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#6 【いなばんちゃんねる】路地裏より【生配信】
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「わぁあああ! すごい! すっごい綺麗だね、おにーちゃん!」
小洒落た洋服を大切そうに抱きしめながら、日菜はニッと笑ってこちらを見た。
心底嬉しそうに笑うから、つられて俺も微笑む。
――言おう。
ぎゅっと拳を握りしめて、投げやりに覚悟をそっと決めた。
「――大丈夫。日菜の病気は、俺が治すよ。だから、大丈夫」
なんて、全部嘘だ。嘘なんだよ。本当は治せない。俺には無理だった。ごめんね、日菜。君はもう、外になんて死ぬまで出られないし、花も見れないし、遊園地にも行けないんだ。
――言わないと。
ぎゅっと唇を噛みしめる。
言えって、早く……。
心地よい風が吹いて、部屋を彩るいくつもの花がなびいた。
甘い匂いが鼻を突く。日菜が自慢げに目を瞑って、すーっと大きく息を吸って、人差し指をピンと立てた。
「すずらん」
日菜の呟きが優しく鼓膜を揺さぶって、ハッと息を呑む。
「え?」聞き返すと、彼女は目を瞑ったまま「ふふん」としたり顔を浮かべた。
「ガーベラ、チューリップ、アネモネ、ペニチュア」ゆっくりと目を開けると、「やった、正解だ」と彼女ははにかんで笑う。
「……嬉しい」日菜は少しだけ鼻をすすると、目をこすって幸せそうに笑った。「また、見れるなんて思ってなかったから。ありがとね、おにーちゃん」
もっと見せたいものが、いっぱいあるんだ。
外に出れば、桜も見れる、もっと綺麗なお花畑にだって行ける。これだけじゃないんだよ。
見せたかった。欲張りさんって、日菜は怒るかもしれないけど。でも、俺は見せたかったんだ。彼女の病気を治して、もっとたくさんのものを、ささやかな幸福なんて、馬鹿になるくらい大きな幸せを、彼女に与えたかった。遊園地に行って、お花畑で駆け回って、家の庭でお花を育てて……。
考えれば考えるほど、キリがないほど幸せな景色が溢れ出て、その全てが泡沫になって消えていく。
出来なかった。俺には、何も。大鬼を前に逃げ出した、せっかくのチャンスを、格上殺しなんて怖いことしたくないって、そんなわがままで棒に振るった。
だから、言わないといけない。正直に、偽り無しで。
「ごめん、日《ひ》――」
「――ねーね、知ってる? おにーちゃん」
日菜は俺の言葉を遮ると、楽しそうに語りだす。
「すずらんの花言葉はね」と。「再び幸せが訪れる、なんだよ」
「――知ってるか、日菜」不意に過去の記憶が脳裏をよぎって、瞳孔がゆっくりと開かれていくのが分かった。「――花にはな、花言葉ってのがあるんだ」
爽やかな風が首筋を掠める。窓を締め切っていたカーテンが勢いよく風になびいて、ベッドに横たわる彼女の背に晴れやかな青空が広がる。
「でね」日菜は楽しそうに続けた。「ピンク色のチューリップは、誠実な愛」
「――花言葉?」記憶の中の小さな日菜は、わくわくに目を輝かせて、「じゃあ」と俺の裾を引っ張った。「――あの花言葉はなに!? ねえ、おにーちゃん!」
「――ああ、あれか?」毅然とした態度で取り繕ったけど、お生憎様、その花の名前など知らなくて、でも妹の前で格好つけたい俺は、確か嘘をついた。ガキみたいな話だけど。
日菜は青空の中心で、太陽のような笑みを浮かべた。
「紫のアネモネは、あなたを信じて待つ。あと、最後はね」
「――あれな、あれはだな、えっと、ええっと、あの花の花言葉はだな」
病室の窓際。最後に残った赤色の花を見て、ハッとなった。記憶の中にある花とそれが、重なったからだ。
泣き崩れる俺の頬を撫でながら、日菜は優しく呟いた。
「赤いペニチュアの花言葉はね――」と。
「「――最後まで頑張る」」
記憶の中の俺と今の日菜の言葉が重なる。
日菜はぽんぽんと俺の頭を優しく叩くと、いたずらに笑った。
「惜しかったね、お兄ちゃん。正解は、『諦めない』なんだよ」と、見透かしたように。「昔からおにーちゃんは、強がって……嘘をつくのが、下手だなぁ」
ああ……。
「分かってるよ。だから大丈夫。……日菜の病気、治んないんだよね」
「ごめん……ごめん、俺、日菜、ごめん、おにーちゃん、ほんとは、もっと、もっと……」
謝るとか、何を今更。また、言い訳を重ねようとして。なんで、なんでだよ。なんでなんだよ。……なんで俺は、こんなダメなやつなんだよ。
ごめん、ごめん、ごめん。
俺が君のおにーちゃんで、ごめん。
膝から崩れ落ちて、俺は情けないほどに泣きじゃくった。だらしなく妹にしがみついて、ガキのように泣いた。
そっか、そうだよな。
ずっと、バレてたよな。
無責任に、日菜の病気は治るなんて、嘘ついて。
ほんと、クソみたいなおにーちゃんだ。なのに日菜は、ずっと騙されたふりをして、俺のこと、励ましてくれて……。
もう、返しても返しきれないくらい、貰ってる。
じゃあ――どう返せば良い?
疲れて眠ってしまった日菜の姿を見て、ゆっくりと息を吐く。
顔の半分の皮膚が緑色に変色し、皮膚がただれ、関節がありえないほど肥大化して、手足を鎖で拘束された少女の姿を見て、それから奥歯を噛みしめた。
医者の声が脳内で反芻する。
「――妹さんは残念ながら、約一年かけて少しずつ、魔物に至ります。完全に魔物となり、人間としての意識を失い誰かを襲うようなことが起きる前に、安楽死をしていただくということになっておりまして。よろしければ、こちらの同意書に署名して、妹さんの安楽死の許可を」
あの時握りしめたペンの重さを、ふと思い出した。
あのときの俺は無力で、のくせに強欲だった。もしくは自惚れていた。シンデレラを夢見る少女のように、己を悲劇のヒロインかなにかだと勘違いしていた。でも、違った。
君に、してやれること。
暮れなずむ空の日を浴びて、赤いペニチュアが漲るように花弁を広げている。
「……諦めない」鼻をすすりながら、日菜のゴツゴツした手をぎゅっと握りしめて、繰り返すように呟いた。「諦めない」もう一度言葉にすると、妙にしっくりきた。
日菜を世界で一番幸せな女の子にする。欲しいものはなんでも買ってやる。金とかじゃない、本当に大切なもの、みたいな。俺には、よくわかんないけど。でもきっと、正直になって寄り添えば、少しずつ分かってくる。そしてそれと同時に、もう一度、1億を稼ぐ。
まったくもって諦めの悪いやつだと、己のことながら吹き出すように笑った。でもやっぱ、諦めきれる訳なんてないと再認識出来たんだから、もう、逃げない。
俺はここぞという場面で誤った選択を取ってしまう。
そんな人生を繰り返してきた。今日もまた、間違えた。
いつからだっけ。そう思うことがよくある。いつからこんな、腐った人間になったんだっけ、と。
きっと、少しずつだ。選択を間違えるたびに腐っていく。そして今日もまた、少し腐った。
でも、取り返しのつく間違えってのは多分、ある。
「おやすみ、日菜」
声をかけて病室を出る。時刻は16時。17時から近場のカフェでバイトだから、大体50分くらいは暇な算段だ。
懐からスマホを取り出して、おもむろにMeTubeを開いた。
配信準備の画面を開く。
それからふと人目が気になって、路地裏に逃げ込んだ。カラスが床に散らかったゴミを啄んでいる。鼻をくすぐる生臭い風に顔をしかめながら、配信設定を決めていく。
最後にタイトル。何にしようか。誠実に行くか、ネタに全振りするか。
悩みながらぼーっと歩いていると、ぬるりと滑らかな感触が足裏にあった。バナナの皮である。気づいたときには遅かった。
「どぅわっ!?」
視界が茜空を捉える。落っことさないようにしっかりとスマホを握り直すと、ピッ、と可愛らしい電子音が響いた。
「ガッ!?」
幸い痛みはなかった。その代わりに、尻が柔らかで濡れた何かを押す感覚があった。かつ、尻を何かが覆う感覚があった。というか、すっぽりはまってね?
視線をゆっくりと下げる。すると、見事に青いバケツみたいなゴミ箱に尻がはまっていた。
「うわぁあああああ!?」
慌てふためき叫び声を上げてもがく。しかしバランスを崩して、尻がはまったまま地面に転がった。ごろごろと尻にゴミ箱をはめたまま転がっていく。
「あー……くっそ」
溢れ出たゴミが吐瀉物みたいに撒き散らされて、群れたカラスがそれを啄みにやってくる。……俺も仲間と思われているらしい。優しいカラスが一匹、啄んだゴミを俺の口に押し付けてきた。
「やめろよ、まったく……」
ため息を付きながら見上げた空は、青く、青く澄み渡っていて。何気なく手を伸ばしたら、その遠さに少しだけ、笑いたくなった。
ピピッ!
電子音を響かせて、安物の浮遊カメラが青空を遮って視界に飛び込んでくる。……まさか、配信付いてる!?
咄嗟に耳元に小型インカムをつけて、『配信モード』をオンにする。瞬間、まさしく世界が”一変”した。ハッと息を呑んだ音が、吹き抜ける風にかき消される。
『キタァァァァア!』『飛んできた!』『さあ見せてくれ!格上殺し』『どんなスタートwww』『まさしく最弱にふさわしいリスタートwww』『ゴミ箱に埋まってらwww』『カラスに仲間だと思われてるwww』『可愛い可愛い可愛い可愛い』『稲葉きゅん飼いたい……』『←通報しといて』『やってくれると思ってた』『心配だけどまじで頑張れ』『応援してるぞ、格上殺し!!』『応援してる!』『頑張れ!』『もう逃げんなよ!』『応援してるぞ!』
澄み渡る一面の青空を、あまねく埋め尽くすほどの称賛《コメント》。
その全てが、一斉に視界になだれ込んだ。
目の縁がじわりと熱くなる。……こんなにも、応援してくれる人がいる。逃げ出した俺を、受け入れてくれる人がいる。
面食らったようにコメントに見入っていると、すぐ横でまた音が鳴った。
ピーピピ、ピピッ!
二つの電子音が重なり響く。
「おにーさん、おにーさん」
背後から声をかけられ、ハッとなる。
聞き覚えのある声。
振り返れば、見覚えのあるピンク髪の少女がいる。
彼女はとぼける俺に向かって、ニッと笑ってみせた。
「もしかして、私が誰か分からない? だったら――」
懐から猫耳のカチューシャを取り出すと、彼女はそれを恥ずかしげもなく装着する。
「――こうしたら、分かるかにゃ?」
驚き固まっていると、彼女は悪巧みする少年のような囁き声で俺を誘った。
「ヒヨりんは金儲けの天才にして、人の才能を見抜く天才にゃ。そんな私の嗅覚が言ってるのにゃ。……お前、稼げるにゃよ、1億」
「……え?」
……稼げる? 俺が? ……本当に?
「――よろしければ、こちらの同意書に署名して、妹さんの安楽死の許可を」
あの日握りしめたペンの重さを、無力感を思い出すように、ぎゅっと拳を握りしめていた。
稼げるわけがない。節約だの死体漁りだの小細工を繰り返しながら、漠然と思っていた。がむしゃらだった。……暗闇の中を手探りで進むように、ただ1億を稼ぐために走ってきた。心の何処かで諦めながら、走っていた。
それが、ようやく、今……。
ぐっと涙をこらえて、腕で目を覆い隠した。涙が溢れないように空を向く。
もし、まだ、チャンスがあるのなら。今度はもう、間違えないから。
もし、これが間違えだとしたのなら。それでももう、構わないから。
あまりにも飄々と、呆気なく。
「で、やるにゃ? 格上殺し」
俺の人生が、変わりだす。
差し出されたヒヨりんの手に腕を伸ばす。掴みかけた手を、寸前で止めた。
スマホがメールを受信する。
『お前、俺抜きで勝手なことしたらぶっ殺すからな』
【シーカーズ】リーダー担当、タカシ。受信したのは、彼からのメールだった。
小洒落た洋服を大切そうに抱きしめながら、日菜はニッと笑ってこちらを見た。
心底嬉しそうに笑うから、つられて俺も微笑む。
――言おう。
ぎゅっと拳を握りしめて、投げやりに覚悟をそっと決めた。
「――大丈夫。日菜の病気は、俺が治すよ。だから、大丈夫」
なんて、全部嘘だ。嘘なんだよ。本当は治せない。俺には無理だった。ごめんね、日菜。君はもう、外になんて死ぬまで出られないし、花も見れないし、遊園地にも行けないんだ。
――言わないと。
ぎゅっと唇を噛みしめる。
言えって、早く……。
心地よい風が吹いて、部屋を彩るいくつもの花がなびいた。
甘い匂いが鼻を突く。日菜が自慢げに目を瞑って、すーっと大きく息を吸って、人差し指をピンと立てた。
「すずらん」
日菜の呟きが優しく鼓膜を揺さぶって、ハッと息を呑む。
「え?」聞き返すと、彼女は目を瞑ったまま「ふふん」としたり顔を浮かべた。
「ガーベラ、チューリップ、アネモネ、ペニチュア」ゆっくりと目を開けると、「やった、正解だ」と彼女ははにかんで笑う。
「……嬉しい」日菜は少しだけ鼻をすすると、目をこすって幸せそうに笑った。「また、見れるなんて思ってなかったから。ありがとね、おにーちゃん」
もっと見せたいものが、いっぱいあるんだ。
外に出れば、桜も見れる、もっと綺麗なお花畑にだって行ける。これだけじゃないんだよ。
見せたかった。欲張りさんって、日菜は怒るかもしれないけど。でも、俺は見せたかったんだ。彼女の病気を治して、もっとたくさんのものを、ささやかな幸福なんて、馬鹿になるくらい大きな幸せを、彼女に与えたかった。遊園地に行って、お花畑で駆け回って、家の庭でお花を育てて……。
考えれば考えるほど、キリがないほど幸せな景色が溢れ出て、その全てが泡沫になって消えていく。
出来なかった。俺には、何も。大鬼を前に逃げ出した、せっかくのチャンスを、格上殺しなんて怖いことしたくないって、そんなわがままで棒に振るった。
だから、言わないといけない。正直に、偽り無しで。
「ごめん、日《ひ》――」
「――ねーね、知ってる? おにーちゃん」
日菜は俺の言葉を遮ると、楽しそうに語りだす。
「すずらんの花言葉はね」と。「再び幸せが訪れる、なんだよ」
「――知ってるか、日菜」不意に過去の記憶が脳裏をよぎって、瞳孔がゆっくりと開かれていくのが分かった。「――花にはな、花言葉ってのがあるんだ」
爽やかな風が首筋を掠める。窓を締め切っていたカーテンが勢いよく風になびいて、ベッドに横たわる彼女の背に晴れやかな青空が広がる。
「でね」日菜は楽しそうに続けた。「ピンク色のチューリップは、誠実な愛」
「――花言葉?」記憶の中の小さな日菜は、わくわくに目を輝かせて、「じゃあ」と俺の裾を引っ張った。「――あの花言葉はなに!? ねえ、おにーちゃん!」
「――ああ、あれか?」毅然とした態度で取り繕ったけど、お生憎様、その花の名前など知らなくて、でも妹の前で格好つけたい俺は、確か嘘をついた。ガキみたいな話だけど。
日菜は青空の中心で、太陽のような笑みを浮かべた。
「紫のアネモネは、あなたを信じて待つ。あと、最後はね」
「――あれな、あれはだな、えっと、ええっと、あの花の花言葉はだな」
病室の窓際。最後に残った赤色の花を見て、ハッとなった。記憶の中にある花とそれが、重なったからだ。
泣き崩れる俺の頬を撫でながら、日菜は優しく呟いた。
「赤いペニチュアの花言葉はね――」と。
「「――最後まで頑張る」」
記憶の中の俺と今の日菜の言葉が重なる。
日菜はぽんぽんと俺の頭を優しく叩くと、いたずらに笑った。
「惜しかったね、お兄ちゃん。正解は、『諦めない』なんだよ」と、見透かしたように。「昔からおにーちゃんは、強がって……嘘をつくのが、下手だなぁ」
ああ……。
「分かってるよ。だから大丈夫。……日菜の病気、治んないんだよね」
「ごめん……ごめん、俺、日菜、ごめん、おにーちゃん、ほんとは、もっと、もっと……」
謝るとか、何を今更。また、言い訳を重ねようとして。なんで、なんでだよ。なんでなんだよ。……なんで俺は、こんなダメなやつなんだよ。
ごめん、ごめん、ごめん。
俺が君のおにーちゃんで、ごめん。
膝から崩れ落ちて、俺は情けないほどに泣きじゃくった。だらしなく妹にしがみついて、ガキのように泣いた。
そっか、そうだよな。
ずっと、バレてたよな。
無責任に、日菜の病気は治るなんて、嘘ついて。
ほんと、クソみたいなおにーちゃんだ。なのに日菜は、ずっと騙されたふりをして、俺のこと、励ましてくれて……。
もう、返しても返しきれないくらい、貰ってる。
じゃあ――どう返せば良い?
疲れて眠ってしまった日菜の姿を見て、ゆっくりと息を吐く。
顔の半分の皮膚が緑色に変色し、皮膚がただれ、関節がありえないほど肥大化して、手足を鎖で拘束された少女の姿を見て、それから奥歯を噛みしめた。
医者の声が脳内で反芻する。
「――妹さんは残念ながら、約一年かけて少しずつ、魔物に至ります。完全に魔物となり、人間としての意識を失い誰かを襲うようなことが起きる前に、安楽死をしていただくということになっておりまして。よろしければ、こちらの同意書に署名して、妹さんの安楽死の許可を」
あの時握りしめたペンの重さを、ふと思い出した。
あのときの俺は無力で、のくせに強欲だった。もしくは自惚れていた。シンデレラを夢見る少女のように、己を悲劇のヒロインかなにかだと勘違いしていた。でも、違った。
君に、してやれること。
暮れなずむ空の日を浴びて、赤いペニチュアが漲るように花弁を広げている。
「……諦めない」鼻をすすりながら、日菜のゴツゴツした手をぎゅっと握りしめて、繰り返すように呟いた。「諦めない」もう一度言葉にすると、妙にしっくりきた。
日菜を世界で一番幸せな女の子にする。欲しいものはなんでも買ってやる。金とかじゃない、本当に大切なもの、みたいな。俺には、よくわかんないけど。でもきっと、正直になって寄り添えば、少しずつ分かってくる。そしてそれと同時に、もう一度、1億を稼ぐ。
まったくもって諦めの悪いやつだと、己のことながら吹き出すように笑った。でもやっぱ、諦めきれる訳なんてないと再認識出来たんだから、もう、逃げない。
俺はここぞという場面で誤った選択を取ってしまう。
そんな人生を繰り返してきた。今日もまた、間違えた。
いつからだっけ。そう思うことがよくある。いつからこんな、腐った人間になったんだっけ、と。
きっと、少しずつだ。選択を間違えるたびに腐っていく。そして今日もまた、少し腐った。
でも、取り返しのつく間違えってのは多分、ある。
「おやすみ、日菜」
声をかけて病室を出る。時刻は16時。17時から近場のカフェでバイトだから、大体50分くらいは暇な算段だ。
懐からスマホを取り出して、おもむろにMeTubeを開いた。
配信準備の画面を開く。
それからふと人目が気になって、路地裏に逃げ込んだ。カラスが床に散らかったゴミを啄んでいる。鼻をくすぐる生臭い風に顔をしかめながら、配信設定を決めていく。
最後にタイトル。何にしようか。誠実に行くか、ネタに全振りするか。
悩みながらぼーっと歩いていると、ぬるりと滑らかな感触が足裏にあった。バナナの皮である。気づいたときには遅かった。
「どぅわっ!?」
視界が茜空を捉える。落っことさないようにしっかりとスマホを握り直すと、ピッ、と可愛らしい電子音が響いた。
「ガッ!?」
幸い痛みはなかった。その代わりに、尻が柔らかで濡れた何かを押す感覚があった。かつ、尻を何かが覆う感覚があった。というか、すっぽりはまってね?
視線をゆっくりと下げる。すると、見事に青いバケツみたいなゴミ箱に尻がはまっていた。
「うわぁあああああ!?」
慌てふためき叫び声を上げてもがく。しかしバランスを崩して、尻がはまったまま地面に転がった。ごろごろと尻にゴミ箱をはめたまま転がっていく。
「あー……くっそ」
溢れ出たゴミが吐瀉物みたいに撒き散らされて、群れたカラスがそれを啄みにやってくる。……俺も仲間と思われているらしい。優しいカラスが一匹、啄んだゴミを俺の口に押し付けてきた。
「やめろよ、まったく……」
ため息を付きながら見上げた空は、青く、青く澄み渡っていて。何気なく手を伸ばしたら、その遠さに少しだけ、笑いたくなった。
ピピッ!
電子音を響かせて、安物の浮遊カメラが青空を遮って視界に飛び込んでくる。……まさか、配信付いてる!?
咄嗟に耳元に小型インカムをつけて、『配信モード』をオンにする。瞬間、まさしく世界が”一変”した。ハッと息を呑んだ音が、吹き抜ける風にかき消される。
『キタァァァァア!』『飛んできた!』『さあ見せてくれ!格上殺し』『どんなスタートwww』『まさしく最弱にふさわしいリスタートwww』『ゴミ箱に埋まってらwww』『カラスに仲間だと思われてるwww』『可愛い可愛い可愛い可愛い』『稲葉きゅん飼いたい……』『←通報しといて』『やってくれると思ってた』『心配だけどまじで頑張れ』『応援してるぞ、格上殺し!!』『応援してる!』『頑張れ!』『もう逃げんなよ!』『応援してるぞ!』
澄み渡る一面の青空を、あまねく埋め尽くすほどの称賛《コメント》。
その全てが、一斉に視界になだれ込んだ。
目の縁がじわりと熱くなる。……こんなにも、応援してくれる人がいる。逃げ出した俺を、受け入れてくれる人がいる。
面食らったようにコメントに見入っていると、すぐ横でまた音が鳴った。
ピーピピ、ピピッ!
二つの電子音が重なり響く。
「おにーさん、おにーさん」
背後から声をかけられ、ハッとなる。
聞き覚えのある声。
振り返れば、見覚えのあるピンク髪の少女がいる。
彼女はとぼける俺に向かって、ニッと笑ってみせた。
「もしかして、私が誰か分からない? だったら――」
懐から猫耳のカチューシャを取り出すと、彼女はそれを恥ずかしげもなく装着する。
「――こうしたら、分かるかにゃ?」
驚き固まっていると、彼女は悪巧みする少年のような囁き声で俺を誘った。
「ヒヨりんは金儲けの天才にして、人の才能を見抜く天才にゃ。そんな私の嗅覚が言ってるのにゃ。……お前、稼げるにゃよ、1億」
「……え?」
……稼げる? 俺が? ……本当に?
「――よろしければ、こちらの同意書に署名して、妹さんの安楽死の許可を」
あの日握りしめたペンの重さを、無力感を思い出すように、ぎゅっと拳を握りしめていた。
稼げるわけがない。節約だの死体漁りだの小細工を繰り返しながら、漠然と思っていた。がむしゃらだった。……暗闇の中を手探りで進むように、ただ1億を稼ぐために走ってきた。心の何処かで諦めながら、走っていた。
それが、ようやく、今……。
ぐっと涙をこらえて、腕で目を覆い隠した。涙が溢れないように空を向く。
もし、まだ、チャンスがあるのなら。今度はもう、間違えないから。
もし、これが間違えだとしたのなら。それでももう、構わないから。
あまりにも飄々と、呆気なく。
「で、やるにゃ? 格上殺し」
俺の人生が、変わりだす。
差し出されたヒヨりんの手に腕を伸ばす。掴みかけた手を、寸前で止めた。
スマホがメールを受信する。
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