうすんの?」
「どうするって……」
「本に書いてあったんでしょ?『運命の恋人』って。……本の通りにするの?」
それは、核心を突く問いだった。
俺は『運命の書』に従って彼女を助けた。
その結果として生まれた恋心なら、それを受け入れるのもまた運命なのかもしれない。
でも。
「……俺は、本に従うために生きてるわけじゃない」
俺は空になった缶を握りしめた。
「詩織を助けたのは、あの子に生きててほしかったからだ。付き合うとか、そういうのはまた別の話だろ。……それに」
「それに?」
「俺の運命を変えてくれたのはあの子じゃない」
俺は莉緒の方を向いた。
夕日を浴びて、彼女の頬が赤く染まっているのがわかる。
「俺の白紙だったページを動かしたのは、莉緒、お前だ。……お前が帰ってこなかったら俺はまだ退屈な毎日の中で死んでたよ」
キザなセリフだったかもしれない。
でも、本心だった。
あの再会の瞬間。
俺の時間が動き出したあの感覚だけは何があっても揺るがない事実だ。
莉緒が目を丸くする。
そして、見る見るうちに耳まで真っ赤になって慌てて顔を背けた。
「……ば、バカじゃないの!?」
「バカってなんだよ!」
「急に真面目な顔して……反則だよ、今の」
彼女はモジモジとパーカーの紐をいじっている。
その仕草が昔のガキ大将の面影とは程遠い、ただの「女の子」のもので。
俺の心臓も、遅れて大きく跳ねた。
「……帰ろっか」
「おう」
俺たちはジャングルジムを降りた。
帰り道、手をつなぐことはなかったけれど、肩が触れ合う距離はずっと変わらなかった。
***
その夜。
夕食(今日は母さんのハンバーグだった)を終え、俺は部屋でくつろいでいた。
当然のように莉緒もいる。
「ゲームしに来た」と言って上がり込んだ彼女は、俺のベッドに腹ばいになって漫画を読んでいる。
その無防備な足の動きが気になって、俺は勉強に集中できない。
「なあ、莉緒。そろそろ帰らなくていいのか?」
「んー? まだ九時だし。……それに、今日はカズを一人にするの危険だし」
「なんでだよ」
「夜中にピンク色の何かが襲来するかもしれないでしょ?」
根に持っている。
相当、今朝の待ち伏せが衝撃だったらしい。
「大丈夫だよ。さすがに夜這いはかけてこないだろ」
「わかんないわよー。あの子、目が据わってたもん。『運命』連呼してたし」
莉緒は漫画を閉じると、くるりと寝返りを打って仰向けになり天井を見つめた。
「……ねえ。私とも、してよ」
「え?」
「運命ごっこ」
「は?」
俺が聞き返すと、莉緒はむくっと起き上がりベッドの上で正座をして俺に向き直った。
その顔は、ふざけているようで、どこか真剣だった。
「あの子ばっかりズルい。……私だって、カズの運命変えたんでしょ?」
「ま、まあ……」
「だったら、私にも権利あるじゃん」
彼女はベッドから降りると椅子に座る俺の目の前に立った。
そして、ぐいっと顔を近づけてくる。
甘い香りが俺の思考回路をショートさせる。
「カズの物語のヒロインは、私なんだからね」
囁くような声。
吐息がかかる距離。
大きな瞳に、俺のマヌケな顔が映っている。
「ちょ、莉緒……近……」
「……文句ある?」
「いや……ない、けど」
俺が赤くなって視線を逸らすと、彼女は満足そうに「ん、よし!」と笑って体を離した。
「じゃ、帰る! 明日も早いし、またあの泥棒猫対策しなきゃだからね!」
言うが早いか、彼女は窓を開け風のようにベランダへと消えていった。
後に残されたのは開け放たれた窓と、高鳴りすぎた俺の心臓の音だけ。
「……あいつ、絶対わかってやってるだろ」
俺は熱くなった頬を手で冷やしながら大きなため息をついた。
詩織の重い愛も怖いが、莉緒のこういう不意打ちも心臓に悪すぎる。
やれやれと頭を振り、俺は鞄から『運命の書』を取り出した。
今日の出来事でも記録してさっさと寝よう。
そう思ってページを開いた。
しかし。
そこに記されていたのは今日のラブコメじみた日常の記録ではなかった。
ザザザ……と、文字がノイズのように走る。
詩織の記述のバグは消えていないが、そのさらに先のページ。
白紙だったはずの未来に、新たな、そして明確な「異変」が刻み込まれていた。
『警告:物語の修正力が限界を超えました』
『複数のヒロインによる運命干渉により、世界線に亀裂が発生』
『明日、新たな「管理者」が接触してきます』
管理者?
また新しい何かが来るのか?
俺が首を傾げたその時だった。
ページの上に、ポタリ、と何かが落ちた。
インク?
いや、違う。
水滴だ。
俺は天井を見上げる。
雨漏りか?
いや、天井は乾いている。
ポタリ、ポタリ。
本から水が湧き出している。
いや、違う。
本の中に書かれた文字が、まるで氷が溶けるように液体になってページから溢れ出しているのだ。
「うわっ!?」
俺は慌てて本を取り落とした。
床に落ちた本から青白い光が漏れ出す。
そしてその光は空中に投影され、ホログラムのように一つの文章を形作った。
『――時間管理局、規定違反者ヲ捕捉。回収班、現着マデ、アト5秒』
「は……?」
5、4、3……。
カウントダウンが始まる。
俺の部屋の空気が急激に冷えていく。
窓の外の風景がテレビの砂嵐のように歪み始める。
2、1……。
「0」
カチリ。
時計の秒針が止まる音がやけに大きく響いた。
俺の部屋の真ん中。
空間がガラスのように砕け散り、その裂け目から一人の少女が音もなく降り立った。
銀色の長い髪。
無機質なほど整った顔立ち。
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聞いてない。
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