故国の仇が可哀想すぎて殺せない~愛は世界を救う。たぶん、~

百花

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第四十一話 傷跡

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 私は道のない山の中を今日も歩き回っていた。この周囲には罠が沢山仕掛けてあって、獣や人が餌食になっていないか確認しなければならないからだ。
 カシュパルには念の為場所を教えておいたが、果たしてこの数の全てを正確に覚えられただろうか。
 少し考えて、余計な心配はしない事にした。不必要に彼が山に入る事もないし、有事がなければ春には全て解除する罠だ。
 もう少しすれば初雪が降るだろう。そうすればもう地面は一面真っ白になって、そこに新たに降り積もる事はあれど消える事は春までない。
 そうなれば注意すれば微かに分かる罠の痕跡も全て雪に消えてしまって、見た目では何処にあるか全く分からなくなる。
 深く積もる雪は人の往来を最小限にし、どんな追手の追跡も困難にさせるだろう。
 今度の冬は私にとって何よりも心強い味方になってくれる筈だった。
 木々の間を歩いていると、突如として嫌な臭いが鼻に届き少し顔を顰める。

「『山守』の出番か」

 悪臭を辿って行った先に、黒く変色して不気味な靄を生み出している地面があった。
 これは瘴気溜まりだ。放っておけば結晶化し、獣や鳥、時には植物が体に取り込んで魔物になってしまう。
 本来、山守とは獣を狩り木々の管理をするだけでなく、このような瘴気溜まりを魔物になる前に払う役目も負っていた。
 適切な管理をする山守がいれば、周囲には魔物が生まれず人の定住が可能になる。
 人間と言う種族が獣人よりも人口が圧倒的に多いのは寿命の違いによるものかもしれないが、その数の多さが定住地を増やし豊かな食料の生産を可能にしていた。
 私は懐から取り出した文様を刻んである小刀に魔力を通し地面に突き刺せば、不穏な靄と変色は直ぐに消えてしまった。

「昔よりも増えている気がするな」

 比較したのはカシュパルが幼かった頃の事である。少しの間アリストラ国の山の中で生活していたが、その時よりも瘴気溜まりの頻度が増えた気がした。
 王族が維持しているという結界に何か問題があったのだろうか。
 結界が存在する事で瘴気溜まりの発生が抑制されていると神殿にいた頃習ったのに。
 けれど原因を考えるのは止めた。私にどうにか出来る事ではないし、ただの気のせいかもしれないと思ったからだ。
 それでも別の場所に瘴気溜まりが出来ていないかと、いつもと違うルートで家に帰る事にする。
 足を動かすだけの単調な作業。こんな時空いた頭には最近カシュパルばかり浮かんでくる。
 勝手に愛するとの強い言葉に身構えてしまっていたのだが、彼の愛し方は言葉とは裏腹に随分と優しかった。
 私から離れる事以外であれば困る事、嫌がる事は一切せずただ驚くべき配慮で私の負荷を軽くしてくれる。
 そしてふと気がつくと宝石の様な紫の目を私に向けて細めているのだ。
 口にせずとも伝わる彼の情愛。実際、私が思わず目を奪われてしまっている事に少し笑いながら、その薄い唇で愛を囁く事もあった。
 すっかり心の内側に入れてしまっているカシュパルに対し、拒否感や嫌悪感など持つ筈もない。

 困った事になった。

 そう思う事自体が既に変化の兆しであるとも気がつかず、私は深く思考に耽りながらただ足を動かす。
 川沿いに道を歩いていた時、不自然に大きな水音がした。急いで警戒しつつ岩陰に身を隠す。

 熊か不審者か。

 腰の剣に手を伸ばし、居場所がばれないようにそっと顔を岩から出す。
 目に飛び込んできたのは、この寒々しい季節に上半身が裸の姿で髪を洗うカシュパルの姿だった。
 服の下に隠されていた鍛え上げられた筋肉は、完成されていて人の目を奪う引力を持つ。一切無駄のない戦う為の体である。
 けれど何よりも私が驚いたのは、その体に刻まれた傷の多さだった。
 明らかに別れた時よりも多いそれが、離れていた間のカシュパルの辿った過酷さを物語る。
 カシュパルは私に気がつくと誘うように笑った。

「何だ。興味があるならいくらでも見せてやるのに」

 そんな冗談を笑う気分にもなれず、ただ辛い気持ちで拳を握りしめた。

「……どうしてそんな傷だらけなんだ」

 これが魔物狩人としての傷であれば、此処まで衝撃を受けなかっただろう。けれど自身も戦ってきたからよく分かる。これは魔物がつけた傷だけではない。

「斬られた傷ばっかりじゃないか」

 ヨナーシュ国で誰かに傷つけられた? そんな訳がない。竜人であるカシュパルに誰が剣を向ける。
 ならばこれは、アリストラ国でつけられた傷に違いなかった。
 苦労しただろう。私が思っていたよりもずっと。
 斬られた傷がある場所は背中ばかりで、それが正面から戦ったからではなく、裏切られるか不意を突かれてつけられた傷である事を教えてくれる。

「やっぱりお前は、この国に来るべきじゃなかった」

 こうなる事は明白だったから、私はカシュパルを連れて来たくなかった。

 私の可愛いカシュパル。幸せになってくれる事を願っていたのに、どうして上手くいかないのだろう。

 唇を噛み締め、俯く私の前に髪を濡らしたままの彼が静かに近寄った。

「怪我よりも、もっと辛かった事がある」

 気づけばカシュパルは目の前で、陶酔するような表情で私の頬に手を伸ばした。

「名前を呼んでもセレナの声が聞こえない事。落ち込んでも頭を撫でる手がない事。俺を見て細められる金の目を見られない事。それに比べれば、こんなものは苦痛の内にも入らない」

 彼の長く骨ばった指が頬を撫でたかと思うと、そっと柔らかさを確かめるかのように唇に触れていく。

「愛してる。恐らくは貴女が思うよりも遥かに」

 口づけをしたいと言葉で語らず、その指で熱烈に請われている。
 じわりと沁み込んでいく。カシュパルの意味する愛が。
 それは私が与えた物と似ているようで、全く違っていた。
 綺麗なだけではなかった。欲望や憎しみすらも飲み込んで、煮詰まったかのような密度の濃い感情。
 広く浅く万人に向けられる物ではない。たった一人だけの為の物。
 それが自分に惜しみなく注がれて、心の中の誰にも許さなかった領域に踏み込もうとしてくるのが分かった。
 長い睫毛に装飾された紫の瞳が魂を奪われたかのように私を見ていて、その美しさに眩暈がした。
 恐るべき魅力を持つ彼に全力で求められ、私の浅ましい欲望がぐらくらと揺れる。今や隠そうともしない彼の愛は実に深く広大で、一歩足を踏み出しただけで何処までも落ちてしまいそうな予感がした。
 けれどそれを精一杯押しのけて、必死で距離を取ろうとする。

 だって私は、彼を殺そうとした。許される筈がなかった。

 私は堪らなくなって、彼の指を嫌がるように顔を背ける。

「セレナ」

 カシュパルは片眉を上げ、次いで苦笑しながら言った。

「愛してると言ってくれないか。昔みたいに」

 妥協するかのような言葉だった。同じ言葉でも昔彼に言っていたのは、家族に対する言葉だと知っている筈なのに。
 けれど過去には何度も言った筈の言葉がどうしても言えなくて、私はカシュパルに背を向けてあえてぶっきらぼうに言い放った。

「先に帰る」

 足を踏みしめて前を向く。自分がどんな顔をしているか分からない。
 カシュパルに此処までされる資格なんて、自分にはなかった。
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