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最終章 第一話 最後の祭りが始まる、それは恋の終わりの始まり
平穏の終わりを告げる、甘い毒
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秋風が、レースのカーテンを優しく揺らす季節。俺、天城コウの日常は、かつてないほどの平穏と、そして、どうしようもなく甘いカオスに満ちていた。
大学の講義がない、穏やかな平日の午後。俺が住むアパート『メゾン・サンライト』の203号室は、挽きたてのコーヒー豆の香ばしい匂いに包まれている。
「んー……やっぱりこのブレンド、落ち着くな……」
一人ごちて、マグカップに口をつける。
この部屋で一人暮らしを始めて、もう二年近くが経つ。最初の頃の、がらんとしてどこか心許なかったワンルームは、今や生活感という名の温かい混沌に満ちていた。
その混沌の主な原因は、リビングのソファの定位置で、ブランケットにくるまって丸くなっている、銀髪の義妹だ。
「お兄ちゃん、次の配信でやるドッキリ、どっちがいいと思う?『お兄ちゃんの部屋から、夜々先輩の私物が発見されるドッキリ』と、『お兄ちゃんのベッドの下から、メグちゃんの推しグッズが発掘されるドッキリ』!」
「どっちも俺の社会的生命が終わるやつじゃないか。却下だ」
Vtuber《ひよこまる♪》こと天城ひより。
喉の不調をきっかけに、俺が彼女の“中の人”を務めたあの日から、俺たちの関係は“兄妹”であり、“相棒”であり、そして……何か名前のつけられない、特別なものになった。今もこうして、同じ部屋で暮らし、同じ未来を夢見ている。
壁の向こう、2022号室からは、かすかに「うおおお!神ゲーかよぉぉ!」という葛城メグのゲーム実況の絶叫が聞こえてくる。
かと思えば、上の303号室からは、不知火夜々先輩が奏でる、優雅なバイオリンの旋律が流れてきた。
絶叫とクラシックの不協和音。
もはや、この『ご近所ハーレム』という名の奇妙な日常の、テーマソングのようなものだった。
風邪を引けば三方向から過剰なまでの看病という名の波状攻撃を受け、実の両親が来れば即席の恋愛裁判が開廷し、ボイスドラマの練習をすれば唇が触れる寸前までいく……。うん、平穏とは程遠い。
でも、その絶え間ない騒がしさが、不思議と心地よいと感じ始めている自分も、確かにいた。この、騒がしくて、愛おしい日々が、ずっと続けばいい。
そんな、ありふれた感傷に浸っていた俺の思考は、一本の電話によって、唐突に打ち破られた。
◇
「――はい、皆さん、お疲れ様でしたーっ!」
その日の夕方。LinkLive事務所での定例ミーティングが終わった直後だった。
メンバーたちがぞろぞろと会議室を出ていく中、マネージャーの神代カオルさんが、俺だけを呼び止めた。
その手には、鳴り響くスマホ。
そして、その表情は、いつもの悪戯っぽい笑みではなく、見たことのないほど真剣なものだった。
「コウくん、ちょっとだけいい?君に、外部から指名の電話」
「俺に、ですか?」
訝しみながらも、差し出されたスマホを受け取る。一体、誰から……?
「――もしもし、天城コウくん、だね?突然の連絡、失礼。大手レコード会社でA&Rを担当している、黒木と申します」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、疑いようのない、業界の“大人”の声だった。穏やかで、知的で、しかし有無を言わせぬ自信に満ちた響き。
「君の“声”に惚れ込んだ。単刀直入に言おう。うちで、メジャーデビューしないか?」
「………………は?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。メジャーデビュー?俺が?
「あ、あの……俺は、一応LinkLive所属のVtuber《レイ》として……」
「もちろん、存じ上げているよ。君の配信は、全てチェックさせてもらった。素晴らしい才能だ。だが、我々が惚れ込んだのは、Vtuber《レイ》のキャラクターじゃない」
黒木と名乗る男は、確信に満ちた声で続けた。
「我々が欲しいのは、“天城コウ”という、君自身の声なんだ。君本人名義での、ソロアーティストデビュー。どうかな、興味はないかい?」
ソロアーティストデビュー。
“天城コウ”本人名義。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。それは、誰かの代役ではない、俺自身の声で世界に挑む、あまりにも甘く、そして毒のような魅力に満ちたオファーだった。
「……少し、考えさせて、ください」
そう答えるのが、精一杯だった。電話を切った後、俺はしばらく動けなかった。
手の中にあるスマホが、まるで人生の岐路を示すコンパスのように、ずしりと重い。
手の中にあるのは、無限の可能性への切符だ。
声優、アーティスト……俺が心のどこかで、漠然と夢見ていたかもしれない未来への扉。
だが、その切符を使うことは、原点であるひよりとのユニット「ひよりとレイ」という、俺たちの始まりの物語に、終止符を打つことを意味していた。
Vtuber《レイ》は、《ひよこまる♪》の隣にいてこそ、存在意義があったはずだ。
俺一人の力じゃない。
ひよりがいて、彼女を支えたいという想いがあったからこそ、俺の声は、たくさんの人に届いたんだ。それを、俺は……手放すのか?
ざわめく心の中で、俺が最初に考えたのは、たった一つ。
「これを、ひよりにどう伝えればいいんだ……?」
祝福してくれるだろうか。それとも、泣いてしまうだろうか。
どちらにしても、俺たちの“今”が、もう二度と元には戻れない場所へと変わってしまうことだけは、確かだった。
窓の外は、いつの間にか夕暮れの茜色に染まっていた。その色は、あまりにも優しくて、今の俺の心には、少しだけ痛かった。
大学の講義がない、穏やかな平日の午後。俺が住むアパート『メゾン・サンライト』の203号室は、挽きたてのコーヒー豆の香ばしい匂いに包まれている。
「んー……やっぱりこのブレンド、落ち着くな……」
一人ごちて、マグカップに口をつける。
この部屋で一人暮らしを始めて、もう二年近くが経つ。最初の頃の、がらんとしてどこか心許なかったワンルームは、今や生活感という名の温かい混沌に満ちていた。
その混沌の主な原因は、リビングのソファの定位置で、ブランケットにくるまって丸くなっている、銀髪の義妹だ。
「お兄ちゃん、次の配信でやるドッキリ、どっちがいいと思う?『お兄ちゃんの部屋から、夜々先輩の私物が発見されるドッキリ』と、『お兄ちゃんのベッドの下から、メグちゃんの推しグッズが発掘されるドッキリ』!」
「どっちも俺の社会的生命が終わるやつじゃないか。却下だ」
Vtuber《ひよこまる♪》こと天城ひより。
喉の不調をきっかけに、俺が彼女の“中の人”を務めたあの日から、俺たちの関係は“兄妹”であり、“相棒”であり、そして……何か名前のつけられない、特別なものになった。今もこうして、同じ部屋で暮らし、同じ未来を夢見ている。
壁の向こう、2022号室からは、かすかに「うおおお!神ゲーかよぉぉ!」という葛城メグのゲーム実況の絶叫が聞こえてくる。
かと思えば、上の303号室からは、不知火夜々先輩が奏でる、優雅なバイオリンの旋律が流れてきた。
絶叫とクラシックの不協和音。
もはや、この『ご近所ハーレム』という名の奇妙な日常の、テーマソングのようなものだった。
風邪を引けば三方向から過剰なまでの看病という名の波状攻撃を受け、実の両親が来れば即席の恋愛裁判が開廷し、ボイスドラマの練習をすれば唇が触れる寸前までいく……。うん、平穏とは程遠い。
でも、その絶え間ない騒がしさが、不思議と心地よいと感じ始めている自分も、確かにいた。この、騒がしくて、愛おしい日々が、ずっと続けばいい。
そんな、ありふれた感傷に浸っていた俺の思考は、一本の電話によって、唐突に打ち破られた。
◇
「――はい、皆さん、お疲れ様でしたーっ!」
その日の夕方。LinkLive事務所での定例ミーティングが終わった直後だった。
メンバーたちがぞろぞろと会議室を出ていく中、マネージャーの神代カオルさんが、俺だけを呼び止めた。
その手には、鳴り響くスマホ。
そして、その表情は、いつもの悪戯っぽい笑みではなく、見たことのないほど真剣なものだった。
「コウくん、ちょっとだけいい?君に、外部から指名の電話」
「俺に、ですか?」
訝しみながらも、差し出されたスマホを受け取る。一体、誰から……?
「――もしもし、天城コウくん、だね?突然の連絡、失礼。大手レコード会社でA&Rを担当している、黒木と申します」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、疑いようのない、業界の“大人”の声だった。穏やかで、知的で、しかし有無を言わせぬ自信に満ちた響き。
「君の“声”に惚れ込んだ。単刀直入に言おう。うちで、メジャーデビューしないか?」
「………………は?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。メジャーデビュー?俺が?
「あ、あの……俺は、一応LinkLive所属のVtuber《レイ》として……」
「もちろん、存じ上げているよ。君の配信は、全てチェックさせてもらった。素晴らしい才能だ。だが、我々が惚れ込んだのは、Vtuber《レイ》のキャラクターじゃない」
黒木と名乗る男は、確信に満ちた声で続けた。
「我々が欲しいのは、“天城コウ”という、君自身の声なんだ。君本人名義での、ソロアーティストデビュー。どうかな、興味はないかい?」
ソロアーティストデビュー。
“天城コウ”本人名義。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。それは、誰かの代役ではない、俺自身の声で世界に挑む、あまりにも甘く、そして毒のような魅力に満ちたオファーだった。
「……少し、考えさせて、ください」
そう答えるのが、精一杯だった。電話を切った後、俺はしばらく動けなかった。
手の中にあるスマホが、まるで人生の岐路を示すコンパスのように、ずしりと重い。
手の中にあるのは、無限の可能性への切符だ。
声優、アーティスト……俺が心のどこかで、漠然と夢見ていたかもしれない未来への扉。
だが、その切符を使うことは、原点であるひよりとのユニット「ひよりとレイ」という、俺たちの始まりの物語に、終止符を打つことを意味していた。
Vtuber《レイ》は、《ひよこまる♪》の隣にいてこそ、存在意義があったはずだ。
俺一人の力じゃない。
ひよりがいて、彼女を支えたいという想いがあったからこそ、俺の声は、たくさんの人に届いたんだ。それを、俺は……手放すのか?
ざわめく心の中で、俺が最初に考えたのは、たった一つ。
「これを、ひよりにどう伝えればいいんだ……?」
祝福してくれるだろうか。それとも、泣いてしまうだろうか。
どちらにしても、俺たちの“今”が、もう二度と元には戻れない場所へと変わってしまうことだけは、確かだった。
窓の外は、いつの間にか夕暮れの茜色に染まっていた。その色は、あまりにも優しくて、今の俺の心には、少しだけ痛かった。
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