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【SOS】
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夏休みも終わりが近づいたある日の午後。市民プールでたっぷり遊び、ヘトヘトになって帰宅した桜は、玄関のドアを開けながら軽やかに叫んだ。
「たでーまー! ……って、今日はママも仕事だし、お姉ちゃんも部活でいないんだっけ。銀ちゃんは起きてるかなぁー……って、ウギャー‼」
リビングに入った桜は、思わず絶叫した。床の真ん中に、銀仁朗が突っ伏して倒れていたのだ。その横には、開封された大きな段ボール箱が無造作に置かれている。床には散らばったオリーブの葉が確認できた。
おそるおそる近づいてみると、銀仁朗の指先が、一枚のオリーブの葉を指していることに気づいた。
「ここ、これって、コ◯ンで見たことのある『ダイニング・メッセージ』とかいうやつじゃないのか⁉」
「ゔ、ゔぅ~」
「あ、銀ちゃん生きてんの?」
「い、いぎでるでぇ……」
「なぁんだ」
「な、なんでそこで残念がるねん」
「だって、生きてちゃダイニング・メッセージじゃなくなるじゃん」
「そ、それを言うなら『ダイイング・メッセージ』やろ……がい。ダイニングにしたら、オカンの『チンして食べてね♡』みたいな置き手紙になって……まう……やろがい——」
桜の言い間違いにツッコんだ直後、銀仁朗は再びバタリと倒れ込んだ。
「ぎ、銀ちゃん? え、え、これ普通にヤバいやつじゃね⁈ どどど、どーしよぉー!」
パニックに陥った桜は、リビングを頭を抱えながらグルグルと歩き回った。やがて目が回って転倒してしまう。だが、これが功を奏したのか、ハッと正気を取り戻すと、頭の中にパッと良いアイデアが浮かんだ。
「ゔ~、イテテテ。あっ、そうだ! 博士先生に相談しよう!」
慌ててスマホを探すが、カバンの中にない。
「スマホスマホ~、ってあれれ~、おっかしいぞ~。スマホが鞄の中に無いよ~って、あーっ、今日プールに行くのに忘れて部屋に置いてったんだった!」
ダッシュで自分の部屋に戻り、スマホを手に取る。検索バーに『博士先生』と打ち込むが、該当する病院は出てこない。
「えー、なんで出てこないの? ……あっ、そっか! 博士先生って、桜だけが呼んでるあだ名だった! 凡ミス凡ミス~……って、そんなん言ってる場合じゃないよ‼」
気を取り直して『ABC動物病院』と入力し直す。
「あ、これだ……ってそうだ、ABO動物クリニックだった! また間違えてたー!」
なんとか番号を見つけ出し、電話を掛ける決心をした。家族以外への電話はこれが初めてで、緊張で手が震える。けれど、銀仁朗の姿を見て、意を決して通話ボタンを押した。
「はい、こちらABO動物クリニックです」
「あ、こ、こんにちは……」
「(あら、子どもから?)こんにちは、どうかなさいましたか?」
「あと、えーっと、うちの銀ちゃ、いや、ペットが——」
「銀ちゃ……もしかして、大原さん?」
「あ、はい! あ、受付のお姉さんですか?」
「そうそう。桜ちゃん……だっけ?」
「はい、そうです!」
「どうしたの? コア、じゃなくて、銀ちゃんに何かあったの?」
「さっき帰ってきたら、リビングで倒れてたんです! しかもすごく苦しそうで……」
「えっ⁉ い、息はしてる?」
「うん、さっき少しだけお話ししたけど、また倒れちゃって……」
「ちょっと待ってて、今先生に代わるから」
受付のお姉さんがそう言い残すと、保留音の『エリーゼのために』が流れてきた。状況の深刻さと、初めての電話対応に、桜の心臓は、エリーゼのためにの穏やかな音色と反比例し、まるでパンクドラムのように猛烈な勢いで鼓動を刻み続けていた。
待つこと数十秒。聞き覚えのある男性の声がスマホから聞こえてきた。
「こんにちは、お嬢ちゃん。銀ちゃんの具合が悪いそうじゃが、今どんな状況じゃ?」
「は、はい。今、床に倒れてます……意識はあるけど、ずっと苦しそうです」
「ご家族はおらんのか?」
「みんなお仕事とか学校で、今、家には桜だけです」
「そうか……。ご自宅はここから近かったかの?」
「うん。自転車で五分くらい!」
「……わかった。今は昼休み中じゃから、特別に私が今からそっちへ向かおう」
「ホントに⁉ 博士先生、ありがとう!」
「子ども一人で、銀ちゃんを連れてくるのは大変じゃろうしな。少し準備が必要だから、十五分から二十分ほど待っててくれるか?」
「うん、銀ちゃんのこと、ちゃんと診ておくね!」
「うむ。では頼んだぞ、しっかり者のお嬢ちゃん」
「はい!」
その後、桜は英莉子と玲にも電話をかけてみたが、どちらも繋がらなかった。
正直、一人でこの空間にいるのは心細くてたまらなかった。
けれど――博士先生から銀仁朗の看病を託されたことを思い出し「桜がしっかりしなきゃ……!」
そう自分に言い聞かせながら、懸命に心を落ち着けようと努め続けた。
通話を終えてから約二十分。ようやく、待ち人の訪れを告げるチャイムの音が鳴った。
「はーい!」
「阿保です、大原さん宅であっとるかね?」
「うん、今開けます!」
どうやらエレベーターが混んでいたらしく、エントランスのチャイムが鳴ってから博士先生が家の前まで来るのに三分ほどかかった。
その間、桜は玄関の前を右へ左へと落ち着きなく行ったり来たり。まるで小動物のようにそわそわしていた。
ようやく玄関チャイムが鳴ると、桜はその音が鳴り終わる前にドアの鍵を開け、先生を中へと招き入れた。
「博士先生、こっちです!」
「よし、お邪魔するぞ」
「銀ちゃん、博士先生が診にきてくれたよ! 大丈夫?」
「ゔー、ゔーん……」
「随分と苦しそうじゃな。ちょいと仰向けに姿勢を変えるぞ」
「ゔー、ぐるじ~ぃ」
「(ん? 今、苦しいと言わんかったか? いや、気のせいか)よし、では触診を始めよう。ふむ……腹部がかなり張っておるな。少し発汗もあるが、発熱しとる訳ではなさそうじゃ。嬢ちゃん、銀ちゃんに最近、何か変わったことはなかったかの?」
「うーん……特に何も変わらないと思うけどなぁ」
「いつもと違うものを食べた、とかも?」
「んー、ユーカリの葉が少なくなってきたから、最近はオリーブの葉っぱを食べることが多いよ。こないだも話したけど、小豆島まで行って、いっぱいもらってきたんだ!」
「なるほど、ユーカリだけじゃなくてオリーブの葉も……。コアラがオリーブを食べるなんて、あまり聞かんがのう——」
博士先生が問診を進めていると、玄関のドアがガチャリと開く音がした。
「ただいま。桜、帰ってるみたいね……って、何これ? え、誰の靴⁉ 誰か来てるの!? さ、桜、大丈夫⁉」
英莉子の声が聞こえた瞬間、桜は勢いよく立ち上がって玄関へと走った。
そして、母の姿を見た途端――思わず飛びつき、その胸に顔をうずめた。
次の瞬間、今まで必死に張り詰めてていた心の糸がぷつんと切れ、堰を切ったように涙があふれ出す。
「ぶぇえ~~ん! 銀ぢゃんがぁ~、倒れででぇ~、ぜんぜーがぎでぐれだのぉ~!」
「ちょっ、ちょっと落ち着いて、桜! 銀ちゃんがどうしたって⁉」
「こんにちは、大原さん。お邪魔しとるよ」
「……はっ? えっ⁉ な、何で阿保先生がうちに——」
「お嬢ちゃんからSOSの電話が来てのぉ、銀ちゃんが倒れとると」
「ぎ、銀ちゃんが倒れたですって⁉」
「あぁ、今様子を診ておったところじゃ」
「そ、そんな……。わざわざお越しいただいて……本当に、申し訳ありません!」
英莉子は姿勢を正し、深く頭を下げた。そして顔を上げると、心配そうな表情で先生に問いかけた。
「それで、銀ちゃんは……」
「うーむ。診たところ……ただの食べ過ぎじゃな」
思いがけない拍子抜けの診断結果に、英莉子と桜は同時に「はっ?」と声を揃え、固まった。
「そ、それだけですか? 他に悪いところは……」
「うむ、いたって健康体じゃ。むしろ健康すぎて食欲が止まらなくなったのかもしれん。わっはっはー!」
「ママ、博士先生……なんかごめん」
「お騒がせして、すみませんでした……」
英莉子は先ほどよりもさらに深く頭を下げて謝罪し、桜もそれに倣ってぺこりと頭を下げた。
「よいよい。二人とも、頭を上げなされ。今回は命に別条無かったが、もし本当に何かあったのなら、取り返しがつかんかったかもじゃしのぉ。嬢ちゃんの勇敢な行動力に免じて、お咎めなしということにしようじゃないか。わっはっはー!」
「そう言って頂けると助かります」
「とはいえ、今後は食事管理はきちんとせんとじゃな」
「普段は、そんなに食べ過ぎるなんてことないのに……あっ!」
英莉子が何かに気づき、目を見開いた。
「今朝届いた段ボールが開いてるわ……。桜が開けたの?」
「ううん、帰ってきた時から開いてたよ。あれ、中に何が入ってるの?」
「小豆島から、中矢さんが送ってきてくれたオリーブの葉よ」
「あぁっ! 銀ちゃんが倒れてたとこに、オリーブの葉っぱが散らばってたけど、あれってもしかして、銀ちゃんが勝手に段ボール開けて食べたやつなんじゃない⁉」
その時、床に突っ伏していた銀仁朗が、ゆっくりと起き上がり、観念したよう事のあらましを白状しだした。
「す……すまん。ちょっと、一口だけ思て味見しよったら、これが美味ぁてなぁ。ほんでつい、止められない止まらない状態になってもうたんや……」
「か〇ぱえびせんかっ! もぅダメでしょ、銀ちゃん! せっかく食糧危機を乗り越えたばっかなのに、今度は食べ過ぎでダウンって……洒落にならないわよ‼」
「いや、はい、仰る通りで、返す言葉もございません」
「元はと言えば、私が仕事に行く前に荷物の管理をきちんとしてなかったのもいけなかったから、今回はお説教だけで済ませてあげるけど」
「説教はあるんやな……」
「当然でしょ! 先生にもわざわざ来てもらって、桜にも心配かけたんだから……」
「そだそだー! 桜がどんだけ不安だったか分かるぅ⁉」
英莉子と桜のダブル叱責に耐え切れず、銀仁朗は土下座しながら「ほんっまに、すまんかった!」と叫んだ。
一方でその様子を眺めていた博士先生はというと――あんぐりと口を開けたまま、固まっていた。
その異変に気づいた桜が、そっと先生の白衣の袖を引っ張った。
「博士先生——大丈夫?」
その呼びかけで我に返った先生は、小さく呻くように呟いた。
「……何故コアラが普通にしゃべっとる? しかもそれを誰一人疑問に思っとらんのは一体……」
「あれ? 銀ちゃんお話出来るって、こないだ病院で言わなかったかなぁ?」
「た、確か鳴き声がどうとかいう話はしたような……」
「銀ちゃんは鳴かないよー。普通に喋れるから」
「わ、わしは動物医として四十年近くこの職に就いておる。そのわしが断言する……。銀ちゃんはコアラじゃない!」
「いや、コアラやで。可愛い~いコアラやで♪」
そう言って、銀仁朗は自分なりの可愛いポーズを披露した。
「うーん、そんなに可愛いっていうか、まぁ愛嬌あるって感じ?」
「桜っこ、そこは否定すなや!」
「私も同感ね。癒されるけど……可愛いとはちょっと違うかも」
「母上まで!」
「いやいや、もう……可愛いか可愛くないかとか、そんなのどうでもえぇんじゃ!」
「まさかの先生までもっ!」
「アラが喋るなんて、世界がひっくり返るレベルの一大ニュースじゃぞ! ……そもそも一般家庭で飼ってる時点で異常なんじゃが……」
思わず本音が漏れたその発言に、英莉子は思わずうなずいた。
「ですよねぇ~。……ホント、タブー扱いですよねぇ~」
「うぅむ……。本来なら学会に発表してもおかしくない事例なんじゃが、ご家族のことを考慮すると、秘密にしておくのが最も無難な選択なんじゃろうな……」
「桜達は、世界でたった一匹のしゃべるコアラを匿ってるってことだね! そう考えると、そそるねぇ~」
「何がそそるねぇ~よ。全く……どこでそんな顔芸まで覚えて来るのやら……」
「わっはっはー! やはり、嬢ちゃんは面白いのぉ。まぁ前にも言ったが、くれぐれも銀ちゃんのことは内密にしておくのじゃぞ」
「はい、その様に致します」
「おお、そうじゃった。銀ちゃんの具合じゃが、診た感じでは今は特に問題なさそうじゃ。しばらく安静にしておけば、いずれ元通りになるじゃろう」
「せやな、今はまだ腹パンパンで苦しいけど、寝ときゃそのうちマシになるわ」
先生は動物から直接コメントをもらうという前代未聞の診察に、戸惑いを隠せない様子でこめかみをかきながら呟いた。
「いやはや……動物に返答をもらうと、調子が狂うのぉ……」
「先生、今回はほんまにすまんかった! 今後はこんなことにならんよう、摂生致します」
「銀ちゃん。こういうのは、あなただけの問題じゃないのよ。出来る限り、不要な心配はかけないで下さいね! あと、桜も」
「なーんでそこで桜の名前が出るのさ?」
「今回はあなたの機転で助かったけど、これは特別なケースなの。何度もあっていい話じゃないんだからね!」
「でもさ、ママがスマホ家に忘れてなかったら、先生来なくてもよかったんじゃないの~?」
「ぐぅっ……」
英莉子が電話に出られなかったのは、スマホをトイレに置き忘れたまま出勤していたからだった。娘からのカウンターパンチに、思わずぐうの音を発してしまった英莉子であった。
気を取り直そうと、すかさず話題を変える。
「そ、そうだわ先生! 診療費はおいくらお支払いすればよろしいでしょうか?」
「ん? ああ、そんなもんは不要じゃよ。特に治療もしておらんしな」
「さっすが博士先生、太っ腹!」
先生は、桜の言葉に「そうじゃろう!」と応えながら、その本当に太い腹部をポンポンと叩きながら大仰に笑った。
「先生、ほんまありがとう。そしてすまなんだ。また何かあった時は、家族共々よろしゅう頼んます」
「あー、動物側から頼まれごとをされるのも生まれて初めての経験じゃなぁ。やはり調子が狂う……。まぁ、君の口から家族という言葉が出てきておるところをみると、ご家族と良好な関係が築けておるのじゃろうな。私はそこが一番嬉しく思う」
「銀ちゃんは、桜たちの大事な大事な家族だよ! だから、この先もずっと大切にしていきたいです。だから、病気になったら、博士先生がすぐ治してあげてね!」
「うむ。善処すると約束しよう! では、これからも銀ちゃんを大切にしてあげるのじゃぞ」
先生は、手早く片付けを済ませると、午後の診察に向けて大原家を後にした。
その帰り道、空を見上げながら呟く。
「一般家庭でコアラを飼うというのは、やはり犬猫とは全くわけが違うのぉ……。しかも喋るコアラとか……。まぁ何にせよ――何も無いことが一番の便り、No news is good news.じゃな」
「たでーまー! ……って、今日はママも仕事だし、お姉ちゃんも部活でいないんだっけ。銀ちゃんは起きてるかなぁー……って、ウギャー‼」
リビングに入った桜は、思わず絶叫した。床の真ん中に、銀仁朗が突っ伏して倒れていたのだ。その横には、開封された大きな段ボール箱が無造作に置かれている。床には散らばったオリーブの葉が確認できた。
おそるおそる近づいてみると、銀仁朗の指先が、一枚のオリーブの葉を指していることに気づいた。
「ここ、これって、コ◯ンで見たことのある『ダイニング・メッセージ』とかいうやつじゃないのか⁉」
「ゔ、ゔぅ~」
「あ、銀ちゃん生きてんの?」
「い、いぎでるでぇ……」
「なぁんだ」
「な、なんでそこで残念がるねん」
「だって、生きてちゃダイニング・メッセージじゃなくなるじゃん」
「そ、それを言うなら『ダイイング・メッセージ』やろ……がい。ダイニングにしたら、オカンの『チンして食べてね♡』みたいな置き手紙になって……まう……やろがい——」
桜の言い間違いにツッコんだ直後、銀仁朗は再びバタリと倒れ込んだ。
「ぎ、銀ちゃん? え、え、これ普通にヤバいやつじゃね⁈ どどど、どーしよぉー!」
パニックに陥った桜は、リビングを頭を抱えながらグルグルと歩き回った。やがて目が回って転倒してしまう。だが、これが功を奏したのか、ハッと正気を取り戻すと、頭の中にパッと良いアイデアが浮かんだ。
「ゔ~、イテテテ。あっ、そうだ! 博士先生に相談しよう!」
慌ててスマホを探すが、カバンの中にない。
「スマホスマホ~、ってあれれ~、おっかしいぞ~。スマホが鞄の中に無いよ~って、あーっ、今日プールに行くのに忘れて部屋に置いてったんだった!」
ダッシュで自分の部屋に戻り、スマホを手に取る。検索バーに『博士先生』と打ち込むが、該当する病院は出てこない。
「えー、なんで出てこないの? ……あっ、そっか! 博士先生って、桜だけが呼んでるあだ名だった! 凡ミス凡ミス~……って、そんなん言ってる場合じゃないよ‼」
気を取り直して『ABC動物病院』と入力し直す。
「あ、これだ……ってそうだ、ABO動物クリニックだった! また間違えてたー!」
なんとか番号を見つけ出し、電話を掛ける決心をした。家族以外への電話はこれが初めてで、緊張で手が震える。けれど、銀仁朗の姿を見て、意を決して通話ボタンを押した。
「はい、こちらABO動物クリニックです」
「あ、こ、こんにちは……」
「(あら、子どもから?)こんにちは、どうかなさいましたか?」
「あと、えーっと、うちの銀ちゃ、いや、ペットが——」
「銀ちゃ……もしかして、大原さん?」
「あ、はい! あ、受付のお姉さんですか?」
「そうそう。桜ちゃん……だっけ?」
「はい、そうです!」
「どうしたの? コア、じゃなくて、銀ちゃんに何かあったの?」
「さっき帰ってきたら、リビングで倒れてたんです! しかもすごく苦しそうで……」
「えっ⁉ い、息はしてる?」
「うん、さっき少しだけお話ししたけど、また倒れちゃって……」
「ちょっと待ってて、今先生に代わるから」
受付のお姉さんがそう言い残すと、保留音の『エリーゼのために』が流れてきた。状況の深刻さと、初めての電話対応に、桜の心臓は、エリーゼのためにの穏やかな音色と反比例し、まるでパンクドラムのように猛烈な勢いで鼓動を刻み続けていた。
待つこと数十秒。聞き覚えのある男性の声がスマホから聞こえてきた。
「こんにちは、お嬢ちゃん。銀ちゃんの具合が悪いそうじゃが、今どんな状況じゃ?」
「は、はい。今、床に倒れてます……意識はあるけど、ずっと苦しそうです」
「ご家族はおらんのか?」
「みんなお仕事とか学校で、今、家には桜だけです」
「そうか……。ご自宅はここから近かったかの?」
「うん。自転車で五分くらい!」
「……わかった。今は昼休み中じゃから、特別に私が今からそっちへ向かおう」
「ホントに⁉ 博士先生、ありがとう!」
「子ども一人で、銀ちゃんを連れてくるのは大変じゃろうしな。少し準備が必要だから、十五分から二十分ほど待っててくれるか?」
「うん、銀ちゃんのこと、ちゃんと診ておくね!」
「うむ。では頼んだぞ、しっかり者のお嬢ちゃん」
「はい!」
その後、桜は英莉子と玲にも電話をかけてみたが、どちらも繋がらなかった。
正直、一人でこの空間にいるのは心細くてたまらなかった。
けれど――博士先生から銀仁朗の看病を託されたことを思い出し「桜がしっかりしなきゃ……!」
そう自分に言い聞かせながら、懸命に心を落ち着けようと努め続けた。
通話を終えてから約二十分。ようやく、待ち人の訪れを告げるチャイムの音が鳴った。
「はーい!」
「阿保です、大原さん宅であっとるかね?」
「うん、今開けます!」
どうやらエレベーターが混んでいたらしく、エントランスのチャイムが鳴ってから博士先生が家の前まで来るのに三分ほどかかった。
その間、桜は玄関の前を右へ左へと落ち着きなく行ったり来たり。まるで小動物のようにそわそわしていた。
ようやく玄関チャイムが鳴ると、桜はその音が鳴り終わる前にドアの鍵を開け、先生を中へと招き入れた。
「博士先生、こっちです!」
「よし、お邪魔するぞ」
「銀ちゃん、博士先生が診にきてくれたよ! 大丈夫?」
「ゔー、ゔーん……」
「随分と苦しそうじゃな。ちょいと仰向けに姿勢を変えるぞ」
「ゔー、ぐるじ~ぃ」
「(ん? 今、苦しいと言わんかったか? いや、気のせいか)よし、では触診を始めよう。ふむ……腹部がかなり張っておるな。少し発汗もあるが、発熱しとる訳ではなさそうじゃ。嬢ちゃん、銀ちゃんに最近、何か変わったことはなかったかの?」
「うーん……特に何も変わらないと思うけどなぁ」
「いつもと違うものを食べた、とかも?」
「んー、ユーカリの葉が少なくなってきたから、最近はオリーブの葉っぱを食べることが多いよ。こないだも話したけど、小豆島まで行って、いっぱいもらってきたんだ!」
「なるほど、ユーカリだけじゃなくてオリーブの葉も……。コアラがオリーブを食べるなんて、あまり聞かんがのう——」
博士先生が問診を進めていると、玄関のドアがガチャリと開く音がした。
「ただいま。桜、帰ってるみたいね……って、何これ? え、誰の靴⁉ 誰か来てるの!? さ、桜、大丈夫⁉」
英莉子の声が聞こえた瞬間、桜は勢いよく立ち上がって玄関へと走った。
そして、母の姿を見た途端――思わず飛びつき、その胸に顔をうずめた。
次の瞬間、今まで必死に張り詰めてていた心の糸がぷつんと切れ、堰を切ったように涙があふれ出す。
「ぶぇえ~~ん! 銀ぢゃんがぁ~、倒れででぇ~、ぜんぜーがぎでぐれだのぉ~!」
「ちょっ、ちょっと落ち着いて、桜! 銀ちゃんがどうしたって⁉」
「こんにちは、大原さん。お邪魔しとるよ」
「……はっ? えっ⁉ な、何で阿保先生がうちに——」
「お嬢ちゃんからSOSの電話が来てのぉ、銀ちゃんが倒れとると」
「ぎ、銀ちゃんが倒れたですって⁉」
「あぁ、今様子を診ておったところじゃ」
「そ、そんな……。わざわざお越しいただいて……本当に、申し訳ありません!」
英莉子は姿勢を正し、深く頭を下げた。そして顔を上げると、心配そうな表情で先生に問いかけた。
「それで、銀ちゃんは……」
「うーむ。診たところ……ただの食べ過ぎじゃな」
思いがけない拍子抜けの診断結果に、英莉子と桜は同時に「はっ?」と声を揃え、固まった。
「そ、それだけですか? 他に悪いところは……」
「うむ、いたって健康体じゃ。むしろ健康すぎて食欲が止まらなくなったのかもしれん。わっはっはー!」
「ママ、博士先生……なんかごめん」
「お騒がせして、すみませんでした……」
英莉子は先ほどよりもさらに深く頭を下げて謝罪し、桜もそれに倣ってぺこりと頭を下げた。
「よいよい。二人とも、頭を上げなされ。今回は命に別条無かったが、もし本当に何かあったのなら、取り返しがつかんかったかもじゃしのぉ。嬢ちゃんの勇敢な行動力に免じて、お咎めなしということにしようじゃないか。わっはっはー!」
「そう言って頂けると助かります」
「とはいえ、今後は食事管理はきちんとせんとじゃな」
「普段は、そんなに食べ過ぎるなんてことないのに……あっ!」
英莉子が何かに気づき、目を見開いた。
「今朝届いた段ボールが開いてるわ……。桜が開けたの?」
「ううん、帰ってきた時から開いてたよ。あれ、中に何が入ってるの?」
「小豆島から、中矢さんが送ってきてくれたオリーブの葉よ」
「あぁっ! 銀ちゃんが倒れてたとこに、オリーブの葉っぱが散らばってたけど、あれってもしかして、銀ちゃんが勝手に段ボール開けて食べたやつなんじゃない⁉」
その時、床に突っ伏していた銀仁朗が、ゆっくりと起き上がり、観念したよう事のあらましを白状しだした。
「す……すまん。ちょっと、一口だけ思て味見しよったら、これが美味ぁてなぁ。ほんでつい、止められない止まらない状態になってもうたんや……」
「か〇ぱえびせんかっ! もぅダメでしょ、銀ちゃん! せっかく食糧危機を乗り越えたばっかなのに、今度は食べ過ぎでダウンって……洒落にならないわよ‼」
「いや、はい、仰る通りで、返す言葉もございません」
「元はと言えば、私が仕事に行く前に荷物の管理をきちんとしてなかったのもいけなかったから、今回はお説教だけで済ませてあげるけど」
「説教はあるんやな……」
「当然でしょ! 先生にもわざわざ来てもらって、桜にも心配かけたんだから……」
「そだそだー! 桜がどんだけ不安だったか分かるぅ⁉」
英莉子と桜のダブル叱責に耐え切れず、銀仁朗は土下座しながら「ほんっまに、すまんかった!」と叫んだ。
一方でその様子を眺めていた博士先生はというと――あんぐりと口を開けたまま、固まっていた。
その異変に気づいた桜が、そっと先生の白衣の袖を引っ張った。
「博士先生——大丈夫?」
その呼びかけで我に返った先生は、小さく呻くように呟いた。
「……何故コアラが普通にしゃべっとる? しかもそれを誰一人疑問に思っとらんのは一体……」
「あれ? 銀ちゃんお話出来るって、こないだ病院で言わなかったかなぁ?」
「た、確か鳴き声がどうとかいう話はしたような……」
「銀ちゃんは鳴かないよー。普通に喋れるから」
「わ、わしは動物医として四十年近くこの職に就いておる。そのわしが断言する……。銀ちゃんはコアラじゃない!」
「いや、コアラやで。可愛い~いコアラやで♪」
そう言って、銀仁朗は自分なりの可愛いポーズを披露した。
「うーん、そんなに可愛いっていうか、まぁ愛嬌あるって感じ?」
「桜っこ、そこは否定すなや!」
「私も同感ね。癒されるけど……可愛いとはちょっと違うかも」
「母上まで!」
「いやいや、もう……可愛いか可愛くないかとか、そんなのどうでもえぇんじゃ!」
「まさかの先生までもっ!」
「アラが喋るなんて、世界がひっくり返るレベルの一大ニュースじゃぞ! ……そもそも一般家庭で飼ってる時点で異常なんじゃが……」
思わず本音が漏れたその発言に、英莉子は思わずうなずいた。
「ですよねぇ~。……ホント、タブー扱いですよねぇ~」
「うぅむ……。本来なら学会に発表してもおかしくない事例なんじゃが、ご家族のことを考慮すると、秘密にしておくのが最も無難な選択なんじゃろうな……」
「桜達は、世界でたった一匹のしゃべるコアラを匿ってるってことだね! そう考えると、そそるねぇ~」
「何がそそるねぇ~よ。全く……どこでそんな顔芸まで覚えて来るのやら……」
「わっはっはー! やはり、嬢ちゃんは面白いのぉ。まぁ前にも言ったが、くれぐれも銀ちゃんのことは内密にしておくのじゃぞ」
「はい、その様に致します」
「おお、そうじゃった。銀ちゃんの具合じゃが、診た感じでは今は特に問題なさそうじゃ。しばらく安静にしておけば、いずれ元通りになるじゃろう」
「せやな、今はまだ腹パンパンで苦しいけど、寝ときゃそのうちマシになるわ」
先生は動物から直接コメントをもらうという前代未聞の診察に、戸惑いを隠せない様子でこめかみをかきながら呟いた。
「いやはや……動物に返答をもらうと、調子が狂うのぉ……」
「先生、今回はほんまにすまんかった! 今後はこんなことにならんよう、摂生致します」
「銀ちゃん。こういうのは、あなただけの問題じゃないのよ。出来る限り、不要な心配はかけないで下さいね! あと、桜も」
「なーんでそこで桜の名前が出るのさ?」
「今回はあなたの機転で助かったけど、これは特別なケースなの。何度もあっていい話じゃないんだからね!」
「でもさ、ママがスマホ家に忘れてなかったら、先生来なくてもよかったんじゃないの~?」
「ぐぅっ……」
英莉子が電話に出られなかったのは、スマホをトイレに置き忘れたまま出勤していたからだった。娘からのカウンターパンチに、思わずぐうの音を発してしまった英莉子であった。
気を取り直そうと、すかさず話題を変える。
「そ、そうだわ先生! 診療費はおいくらお支払いすればよろしいでしょうか?」
「ん? ああ、そんなもんは不要じゃよ。特に治療もしておらんしな」
「さっすが博士先生、太っ腹!」
先生は、桜の言葉に「そうじゃろう!」と応えながら、その本当に太い腹部をポンポンと叩きながら大仰に笑った。
「先生、ほんまありがとう。そしてすまなんだ。また何かあった時は、家族共々よろしゅう頼んます」
「あー、動物側から頼まれごとをされるのも生まれて初めての経験じゃなぁ。やはり調子が狂う……。まぁ、君の口から家族という言葉が出てきておるところをみると、ご家族と良好な関係が築けておるのじゃろうな。私はそこが一番嬉しく思う」
「銀ちゃんは、桜たちの大事な大事な家族だよ! だから、この先もずっと大切にしていきたいです。だから、病気になったら、博士先生がすぐ治してあげてね!」
「うむ。善処すると約束しよう! では、これからも銀ちゃんを大切にしてあげるのじゃぞ」
先生は、手早く片付けを済ませると、午後の診察に向けて大原家を後にした。
その帰り道、空を見上げながら呟く。
「一般家庭でコアラを飼うというのは、やはり犬猫とは全くわけが違うのぉ……。しかも喋るコアラとか……。まぁ何にせよ――何も無いことが一番の便り、No news is good news.じゃな」
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